ペコロスの母に会いに行く 2014年4月5日 新文芸坐 これはもうね、公開と同時に観に行きたかったのだけど、あまりに内容が、私の現実との生活が、リアルでありすぎるだけに、さすがに行かれなかった映画。母親が認知症になって、ついに面倒をみきれずに介護施設に入れる話。実は、私の母も寝たきり生活になったのと認知症で介護老人ホームに入って、先月まで生活していた。その母が死んで、ちょうど四週間。ようやく冷静に観られる気がしてきたところに、新文芸坐にかかって、それでは観てこようという心境になったといえる。 連れ合いのご主人を亡くしたころから、母親の認知症が始まったというナレーションが流れる。これは私の母の場合とも似ている。正確には私の父が死ぬ一年ほど前から徐々に認知症らしき傾向は出始めていたのだが、父の方もそのころから認知症になり、テレビにもあまり興味を示さなくなり、徘徊を二度ほどやったりしていた。その父が死んだあとに、今度は母の認知症が一気に進行し始めた。父が生きていた時には、父の面倒を自分がみるんだという張りつめた気持ちが認知症の進行を抑えていたのかもしれない。 この映画の最初の方の部分。認知症になった母(赤木春恵)と、その面倒を見る息子(岩松了)の姿は、私の母と私自身を思い出してしまう。ここで見られる、認知症の母親の、電話の受話器を元に戻すのを忘れる、トイレの水を流すのを忘れるなどの現象に近いことは、私も多く経験したことである。そして、そのたびに文句を言うと「そんなに怒らないでおくれよぅ」という母の言葉は、わたしも何度聞かされたことだろう。 映画の中で、もう毎日食事の世話から下の世話まで、母親の面倒が見きれなくなって養護施設を見学に行くと、そこで生活している老人が見事に全員認知症だというのも、私が経験したのそのまま。ずーっとデタラメな歌を歌っている人とか、職員さんを誰か別の知人と間違えている人とか。そして、そんな認知症の人たちに対して、職員さんたちの態度のなんて優しいことか。それは現実とまったく同じ。認知症患者の変な行動の描写で、ほとんどの観客から笑いが起こったが、私は笑えなかった。だって本当にそういう実態を目にしているのだもの。 母親をこの養護施設に入れることになって、「母親を捨てるのか」と自問する気持ちも、自分の時と同じで、グサリと突き刺さってくる。しかし、言い訳のように聞こえるかもしれないが、肉親である認知症になった母親と、一日中家にいるとなると、ついつい言いたくもないことを口に出してしまうのだ。相手は認知症なんだから今更言っても仕方ないとは思うのに、それでも口に出てしまう。老後の生活を過ごしている母に不快な思いはさせたくないとは思うのだが。 私の母の場合は、特に、歩けなくなってしまったということもあって、介護老人ホームに入れなくてはならなくなっていたという事情もあったのだが、映画の方の母親はまだ歩くことはできた。その母親を施設に預けてしまおうという決断は、かなり苦しかったろうと思う。 この映画の場合まだマシなのは、息子が独り者というところ。奥さんがいたら、認知症の義母の面倒を誰がみるのかということで、話がもっと陰惨になっていたかもしれない。 私の場合は、施設が割と近くにあったということもあって、毎日、妹と交代で会いに行っていた。幸い、母も認知症とはいえ、私と妹のことはちゃんと最後まで憶えていてくれた。この映画の母親のように自分の息子のことも忘れてしまうということだけはなかった。それが私のラッキーだった点かもしれない。もし、私の顔も忘れてしまったら、私はどうしていいのかわからなくなってしまっていただろう。 映画は、認知症になるのも悪い事ばかりじゃないという結論めいた台詞で終わる。しかしそれは、あくまで認知症になってしまった人だけの事。認知症の人の面倒をみる家族や、施設の職員たちは大変なのだから。 4月6日記 静かなお喋り 4月5日 静かなお喋り このコーナーの表紙に戻る |