September.24,2001 漫画的表現に着いて来られるかがポイント?

        矢口史靖の新作『ウォーターボーイズ』が、映画評論家先生の間であまり評判がよくないので心配していたのだが、見に行ったらこれが例によっての矢口節で、私は結構楽しんでしまった。割と好評なのがラスト10分のシンクロナイズド・スイミングのシーンで、割と褒めている人が多い。中には、それに到る前置きが長くて取って付けたようというだという評論を見たが、この人は矢口監督の笑いを受け入れられない人なのだろう。

        劇場で売っていたパンフレットによると、矢口監督はピエール瀧との対談の中で、こう述べている。「観た人に漫画的とか言われますけど、実際僕はあまり漫画を読まないので、その理由はどこにあるのか、実はすごく不思議だったんです。もしかしたら発想が似てるのかな?」 私も矢口史靖の映画を見ていると、これは漫画なんだなと思うことがよくある。『ウォーターボーイズ』のそもそもの発端は、男子校にグラマーで美人の教師がやってくることから始まる。この先生(眞鍋かをり)、水泳部の顧問をやりたいと言い出す。ところが水泳部は部員ひとり。もう廃部寸前だ。ところがゲンキンなもので、この先生が顧問となるとドッと部員が集まる。さあ、最初の練習日。水着姿の先生に、新入部員たちは興奮。ところが教えようとしていたはずの先生が突然泣き出してしまう。「ダメだわ、私には教えられない! 男子生徒には教えられないわ!」 どうしたのかと先生を取り囲む生徒。「大丈夫ですよ、ボクたち付いていきますから」 ころっと笑顔になった先生、「実はね、先生、これを教えたかったの」とビデオを見せると、それは何とシンクロナイズド・スイミング。蜘蛛の子を散らすように部員が逃げていく。この呼吸って、漫画だよね、やっぱり。

        この先生の感じは、『はいすくーる仁義』の白鳥礼子先生のノリ。まさに漫画。さらに悪いことには、逃げそびれた5人の生徒にシンクロを教えようとした初日、先生の妊娠が発覚。「それじゃあ、先生は産休とってお休みするから、あとは頑張ってね。文化祭での発表のときは見に来るからね」と言い残していなくなっちゃう。残されて呆然とする生徒たち。このへんの漫画的可笑しさを理解できないと、この映画の楽しさは分らないのだと思う。

        竹中直人のイルカの調教師に教えを乞うシーンは、ちょっとした『ベストキッド』調。ちょっと竹中の演技が浮いているというのは確かに気になるものの楽しい。水族館の掃除ばかりやらされて腐っていると、生意気な小学生の女の子が「あの魚、何て言う名前?」と訊いてくる。「さあ」と答えられないでいると、この小学生「あんたら、バカじゃん!」と叫ぶ。両親が慌てて連れに来ても、「バカじゃん!」が止まない。手を取って引き摺られていきながらも「バカじゃん!」 もう、もろに漫画の呼吸なのだ。

        『フルモンティ』と比較する評論が多い。はたして矢口監督が『フルモンティ』を意識したかどうかは分らないが、おそらくまた全然違うところから発想したような気がしてならない。ちなみにどうも私は評判ほど『フルモンティ』を面白いと思わなかったのだが・・・。

        ラストのシンクロナイズド・スイミング。今まで、自分の実力を高めることばかりでやってきた運動会系の連中が、人を楽しませることによって自分も楽しくなることに目覚めた一瞬。スポ根だけが人生じゃないよ。この映画は、だから練習シーンも血の滲むようなものではない。チャランポランに遊ぶようにしてやっている。いいじゃないの、たかが文化祭で男子のシンクロ見せるだけなんだから。映画はシンクロシーンで、ピタッと終わる。あとからグズグスと話を引き摺らないのもいい。さわやかな青春映画になっている。いい気分で映画館を出た。あのシーン、このシーン、思い出し笑い。やっぱり矢口史靖は面白い。


