September.6,2002 パット・トラヴァースの『The Pain』

        うかつなことに、この夏、パット・トラヴァースが来日していたことに気がつかなかった。何年もの間、来日を待ちわびていたというのに何ということだ! 初来日なのである。もっとも私は彼のライヴを一度見ている。

        パット・トラヴァースの名前は80年代から記憶はある。もっとも当時はハード・ロックを演っているニーチャンという程度の知識しかなく、音を聴いたこともなかった。1994年ごろだったと思う。 CDショップのワゴンセールを眺めていたときだった。『Blues Tracks』というタイトルのCDが目に飛び込んできた。新旧のブルースのカヴァーがズラリと並んでいる。へえー、誰のCDなんだろうと見てみると、Pat Traversの名前が。かなり安く売られていたので迷わずに購入して聴いてみた。なかなかいいのだこれが。原曲を壊すことなく、パット・トラヴァースなりの解釈を加えた、いいアルバムだった。

        それまで、まったく感心がなかったパット・トラヴァースに俄然、興味が沸いてきた。『Blues Track』は1992年の作品。大手のCDシッョプで翌93年に発売された『Just A Touch』を見つけて買ったのは当然の成り行きだった。このアルバムは前作でブルースに向ったパットがオリジナルのブルースに挑戦した意欲作だった。そして私はこのCDの4曲目『The Pain』にノックアウトされてしまった。『The Pain』はスロー・ブルースである。思い入れたっぷりなギターソロから、パットの搾り出すようなヴォーカルが流れてくると、私は今でも、反射的にウルッとくる。間奏部分の泣きのギターが鳴り渡るころには涙が浮かんでしまう。2コーラス目の歌のあとに、またフェイドアウトまで続くギター・ソロも圧巻である。このまま次の曲に行くのが惜しくて、ついついこの曲ばかりリフレインして聴いてしまう。これはもう、私の永遠の名曲の一曲として、事あるごとに愛聴している。

        一度、ナマでパットの演奏を聴きたい。その望みは、案外早くやってきた。1995年の夏のことだった。店を改装するのに2ヶ月の暇が出来た。自分の人生でおそらく、これほどの時間が取れるのは、これがラストチャンスだと思えた。やりたいことをやっておこう。海外旅行も経験しよう。こうして、ニューヨークに8日間。ベルリンとイスタンブールに計2週間。香港に5日間というスケジュールをたてた。ベルリンでは、古くからの友人を訪ねて、街を散歩したり、一緒にお茶を飲んだりした。ハンブルグやドレスデンへの旅もした。別に名所旧跡には興味がない方なので、ひとりのときは、これといったアテもなく街をブラブラ歩いていた。

        そんなある日、料金に含まれているホテルの朝食を済ませて、ロビーのタウン誌を眺めていたときだ。もちろんドイツ語など読めないが、エンターテイメントのページを見ていた私の目にPat Traversの文字が飛び込んできた。どうやら、パットが、ここベルリンでライヴを演るらしい。しかも、この雑誌を見た、その日の夜一日限りのことだとわかった。

        私はライヴが行われる会場の住所を書き取り、地図を頼りに早い時間から、その場所に向った。そこはいわゆる日本でいうライヴハウス。開場までの間、近くをウロウロして時間を潰した。パット・トラヴァースのライヴだもの、きっと長蛇の列が出来ていると思った。もう前売りだけでいっぱいで、私が入れる余裕は無いかもしれない。しかしいつになってもライヴハウスの前は人だかりが無い。15人程度の若者がたむろしているだけである。開場時間は、確か午後8時すぎだったと思う。午後8時と言っても、まだ外は明るかった。このときのベルリンは真っ暗になるのが午後10時。午後8時は十分にまだ昼間のような明るさだ。

        ライヴハウスの扉が開き、列らしき列も無いまま店に入った。料金は日本円にして1500円程度だったと思う。当時1ドルが80円という最高の円高だったにしても、これは破格に安い。日本のライヴハウスと違ってドリンクは含まれていない。別に強制的にドリンクを頼む必要はないようだったが、バーのカウンターに向いビールを注文した。ほとんどソフトドリンクと同じ程度の料金だった。

        ステージはバーの奥にあるのだが、開演前とあって誰も行こうとしない。お客さんはみんなバーで、それぞれの飲み物を手に談笑している。ひとりでやってきた日本人の私は手持ち無沙汰なのでステージの方へ。低いステージの前はスタンディングの空間があり、そのうしろにはひな壇のような客席が急角度で4〜5段ついていた。私はこのひな壇の一番上に陣取り、開演を待った。お客さんは時間が経つうちにだんだんと増えてきた。しかし、そんなに多くは無い。最終的には50人程度入ったくらいだったろう。おいおい、かのパット・トラヴァースだぜ。なんでこんな程度しか客が来ない? おそらく東京でパット・トラヴァースが演ったら大入りどころの騒ぎではなかったろうにと思う。

        ライヴが始まったのは9時ごろだったろうか? 二階にあるらしい控え室からパット・トラヴァースのトリオが出てきた。バーにいた客がゾロゾロとグラスを片手にフロアに集まってくる。何の気負いも感じられない自然体のままに、パットはアップテンポの曲から入っていった。曲が進むうちに、もちろん『The Pain』も演ってくれた。ベルリンのライヴハウスという思ってもみなかった空間で、私はビールを啜りながらパットのブルースに酔った。『The Pain』は、やはり心に染み渡るように入ってきた。いつしか涙が浮かんでいた。ビールは苦く、ちょっぴり、しょっぱかった。

        今でも、パット・トラヴァースの新作を見かけると、ついつい買ってしまう。ただ、あの『The Pain』のような傑作は見当たらない。1997年のアルバム『Best Of The Blues Plus Live!』のライヴ・トラックスにも『The Pain』は収録されている。やっぱりパットとしても、これは自信作だったに違いない。

        このベルリンのライヴハウスでの経験は、このあとさらに話が続くのだが、それは次回にまた。


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