第15回談之助・唐沢の落語アカデミア 2016年9月29日 道楽亭 昭和53年から61年まで続いた、渋谷[ジャンジャン]での、実験落語と三遊亭円丈を語る企画。 実験落語の第一期メンバーでもあった立川談之助の口から、実験落語の歴史が一時間にわたって語られた。最初から新作落語がやりたくて、あえて古典の名人圓生に弟子入りして落語の基礎を学び、真打になると同時に、今までの新作落語とは別のアプローチから新作を作ろうとした円丈。それまで落語協会からは新作を演ると白い目で見られていたなかで、ひとりではムーブメントにならないと、清麿を誘い、落語協会の若手に次々に声をかけて旗揚げした実験落語。『グリコ少年』の大ヒットにより、マスコミからも取り上げられるようになり、狭い[ジャンジャン]は、あのころいつも超満員だった。私が通い始めたころは、それがやや落ち着きだしたころで、それでもいつもほぼ満席だったことを憶えている。 唐沢俊一は、文楽、圓生が死んだとき、残された志ん朝はいつでも聴けると思ったし、談志はその落語よりも言動が面白いと思っていて、古典落語はもう聴くものがないと感じていて、そこに現れたのが円丈であり実験落語だったと述べた。これは私が当時感じていたことと同じ。だからあのころは寄席にも行かなかったし、ホール落語にも行かなかった。脚を運んだのは実験落語だけ。そんな時期が長く続いた。その後、受け継いだ古典落語をそのまま演じるのではなく、自分なりに改良を加える落語家が増えてきて、古典落語の世界も変化してきた。それで私も再び寄席や落語会に足を運ぶようになっていったのだった。 とにかくあのときの円丞の勢いは凄かった。もう今までの落語を根底から考え直す方法論を、まさら実験していた。あの時点で円丈が現れなかったら、今の落語はどうなっていただろうと思うと、ぞっとする。喬太郎も白鳥も昇太もいなかっただろう。そして落語がこんなにブームになることもなかっただろう。 円丈が落語に導入したもので最大のものはペーソス。それまで落語にペーソスはほとんどなかったし、円丈以外で新作落語に、あれほどのペーソスを盛り込める人は、いまだに出てきていない。『悲しみは埼玉に向けて』は、今聴いても名作だと思う。 現在、円丈は71歳。還暦あたりから自作の落語がなかなか憶えられなくなり、高座にカンペを持ち込んだりしていたが、最近は昔作った噺で、これまでにも何百回と演ったものでさえ記憶が飛ぶという状態。やはり人間、還暦を過ぎると頭の働きが落ちてくる。残念ながら、どんな落語家も、せいぜい50代までがピークで、その先、それをキープするどころか、普通はどんどん落ちていくのが現実。円丈の場合、落語とは一期一会だとして若いころの音源などはほとんど残っていない。一度か二度、高座でかけてそれっきりというものも多く、あのころのものが残っていればというのは談之助、唐沢の言う通り。今の円丈しか知らない人は、昔どんなにこの人がすごかったかがわからない。 いつもながら、19時に始まって終演が21時半を廻った。その間、ずーっと同じテーマで喋りっぱなし。このあとさらにウチアゲがあるのだから、そのパワーと知識と記憶力は驚くべきものがある。私はいつもどおり、ウチアゲには出ずに帰ったが。 9月30日記 静かなお喋り 9月29日 静かなお喋り このコーナーの表紙に戻る |