September.22,2001 名シーン、ショッピングセンターの襲撃

        去年の[東京国際ファンタスティック映画祭]に出品されたジョニー・トーの『鎗火』。これを見に行った、生嶋と後藤さんは流石にチョイスがうまい。私はというと・・・何だかその時間帯は別のものを見ていた気がする。この大傑作を一年間も見ずに過ごしてしまった自分が口惜しい。見て来て興奮した生嶋が書き込みをしてくれたし、丁寧にもDVDから落としてビデオCDでくれたというのに、これまた見ないままに時が経ってしまった。ああ、なんてダメな私・・・。

        その『鎗火』が、『ザ・ミッション 非情の掟』というタイトルになって、ようやく公開された。「プログラム、ボクの分も買ってきて」と生嶋に言われて、キネカ大森まで向かう。上映時間が81分とコンパクトなので、気負いもなく座席に座り、予告編をボンヤリと眺めていると、いよいよ本編が始まった。開映前に流されていた、妙に耳に残るメロディーが流れる。突然キーボードが主旋律を弾いたかと思うと、そこにウネリたっぷりのベースと、ちょっとドタドタと野暮ったいドラムが入ってくる。とてもELPとは比べられないチープな音のキーボード・インスト・ロック・トリオなのだが、この興奮は何だろう。久しぶりにサントラが欲しくなってきた。その音楽に被せてクレジット・タイトル。これが黒地に白抜きの縦書きの習字の字。シネマスコープの横長の画面に現れては消えるこのタイトルは、まるで昔の日本映画のよう。

        クレジット・タイトルが終わると、ゲームセンターの『ダンス・ダンス・リボリューション』で踊る、ちょっと太った男(ラム・シュー)が写る。隣のネエちゃんにはちょっと敵わなかったみたい。ゲーセンの受け付けで預けておいた上着を受け取る。香港ではお馴染み、屋台などには必ず置いてあるトイレットペーパーで、額の汗を拭う。香港の人って、トイレのロールペーパーをトイレ以外でも使うんだよなあ。合理的といえば合理的なんだけど。

        ラム・シューが夜の香港の街を行く。冒頭のメロディーが戻ってくる。片手にタバコ、片手にファスト・フードの紙コップ。美容院の前を通りかかる。美容院では暗黒街から足を洗ったアンソニー・ウォンが女性の髪を刈っている。ナイトクラブの前を通りかかると、やはり元殺し屋のロイ・チョンが、客とホステスをタクシーに乗せている。タクシーの中からチップを突き出す客。愛想笑いを浮かべて、それを受け取るロイ・チョンの顔には複雑な表情が。ラム・シューの足はさらにン・ジャンユー(フランシス・ンなんて今更呼べない)のバーへ。難癖をつけにきたチンピラを軽くあしらうジャンユー。その目は、座りがなく強暴さを秘めていて怖い。そして、ジャンユーに付き従う若者ジャッキー・ロイ。

        拳銃のアップから銃声の音。そして『鎗火』のタイトル。次のシーンは、もう暗黒街のボス、エディー・コウが狙われるアクション・シーンだ。音楽が変わる。ここでもキーボード・トリオ。どこかのオシャレなカフェバー。真っ暗な中で殺し屋に追われているコウ。やがてどこかの調理場に逃げ込む。追ってきた殺し屋は、佐藤佳次。スピーディな展開だ。極力無駄を省いて、グイグイと観客を引っ張っていく。

        命を狙われていると知ったエディー・コウは、弟のサイモン・ヤムに頼んで、ボディ・ガードをしてくれる人間を集めさせる。それが冒頭に出てきた5人というわけだ。ガードの準備が始まる。武器の専門化ラム・シューが武器の手入れをしている。画面4分割のワクワクさせるような映像がいい。拳銃を受け取って、空撃ちをしてみて「スプリングの具合が悪い」とラム・シューに突き返すロイ・チョン。受け取るロイ・チョンの複雑な表情。いいねいいね。

        最初に襲撃を受けるシーン。夜の路地裏だ。5人のチームワークがまだ出来ていない。防弾チョッキを着ていたとはいえ撃たれるボス。全員がクルマの陰に隠れる。どこから狙われているのかも分らない。アタフタしながらも、ビルの屋上からライフルで狙撃されているのを知ると、5人はバラバラながらも行動を開始する。距離が離れすぎていると知ると、工事用に被せられたいたシート伝いに接近していって、両手で拳銃を構えて冷静に引鉄を引くロイ・チョン。こいつ、悪役のイメージが強かったけど、こういうときは頼りになるやつなんだよなあ。

