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客席放浪記

2012年8月23日立川談春独演会(亀有リリオホール)

 テレビ『ソロモン流』で取材を受け、「それを見ていらした人も多いのではないか」という談春。自分は川みたいなもので常にお客さんが流れているんだという論を披露したが、うーん、どうなんだろう。

 寄席に出ることなく独自の方法で落語会を開く立川流。そこに集まってくるのは、その演者を目当てにして集まってくる、目的を持った人たちなのではないか。故談志にしろ、志の輔にしろ、志らくにしろ、そして談春にしろ、みんなその人の噺を聴きたくて集まってくる。いわば水飲み場みたいなところ。それが川だか湖だか池だか沼だかはわからない。でもそれは、何々川とか何々湖といった名前のついた場所で、それを目指して人は集まってくる。

 そこへ行くと、都内のいわゆる寄席というところは、特定の演者が聴きたくて集まってくるというのは少ない。たまたま入ってみたら、その日の演者が不特定多数みたいな人を相手に落語を演っている。そんな空間に身を置いているというのは、なんとも落ち着いた気分になれる。なんという川か知らないが、ホッとするひとときがそこにある。
 特定の演者の、しかも独演会、しかもさらに立川流ともなると、なぜか身構えてしまう自分がいる。

 そうすると、談志の理詰めに作られた落語を一番そのまま受け継いだ感のある談春の落語を聴いていると、細かなところが気になって、のんびりと、「落語なんて何やってもいいんだ」と聴いていられなくなってしまう。

 一席目は『唐茄子屋』だ。これは先月も小平で聴いたばかり。与太郎に、かぼちゃを売りに行かせようとした叔父が、与太郎に、上を見て売れという意味がわかるかと質すところがある。商人の倅だ、そんなことは言われるのは嫌だろうから、くどくは聞かないが、で済ませてしまう。腰で担ぐという意味も知らない与太郎が、上を見て売る。つまり儲けを乗せて売れという意味がわかっていないくらいわかりそうなもの。与太郎を心配する叔父なら、儲けを最初から想定した値段を与太郎に言いそうなものだと思うのだが。まあ、そうなると、このあと落語として成り立たなくなるわけだが、気になりだすと私はどうにもいられなくなる。これが談春でなければこんなことは考えないのだが。変に理詰めにすると、どこか綻びが出てしまう。

 仲入りを挟んで、上下で演じられた『三軒長屋』になると、以前から気になっていたことを談春はうまく解説を入れてくれてから噺に入った。この噺、私にはどうにもこの三軒長屋の大きさが見えてこなかった。
 三軒長屋ということは、三軒の大きさが同じ空間が三つ並んでいるということだろう。鳶のカシラが住んでいるところは職人がたくさん出入りする。大勢集まって二階で手打ちをするところがあるくらいだから、かなり大きい。真ん中にあたるお妾さんの家だが、ここはそんなに大きくなくてもいいと思うのだが、三軒長屋ともなると同じ大きさ。これが剣術の先生の家ともなると、中に道場があるわけで、これはかなりの広さがないとならない。
 これを解説してくれるのだが、京都などにある間口が一間半とか二間の狭い間口ながら奥行が広いという長屋だとのこと。なるほどと思いはしたものの、どうも剣術の先生の家が気になってしまう。間口一間半程度の間取りでは剣術はできない。木刀を構えた時点でもうすごい接近戦だよ。
 これが気になりだすと、もうダメ。気になって気になって噺に集中できない。これなら余計な解説はいらなかった気がしてしまうのは、私がいけないんだろうけど。

8月24日記

静かなお喋り 8月23日

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