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客席放浪記

墓場、女子高生(ベッド&メイキングス)

2015年7月23日
東京芸術劇場シアターイースト

 高校の近くにある墓地。授業をさぼって女子高生たちが、そこをたまり場にしている。ほとんどはコーラス部の生徒たち。今度の発表会では何を歌おうかとか、あるいは恋の話。どこにでもいるフツーの女子高生たち。しかしよりによってなぜ墓場をたまり場にしているのかというと、仲間の一人日野が死んでしまい、彼女の墓がここにあるから。その日野自身も今は幽霊になって、この墓場をさまよっている。しかし彼女はあっけらかんとして、別に誰に恨みがあるとか、若くして死んだことに未練があるという風でもない。

 日野がなぜ死んだのかということは明らかにされない。病気だったのか、事故なのか、はたまた自殺だったのか。仲間たちは日野の死に対して、それぞれが納得がいかない毎日を送っているようだ。そんな中、オカルト部の生徒が日野をこの世に生き返らせようとする。

 私のように人生60年も生きてくると、死というものが身近に感じられるようになり、別に特別のことのようには思えなくなる。同年輩の人間が次々に亡くなっていくのを見るにつけ、だんだんに人の死に対して、何か思うこともなくなってきた。「ああ、あの人も寿命だったんだな」くらいにしか思わない。いや、現に私だって四年前に癌がステージ4まで行ってしまい、あの時点で死んでいてもおかしくはなかったわけで、もうこの先、いつ死んでも、それほど惜しいとも思わなくなった。だからということもあるんだろうけれど、若い頃のように、死を大きなもの、特別なものと考えなくなってきている。

 そこへいくと、この芝居の女子高生なんていう時代は、死というものを大きく受け取る。「なぜ死んだの?」という、どうやっても答えが得られないものに固執したりする。まあ、それも人生の通過地点として重要なことであるとは思うのだけど。

 オカルト部の甦りの儀式によって、日野はこの世に戻ってくる。彼女は生き返ったことをまったく喜ばない。せっかく安らかに死ねると思ったのになんで生き返らせたんだと怒りだす。

 やがて、日野は、仲間ひとりひとりに、「それじゃあ、あなたたちは私はなんで死んだと思いたいのか言ってみて」というゲームのようなことを始める。彼女たちは自分のイメージした美しい死の理由を語ってみせ、それで彼女たちはひとりひとり納得して行く。そして日野自身も。

 私たちは、知人の死や、好きだった有名人の訃報に接するとショックを受ける。そのほとんどは、「なぜ黙って死んだんだ」という思い。好きだった有名人の場合は、多くはこちらの方から手一方的にその人を知っているというだけのことだが、知人だった人の場合、「なんで何の挨拶も無しに死んでしまったんだ」という無念感が頭をよぎる。「それじゃあ、死ぬから。元気でね。さようなら」と言って欲しかったということだろうか? でも人間って勝手なものだよなぁ。死ぬのは本人なのであって、残されたもののために、それぞれに納得させて死ぬ必要なんてないのだから。

7月24日記

静かなお喋り 7月23日

静かなお喋り

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