        そういえば、よく考えてみると、この映画にはスターが一人も出てこない。アンソニー・ウォン、ン・ジャンユー、ロイ・チョン。ちょっとディープに香港映画を齧った人なら、この三人の名前を見ればニヤッとして見に行くだろうが、カッコイイ若いスター映画ではない。クセのある演技派の三人をメインに据えた、硬派な映画なのである。実際ジョニー・トーは、この三人の役は誰がどの役をやってもよかった言っているが、確かにそうなんだろう。ただ、私の好みからいけば、アンソニー・ウォンとン・ジャンユーの役は、入れ替わって欲しかったところ。

        この映画は、役者に台本を渡さず、撮影の現場で監督からその場面の説明がされるという撮影方法だったそうで、役者もさぞかしタイヘンだったろう。もっともそれが、最初に襲撃を受けるシーンのアタフタ感にも繋がっていて面白みが出たのだが。

        さあ、これからずっと語り継がれるだろう名シーン、ショッピング・センターでの第2の襲撃シーンだ。これは映画のほぼ真中で起きる。吹きぬけになったロビーの左右に、上りエスカレーターと下りエスカレーターが動いている。以前よりもチームワークを増した5人がボスをガードして下りエスカレーターに乗る。先頭がン・ジャユー、その後ろがロイ・チョン、ラム・シュー、ボス、アンソニー・ウォン、しんがりがジャッキー・ロイという体勢だ。

        反対側の上りエスカレーターには警備員がひとり乗っている。ちょうど一行と水平の位置にきたときに、警備員が帽子を飛ばし、胸のポケットから拳銃を取り出す。5人は一斉に行動を起こす。ボスのすぐ前にいたラム・シューがボスの頭を下げさせ、あとの4人が警備員よりも早く拳銃を取り出して、相手を倒す。下りながら後方に拳銃を向けるアンソニー・ウォンとジャッキー・ロイ。

        エスカレーターが下にたどりつくと、ン・ジャンユーは前方を警戒して拳銃を前にして仁王立ち。ラム・シューは柱の陰で片手でボスをガードしながら、拳銃を構える。先に下に下りたロイ・チョンが両手で拳銃を構えて後方をジッと狙っている。交代で柱の陰に入り、前方をうかがうアンソニー・ウォンとジャッキー・ロイ。完璧なフォーメーションをとる、この5人の姿のカッコイイこと! そのまま5人はピタリと動かなくなる。動きといえば、後方のエスカレーターの上から、パッと現れて撃ってこようとする何人かの殺し屋の姿を捕らえると、即座に引鉄を搾るロイ・チョンの人差し指だけ。ほとんど[静]だけで[動]を表現してしまった監督の腕の冴え。役者たちはどんなシーンになっているのかさっぱり分らなかったというが、これは監督の頭の中にだけあった、緻密に計算されたカット割の勝利だろう。そして、このあと突如起こる銃撃戦。すんげえ!

        この映画には名シーンと言えるシーンが数多くある。このシッョピング・センターのシーンのあとに来る、紙屑サッカー。あとあとの伏線にもなるプールサイドでのタバコのイタズラ。落花生を食べ続けるラム・シュー。アンソニー・ウォンが剃刀の刃で男を殺害する海鮮料理屋のシーン。ウォン・ティンラムが殺されてもスパゲティを食べているシーン。自分がヘマをして殺されると思いグデングデンにジャッキー・ロイが酔っ払ってしまうシーン。エレベーター前で襲撃されるシーンetc. もう数え上げたらキリがない。そして、狙撃者を廃ビルに追い詰めてビルの中と外で撃ち合いになるシーン。微動だにせずに撃ち返すロイ・チョンのカッコイイこと!

        セリフを極力省略して描いて見せる、この演出力。腕さえあれば余計な状況説明のようなセリフはいらないんだ。ラストの上手い幕切れ。81分。きっと、普通に脚本を書いて撮っていたら2時間近くのものになってしまったろう。カッコイイ、カッコイイ! 男は無口がカッコイイ!


