風雲電影院

終の信託

2012年10月27日
TOHOシネマズ錦糸町にて

 結局、草刈民代の女医は嵌められたんだ。

 おそらく病院内部の人間関係で、彼女をこころよく思わない人がいてマスコミに流したんだろう。実際、病院内の男性医師と、相手が妻帯者と知らずにではあるが、不倫関係を持ったりとかしていたわけだし、ちょっとお高くとまってるとか思われたのかもしれない。
 しかし事情が事情だけに、この告発者はおそらく内部の人間なんだろうけれど、浅はかななことをしたもんだ。これは医療現場の首を絞めるだけのことで、何の得にもならないんだから。
 また、尻馬に乗ったマスコミもマスコミ。フィクションなんだろうから実際に、こういうケースを報道するかどうか疑問だが、誤解を恐れずに言うと、やっぱり結果的には報道するべきではなかったのではないか。それだけ微妙な問題なのだから。おかげで検察が動かざるを得なくなってしまった。

 設定としては1997年ということになっているから、映画としては今から少し前の話。私は二年前に父を亡くしたが、その前に主治医に呼ばれて、この先治療の過程で、もしもの事態になったら延命処置をほどこすかどうか聞かれた。私は父が元気だったときに、本人から「延命処置はするな」と直接言われていたので、その通りに伝えた。すると、その場でその旨の書類にサインさせられた。
 この映画では、草刈民代の医師が役所広司の患者と親しくなる中で、もしものときの判断はお任せしますと言われる。この気持はわからないではない。普段から家族に、自分がもう死ぬとわかったら延命処置はするなと言っておくというのは、案外遠慮のあるもので、死の問題を持ち出した時点で、「そんな縁起でもない」と言われかねない。しかしこの意思表示は、はっきりしておいた方がいい。できたら文章の形で残しておいた方がいい。というのも、人間いつ認知症にかかるかもわからないからだ。認知症になってしまうと、死の概念もぼんやりしてしまう。そうなったときに延命処置うんぬんなんていうことは、意思として認められないだろうから。

 この映画でも役所広司の患者は、呼吸器を抜かれたところで意識を回復して喘息の発作を起こす。それは生への欲求を頭ではなく身体が示してしまったからだろう。それで事が大きくなってしまう。本当は本人はもう楽になりたかったのではないだろうか?

 この映画のテーマは、どちらかというと延命処置のことよりも、検察の誘導の仕方の巧妙さを描くことと、医師と患者の心の交流を描くことに重点が置かれている気がする。
 それよりも私が気になるのはやはり延命処置のこと。

 最近感じるのは、とにかく私は人に迷惑をかけるような身体になってまで生きていたくないなということ。若いうちに身体障害を患ったなら、それはまた別の話だが、もう十分に生きたと感じた歳になったら、重度の介護を受けながら生きていたくない。

 ちょっと前まで、老人の自殺というものが理解できなかった。なんで残された人生を易々と放り出してしまうのだろう。それが最近わかってきてしまったのだ。誰にも迷惑をかけたくない。迷惑をかけるくらいなら、この世からいなくなりたい。

 この映画の中でも、役所広司の患者は死期を感じて、これ以上医療費を使って長生きしたくないと思う。少しでも財産を家族に残したいと願う。それは自然な気持ちなのではないだろうか。

 延命治療の問題は微妙だ。それは、本人、現場の医師、本人の家族の問題であって、法律が入ってくるとやっかいなことになる。

 だからこそ、医療現場の医師は責任が重いし、患者も日ごろから家族とよく話し合い、自分の意思を明確にしておくべきだろう。

 今は、インターネットで自分の病気がある程度わかる。その治療法、生存の可能性まである程度わかってしまう。ちょっと調べる気になれば、あと自分が果たして助かるのかどうなのか。あるいはあとどのくらい生きられるのか見当がついてしまうことがある。

 私は去年の暮れ、死に直面する病にかかり手術を受け、今年の初めまで入院していた。そのちょうど同じころ、ある落語家が私と同じ病で死んだ。死後、その落語家の娘が書いた日記が出版され、それを読むにつけ、最後まで自分の病状を理解していなかったような節がある。しかも昔からの性格でわがまま放題。

 私はそういう最後にだけは、自分の人生をしたくない。

 病室でたまたま読んだ浅田次郎の『霞町物語』の中の短編『雛の花』に出てきた、私やその落語家と同じ病気で死期を覚悟した、江戸っ子のおばあちゃんのように、家族に何も告げず入院して、そっと死んでいきたい。延命処置などしないで欲しいのは言うまでもない。

10月28日記

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