風雲電影院

荒野の決闘(My Daring Clementine)

2013年3月18日
三日月座BaseKOMシネマ倶楽部

 1946年作品。

 ひょっとして、テレビ放映で観ているのかもしれないと思っていたのだが、やっぱり観ていないのかなぁ。観ていたとしてもはるか昔のことだろう。まったく憶えていない。

 OK牧場の決闘ものとして、活劇を期待して観ると裏切られるとは聞いていたが、なるほど、なんとも甘ったるいメロドラマ風なストーリーが主体になっている。とはいえ、ここでもやっぱり引き立つのはドク・ホリデイだ。ワイアット・アープがヘンリー・フォンダ。そしてドク・ホリデイがヴィクター・マチュア。ただしここにはアープとホリデイの友情関係というのはほぼ皆無。最後の決闘にホリデイが加わるのも、個人的な恨みからという感じになっている。

 この映画が、ほかのOK牧場ものと違うのは、原題どおりクレメンタインという女性の存在があるからで、これがまあ男臭い西部劇を期待する向きには邪魔以外にない。が、この映画はそのクレメンタインがあってこその映画なんだから困る。クレメンタインの登場シーンは、映画がしばらく進んでからのことになる。このクレメンタイン役のキャシー・ダウンズという女優さんが本当にきれいなのだ。まさに息を飲むという感じ。ほかにどんな映画に出ているのか知らないが、まさに絶世の美女なのだ。そのクレメンタインがツームストーンにやってきた理由というのが、ドク・ホリデイを追いかけてきたというのだから、ややこしいことになる。いや、面白い設定だと思う。

 そのドク・ホリデイはというと、胸の病で死にかけていて、医者を辞めてこの南部の町でヤクザなことをやっているというわけ。彼にはチワワ(リンダ・ダーネル)という女がいて、自分はもうクレメンタインを愛していないでチワワを愛しているんだとクレメンタインを突っぱねる。ところが観ているこちらからすればチワワは碌でもない女で、クラントン一味のひとりとも寝ているわけで、どう考えてもホリデイが本気だとは思えないのだよなぁ。おそらくホリデイは自分の死を意識して本当は愛しているクレメンタインに、自分には関わらせないようにしている気がしてならない。それがホリデイの優しさだと思うんだけどなぁ。

 それを知ってか知らずかワープはクレメンタインに淡い恋心を抱いてしまう。このへんが観ていてイライラしてくるところで、「おいおい、なんでホリデイの気持ちがわかんないんだよ」という気持ちになってしまう。これでワープとホリデイに友情関係でも色濃くあれば、クレメンタインとワープを一緒にさせようとするホリデイという図式が出来て、かっこいいんだけど、そうはならないのが私には物足りない。まあそうしちゃうとこれまたこの映画、ドク・ホリデイの物語になってしまうのだが。

 チワワが撃たれて重傷を負って、ホリデイが緊急手術をすることになる。通説ではホリデイは歯科医ということになっているが、ここでは外科医。都合が良すぎるとは思うが、その手術の甲斐も無く死んで行ってしまうのだから、歯科医が見よう見まねで手術をしたってことでもよさそうなものなのだが。

 それで怒ったホリデイが加勢させろというのはわかる。もう死に場所を求めていたのかもしれない。ここでのホリデイはやっぱりかっこいい。そして死んでいく。おいおい、クレメンタインよ、もうドク・ホリデイには未練はないのか? 愛想が尽きたのか?

 この決闘シーンで一番いい役を引いたのは、モーガン・アープ(ワード・ボンド)。見せ場はこの男が浚ってしまった感じ。

 そして、モーガン・アープとワイアット・アープは地平線の彼方に去っていく。それを見送るクレメンタイン。その直前、クレメンタインはこの土地に残り教師になると言う。そしてワープは情けなくもシャイな台詞を言う。「私はクレメンタインという名前が大好きです」 今の時代から思うと「なんじゃこれは」なのだが、これが男の美学の時代だったのかもしれない。

 蛇足だが、この主題歌を聴くと私は『雪山讃歌』よりも『珍犬ハックル』を思いだすのだが、そんなことわかる人はもうあまりいないよね。

3月19日記

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