September.8,2001 リノ・ヴァンチェラ、ジョゼ・ジョバンニ・・・

        一昨日、『言いたい放題食べ放題』で、沖縄の[島らっきょう]について書いていて、ふと小説家ジョゼ・ジョバンニが監督した『ベラクルスの男』を思い出してしまった。

        一匹狼の殺し屋が南米の某国で雇われて、船や列車で旅をしているところから始まるこの映画。殺し屋役はリノ・ヴァンチェラである。皮ジャンパーに皮のショルダー・バッグ。もちろんその中にはライフル銃が入っている。カメラは、この男が旅する様子を追いかけて行く。港で何やら食べ物を買っている。皮を剥きながら食べるそのものを、最初に映画館で見たときは落花生だと思い込んでいた。それが後にテレビ放映されて見て、どうやらニンニクらしいと気が付くのだが、さらにもう一度テレビ放映されたときに見て、今度はどうやら、ラッキョウに近いのではないかと思うようになっていた。旅の間中、ヴァンチェラはこれを剥いては食べているのだが、人に薦めても誰も食べない。そりゃそうだろう。あんなもの生で食べる人間はそういない。

        都合三回見てしまったこの映画、私の大好きな一本であると同時に、ジョゼ・ジョバンニが監督した中では最高傑作なのではないだろうか? [プロ]という言葉からピンとくる職業というと、私はすぐに[殺し屋]というイメージが出来てしまう。アラン・ドロン主演の『さむらい』、市川雷蔵主演の『ある殺し屋』 『ある殺し屋の鍵』、フレデリック・フォーサイスのベストセラー小説『ジャッカルの日』、池波正太郎の『仕掛人・藤枝梅安』、さいとう・たかをのマンガ『ゴルゴ13』 etc.そんな中でも『ベラクルスの男』は私の青春時代に見た最高に想い出深い一本だ。この男にとっての目的は、請け負った[殺し]という仕事を成し遂げること。革命などということすら、この男にとっては甘っちょろいこと。他人のことを思うよりも、まず自分自身がしっかりしなきゃいけないということを、この映画は語っていた。

        私の青春時代は、アメリカン・ニューシネマの真っ最中だった。『真夜中のカーボーイ』、『明日に向かって撃て』、『俺たちに明日はない』、『卒業』・・・。そんな中でもフランス映画にも勢いがあった。監督で言うと、フランソワ・トリュフォー、ジャン・ピエール・メルビル、そして、映画好きの合言葉ロベール・アンリコの『冒険者たち』。『冒険者たち』を見ていない映画好きなどいなかった。

        アラン・ドロン、ジョアンナ・シムカス、そして・・・ここでもリノ・ヴァンチェラ。原作までジョゼ・ジョバンニ『生き残った者の掟』。そういえば、ジョバンニが来日したときに、SRでインタビュウに行ったっけね、生嶋くん、長崎くん! ゲタをあげたんだっけ、あの時?

        ジョアンナ・シムカスを中心にした三角関係のような設定でありながら、誰が欠けてしまっても成り立たない不思議なトライアングル・ラヴの物語を根底にして、海に空に島にと舞台を広げ、ギャングとの闘いを盛り込んだ、目も眩むような娯楽映画。一本の映画のなかに、様々な要素を盛り込むだけ盛り込んだこの作品。見ていて、こんなに幸せな気分になる映画はそうなかった。

        導入部の三人の様子がまず楽しい。スタントマンのアラン・ドロン。エンジニアで史上最高速のエンジン開発に夢を持つ男リノ・ヴァンチェラ。鉄クズ前衛芸術を目指すジョアンナ・シムカス。そんな三人がそれぞれ免停、失敗、酷評で失意のどん底にあるときに、海底に眠る財宝の情報を得る。この宝捜しのシーンこそが楽しい。三人が子供に返ったみたいに船の上ではしゃぎ回るシーン。ここまでで、このトライアングル・ラヴの状態が長く続くはずはないと見るものは思っているに違いない。これはどう見ても、シムカスは若くてハンサムなドロンの方になびくに違いないと思うはずだ。そんなときに、ヴァンチェラとふたりだけになったときに、シムカスはそっと呟くのだ。「あなたを愛している」と・・・。

