風雲電影院

3人の名付親(3 Godfathers)

2013年2月25日
三日月座BaseKOMシネマ倶楽部

 1948年のジョン・フォード作品。

 もちろん映画館では観ていない。小学生か中学生の頃、テレビの吹き替え版で観た記憶がある。だから私のイメージでは白黒だった。これ、カラーだったんだ。

 小さい頃ながらも感動したのを憶えている。赤ちゃんの命を救うために砂漠の中を歩いていくジョン・ウェインら3人のならず者の姿に涙した。

 それでいながら、もう一度観たいと思わなかったのは、長ずるに従って今度は、どうもこの話、キリスト教のお説教を聞かされているような気がしてきて、「いやだなぁ」と思い始めたからに他ならない。実際、聖書がこの話にたびたび関わって来るし、“東方の三賢人”の話がモチーフになっているわけで、今回何十年ぶりかで観ていても「なんだかなぁ」と思ってしまう。

 ただ、その点だけを割り引けば、この映画はやはり面白いし、とてもよく出来ている。

 『3人の名付親』には、真の悪者は出てこない。3人の男が銀行強盗をする。ここが微妙なところなのだが、3人が3人とも常習犯なのか、それともたまたま食うに困って銀行強盗を計画したのかはよくわからない。ただ、3人のうちのひとり、一番若いキッドはお尋ね者だ。このへんのぼかし方が脚本の上手いところ。しかも、この銀行強盗は未遂に終わってしまう。もしキッド以外のふたりがお尋ね者でないなら、未遂ともなれば、少なくともふたりは大きな罪にはならないだろうが、それでもキッドを庇うという理由が出てくる。ジョン・ウェインが盛んにキッドを庇っているシーンが冒頭にあるので、それも効いている。これも脚本が上手い。

 砂漠に逃げる3人。逃げるときに水の入った皮袋を撃たれてしまうという設定も上手い。水を求めて彷徨い歩く3人の過酷さは、本当によく伝わってくることになる。

 やがて、妊婦がひとりで砂漠の真ん中で放置されているのに出会う。そして3人が出産に立ち会って、母親から3人の名前を子供に付けて死んでいくあたりは、もうあざとすぎる位に話がよくできている。

 母親を砂漠で埋葬するシーンでは、Shall We Gather At The River が歌われる。これも讃美歌なのであざといのだが納得してしまう。ちなみにWikipediaにも書かれているように、サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』の冒頭、銀貨強盗に入るシーンでも、禁酒団体のマーチング・バンドが演奏しているのもこの曲。おそらく繋がりはないのだろうが、妙に因縁を感じてしまう。
 さらにいえば、この曲はタイトルどおり川のほとりに集まって神を賛美しようという歌でもあり、葬式の場で使われる曲でもあるらしい。とすれば、サム・ペキンパーはあの映画の冒頭で、すでにして死のイメージを盛り込んでいたと思うのは考え過ぎだろうか?
 もっと言えば、サム・ペキンパーはそのさらにあとに『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』の中の名シーン。老保安官が決闘に敗れ死んでいくシーンで、撃たれた老保安官は「川のそばに寝かせてくれ」と言う。もっともそこに流れるのは、ボブ・ディランがこの映画のために書いた Knockin' On Heaven's Door なのだが。

 赤ちゃんの面倒を見なければならなくなった3人が、もう赤ちゃんが可愛くて可愛くて、しかも名付親だと言われてわが子のようになってしまうのは、いいシーンだし、わかるよなぁと思ってしまう。これもあざといのだが上手い。

 ニューエルサレムと言う町に向かう途中で、ジョン・ウェイン以外のふたりが死んでいく。ここで初めて今日がクリスマスだということが明かされる。ここも絶妙なところで、赤ちゃんが生まれた日がクリスマスだとすると、あまりにも宗教映画になってしまうのを寸前で止めている。その代り、もう体力の限界に達しているジョン・ウェインに、死んだふたりが亡霊になって励ます。これぞクリスマス・ストーリー。クリスマス・ストーリーには必ず幽霊が出てくるという鉄則がここでも踏襲される。

 町に辿り着いて、裁判にかけられるものの、これもなんだかいい意味で、いい加減といえばいい加減な裁判で、赤ちゃんを救ったということなのだろう、かなり軽量な評決で済ませてしまう。酒場が裁判所の代わりで、裁判が終わればみんなで乾杯。古き良き西部ですなぁ。

 助けた赤ちゃんが保安官の姪の子供だったというのも、冒頭でちゃんと伏線を張っているとはいえ、あざといなぁ。よく出来ているのだけど。途端に保安官とジョン・ウェインは仲良くなってしまう。

 今回もやはり涙してしまった。悔しいけど、よく出来ているとしか言いようがない。

2013年2月26日記

静かなお喋り 2月25日

静かなお喋り

このコーナーの表紙に戻る

トップ アイコンふりだしに戻る
直線上に配置