風雲電影院

十字架

2016年2月24日
スバル座

 中学生で、いじめを苦に自殺した少年と、残された家族、友人のその後をめぐる話。重松清の原作小説の映画化。

 キャストがすごい。自殺した少年フジシュンのクラスメート、ユウに小出惠介。フジシュンが恋心を抱いていた女の子サユに木村文乃。フジシュンの母親に富田靖子。フジシュンの父親に永瀬正敏。実際にいじめにあうシーンで、小出惠介と木村文乃も中学生役をやるというのは、やや違和感もあるが、この豪華な配役は見ごたえがあった。

 いじめのシーンは、観ていて辛くなるほど。いじめられる少年が、いじめられても、それほど苦にした表情を見せずに周囲に明るく振る舞っているから、余計に辛くなる。

 いじめというのは今に始まったものではなく、以前からあった。実際、私の小学校、中学校、高等学校時代にも、校内でいじめは皆無ではなかた。後年『キャリー』を観た時に、いじめは日本だけの問題ではなく、アメリカだろうがどこだろうが、どこにでもあるものだと知った。特に学校というのは一般社会とは別の社会が存在していて、子供はそこでの生活を強いられる。そしてそのなかでの生活を体験して、世の中で生きていく術を学んでいくものなのだと思う。だから多少のいじめにあっても、へこたれないだけの精神力を磨く場所だともいえる。ただ、最近のいじめというのは昔と比べて、より陰湿になっているのかもしれない。

 いじめの対象になるのは、だいたい同じようなタイプの子のような気がする。例外はあるが、勉強はそれほど優秀というほどでもなく、かといって運動もそれほど得意でもなく、どことなく要領が悪くてドンくさい。それでも何かひとつでも特技のようなものがあったり、みんなに打ち解ける術を知っていたりするとクラスの人気者になれるのだが、そういうタイプでもない子。私もどちらかというと、そういうタイプに近かったからよくわかる。幸い私はうまく切り抜けたから、いじめの対象にはならなくて済んだ。

 フジシュンは自殺するときに遺書を残す。なかに自分をいじめたふたりのクラスメートの名前を書き、自分は死んでもこのふたりを呪てやると綴る。しかしこの話は、いじめた少年のその後の話ではない。フジシュンはもうふたりの名前を遺書に残した。ひとりは彼の小さい時からの友人であり、中学に入ってからも優しく接してくれたユウ。そしてフジシュンが恋心を抱いていた少女サユ。

 フジシュンが自殺して月日が流れる。ユウとサユは高校を卒業し、東京の大学へ。ふたりは付き合うが、やがて別れて、別々に結婚をして、それぞれ子供ができる。

 ユウはフジシュンが遺書で自分のことを親友だと呼んだことから、自殺のあと、フジシュンの父親から、「親友だったんなら、なぜいじめられているのに助けることができなかったんだ」と問い詰められた。しかしユウとしてはフジシュンを親友と呼ぶほど親しくはなかったから、親友と呼ばれたことに違和感を感じてた。それが自分の息子の様子を見ているうちに、なぜフジシュンがユウのことを親友と呼んだのかわかってくる。ユウは勉強もできて運動神経もよかった。つまりフジシュンにとってユウは憧れたったのだ。その憧れのユウが自分の幼いころからの友達だったので、親友と呼んだのだった。

 一方、サユは告白する。フジシュンが自殺した日はサユの誕生日。フジシュンは電話をしてきて、これから誕生日のブレゼントを持って行きたいと告げると、そんなことされると迷惑だからやめてと言って電話を切ってしまったことを。彼女はフジシュンと関わりたくなかったのだ。

 クラスでいじめにあっている子をかばったり、親しくするという行為は、自分もクラスからも浮いてしまうということもある。いじめに加担しなくても傍観してしまう、あるいは、その子にどこか冷たい態度をとってしまうことが、ますますいじめの対象になっている子を追い込んでしまう。そういうことがわかってくるには、十代ではまだまだ社会経験不足。大人になっていろいろ人間関係を経験して、初めて、人との接し方がわかってくるのだろう。もっとも大人になっても、いつまでもそういうことがわからない困った人間が多いのも現実なのだが。

2月25日記

静かなお喋り 2月24日

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