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客席放浪記

三代目橘家文蔵襲名披露興行特別篇昼の部

2016年11月26日
東京芸術劇場プレイハウス

 開口一番、前座さんは橘家門朗『雑排』。けっこう乱暴な句(「夜桜や 酔いが覚めたら 警察署」とか)が入るのは師匠から習ったのかな? 前座修業頑張ってね。

 三遊亭白鳥の『時そば』は、五街道雲助に教わろうとして断られたというのは有名な話だけれど、「雲助師匠からテープ貰って自分で稽古してやってたら、先代の文蔵師匠に『あんちゃん、そんな落語やってちゃ、真打になれないよ』と言われましたが、こうして立派な真打になりました」と白鳥。アハハハハ。今日も白鳥の『トキそば』は絶好調。時事ネタの長野の乾燥大麻製造集団のこともギャグにして盛り込んできた。

 出てくるなり「白鳥のあとはやり難い」と、いつもの「いっちょうけんめいやります」も封印して話し始めた春風亭一朝。先代の文蔵は西田佐知子の歌の司会をしていたなんていう初めて聞く話をして気分を変えて、「最近は家で餅をつく家庭が減って、臼が減った。東京には臼が八百しかない。「これをウス八百」。一朝カワイイ。こうして入った一朝の『尻餅』、いいな〜。この噺、軽妙に明るくやらないと、聴いていて辛い。難しい噺だと思う。その点、一朝は上手ね。この噺を聴いていや〜な気持ちにさせられる落語家って、けっこういるからなぁ。

 林家木久扇は二年前に喉頭癌をやった。「内視鏡で喉の奥を診たお医者さんが私の頭の後ろの方から、『喉頭癌ですね』と言われた時には、後ろから棒で殴られたような気がしました」。後頭ガンね。幸いステージ2で、二ヶ月の放射線治療で治ったようだ。やはり癌は早期発見。咽頭癌で見つかったときはステージ4だった私は、手術するしかなかった。
 今日もお得意の『彦六伝』。何度聴いても抜群に面白いのは、円歌の『中沢家の人々』と同じ。このふたりがいなくなると、随分寂しくなるだろうなぁ。いつまでもお元気でいて欲しい。

 仲入り後は、文蔵が司会で、木久扇、一朝、白鳥による先代文蔵の思い出を語る座談会。先代の文蔵が亡くなったのは2001年だから、もう15年も前。どうも文蔵に関する記憶って、私にはあまりない。そんなに記憶に残るような個性がある人ではなかった気がする。
 座談のなかで、噺を教わりに来る人が多かったと言っていたが、噺に癖がなく、噺を習うにはうってつけの人だったのかもしれない。また、どんな噺でも「明日おいで」、「今やろうか」とすぐに応じてくれる人だったとか。
 一朝は自分の師匠(五代目春風亭柳朝)から、文蔵に朝早く行って稽古をつけてもらってこいと言われて、何時に行ったらいいだろうと、朝早くと言われたからと7時に行ったら、まだ寝ていたけれど、起きて稽古をつけてくれたそうだ。
 今の文蔵がボロボロの足袋を履いているのを見かねた志ん馬が文蔵に金を渡して買いに行かせたのを目撃した白鳥が、これはいいと、やはりボロボロの足袋を履いていたら、先代文蔵が古い足袋をくれたという話も可笑しい。
 先代文蔵は志ん朝と仲が良くて、よく一緒に大食い競争をしていたとか、文蔵は酒が飲めないのに一朝が旅先で煽てて無理矢理飲ませて、あとから怒られたとか、楽しいエピソードがたくさん語られた。
 一番可笑しかったのは、今の文蔵が弟子入りしてきたときの話。当時、先代文蔵が木久扇に「嫌なのが来ちゃったんだよ。あと付け来て、『(ボソッと)弟子にしてくれ』って」。あの文蔵に付けて来られたら、さぞ怖かったろう。断ったら、もっと怖いと思って弟子にしたのかなぁ。アハハハハ。

 「弟子入りしたとき、師匠からは、酒は家で飲むのはいいと言われましたが、博打は絶対ダメだ。博打は勝っても負けても人間関係を悪くするからって言われました。そんな師匠は賭け事大好きだったんですがね」と橘家文蔵『文七元結』へ。
 文蔵の長兵衛はまさに性格の悪い遊び人という感じがモロに出る。吾妻橋で身投げをしようとする男を見つけて、五十両をくれてやろうとするとろで、長兵衛自身が「今までやってきたことへの報いなのかなぁ」と思いを入れて言う台詞。出そうか出すまいかの迷いもほとんどなく、文七に五十両をぶつけて立ち去るあたりも、文蔵らしい潔さを感じる。
 文蔵、師匠の名前を継ぐいい落語家に成長したもんだ。

11月27日記

静かなお喋り 11月26日

静かなお喋り

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