        これにはびっくりした。そして、さっぱり女性にモテず、容貌にコンプレックスを抱いていた私は、これでちょっとホッしたのだった。なんとまあ、アンリコのロマンチシストなこと! そして、ここで突然のシムカスの死を用意している。トライアングル・ラヴの頂点にいる女性の死。大金を手にしたものの、残されたふたりは生きている張りを失ってしまう。ラストは、シムカスが船の上で一緒に住みたいといった島でのギャングとの闘い。死にかけているドロン。「レティシア(シムカス)は、お前(ドロン)のことを愛していると言っていたぜ」と言うヴァンチェラに、「この大嘘つきめ!」と一言言い残して息をひきとるドロン。

        なんとヴァンチェラのカッコいいこと! 当時、私は生嶋とやっていたミニコミ映画誌『PRIVATE EYE』に、このことを書いたのを憶えている。そのときに生嶋が描いてくれたイラストが、リノ・ヴァンチェラがガレージでエンジンの設計図を見ているカット。老眼鏡をして、ちょっとジジくさいのが、かえってカッコよかった。きのう『蕎麦湯ぶれいく』に書いたように、私もそろそろ老眼鏡が必要な歳になってきた。はたして、私は老眼鏡が似合う、カッコいい老人になれるだろうか?


September.5,2001 イギリス流『仁義なき戦い』?

        『ロンドン・ドッグス』を見ていて、これはひょっとするとイギリス流のユーモアで味付けされた『仁義なき戦い』なのではないかという気がしてきた。地道に働く郵便局員の職に嫌気がさし、友人のジュード(ジュード・ロウ)の紹介でギャングの世界に入っていくジョニー(ジョニー・リー・ミラー)。ところがボスのレイ(レイ・ウィンストン)はカラオケに夢中で、ジュードの思い描いていたギャングの世界とはおよそ掛け離れている日常が続いている。鬱屈した若者に、このぬるま湯状態は我慢がならない。そこで、敵対しているはずの組織にちょっかいを出し始める。

        監督・制作・脚本を担当しているドミニク・アンシアーノとレイ・バーディスの前作『ファイナル・カット』は見ていないが、『ロンドン・ドッグス』と同じ手法で撮られたものらしい。それは役者の即興性を重視する演出法で、おおよその枠組のシナリオがあるだけで台詞などはほとんど役者の即興性に任せっぱなしという方法論だ。そんなものだから、見ている方としては少々戸惑う。明らかに、いつも見ている映画とはかなり違うものだ。ストーリーや映画としてのテクニックを見ているというより、役者の自由な演技を見せられているという感じに仕上がっている。ドミニク・アンシアーノとレイ・バーディス自身もギャングの一味として、かなり重要な役で出ているし、これは役者が自分たちが楽しみたいがために撮ったんじゃないかという映画だ。

        この方法論は、なかなかに新鮮で面白い。確かに少々イビツではある。カットの繋ぎも雑という印象がして、ひとつの流れとしての映画という観点に立てば、ゴツゴツしたものになってしまっている。しかし、しばらくしてこの映画の世界に慣れてくると、結構夢中になっている自分がいる。

        ぬるま湯状態だったボスのレイが、暴発的にセンソウに突入してしまった途端、自動小銃をぶっ放しているうちに興奮してしまうあたり、子供っぽいけれどもウソじゃないような気がする。

        手打ちをしてお互いの組織の平和的存続をはかろうとするあたりも『仁義なき戦い』に似ている。古今東西、こういうことってどこの国でも同じなのかもしれない。『仁義なき戦い』が盃外交だったのが、『ロンドン・ドッグス』はカラオケ外交(というわけでもないが)というのが可笑しい。そして結末。跳ねっ返りの過激な若い力は、現状を守ろうとする組織同士の確執の間で葬りさられていくというあたり、これはやっぱり『仁義なき戦い』なんだなあと確信したというわけです。

このコーナーの表紙に戻る

ふりだしに戻る