直線上に配置

客席放浪記

1995(ブルドッキング・ヘッドロック)

2015年8月4日
ザ・スズナリ

 1995年という年は、すぐに思い浮かべることができる。阪神淡路大震災があった年。その救助活動の様子が、連日テレビで報道されてたのが、途中からおかしなことが起こり出した。地下鉄サリン事件。そこからテレビは朝から晩までオウム真理教報道一色になった。なにか世の中、とんでもないことが起こっている。いったいこれからどうなっちゃうんだろうという不安感。一方で空前の円高。みんなこぞって海外旅行なんかに出かけていた。また、ウインドウズ95が発売されたことも思い出される。そこから一気にインターネットの時代。パソコンを使えない人間は取り残されていくという、考えてもみなかった時代に突入していったのだった。

 ブルドッキング・ヘッドロックの『1995』は、1995年と20年後の現在というふたつの話が同時進行で描かれる。共通しているのは愛子という女性。1995年の愛子は、まだ少女で、芸能プロダクションにスカウトされ、四人組アイドルのメンバーのひとりとしてデビューを待っている状態。そして20年後は平凡な結婚をして高校生の少女の母親になっている。この娘はアスリートとして注目を集めているが、どうも世間からはアイドルのような目で見られているらしい。

 物語は両方の時代で、それぞれの日常が淡々と語られていく。終盤になって、ややSF的な展開に入って行ってしまうが、このふたつの時代で起きていることを、私はそれぞれ面白く観た。特に1995年編の、中原俊は『櫻の園』のあと、なんでよりによって『12人の優しい日本人』かよ、とかの時代感覚がおもしろかったというか懐かしかったというか。あるいはルーズソックスとか、ブルセラとか、援交って、あのころから少女であることの価値みたいなものが増殖しちゃったんだよなぁ。

 現在編での、高校生のアスリートの娘は、あくまで運動で高みを目指したいのに、世間的には勝手にアイドルとみなされてしまう。アイドルなんかにはなりたくないのに、世間は普通の女の子である彼女をアイドル視してしまうのだ。それはAKB48のような、普通の女の子が集団で出てもてはやされる時代となっては、アイドルっていう観念も変わってきてしまったのかもしれない。

 アイドルというキーワードで、この20年、そしてこの先を語ってみせた2時間半。全てを理解できたとは言えないが、私はいろんなことを考えながら面白くこの芝居を観ていた。

8月5日記

静かなお喋り 8月4日

静かなお喋り

このコーナーの表紙に戻る

トップ アイコンふりだしに戻る
直線上に配置