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客席放浪記

2012年8月1日 いつか見た男達〜ジェネシス〜(本多劇場)

 劇団500歳の会、旗揚げ公演。今50歳くらいになっている役者10人が集まったユニット。開演前に配られた印刷物を見ると、出演者のひとり山西惇が18歳のときに観た東京ヴォードビルショーの『いつか見た男達』に影響を受けたと話したことから、実現した企画らしい。

 50歳を迎えた昔の仲間が温泉旅館で再会しての、あれやこれやの話なのだが、私はこの芝居を観ながら、いつしか頭の中が芝居を離れ、全然別の事を考えていた。

 子の曰く、吾れ
 十有五にして学に志す。
 三十にして立つ。
 四十にして惑わず。
 五十にして天命を知る。
 六十にして耳順がう。
 七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
 (孔子『論語』)

 いやー、もちろん私は孔子のような人生を送れというわけではない。
 50歳を過ぎた役者が等身大の年齢の役を演るというわけで、孔子は50にしてもう天命を知っていたことになるものの、この芝居の登場人物達は、天命を知るどころか、まだ惑い、ジタバタしている。もっとも私も同じようなものなのだが。

 役者さんというのは、ある意味でうらやましいもので、50歳になろうと年齢に応じていくらでも自分の能力を高めていくことができる。
 50代の落語家さんなどは、ちょうど脂の乗った、一番いい時期かもしれない。
 しかし、世の50代男性というのを見渡してみると、こんな哀れな年代は無いのではないかと思えてくる。
 職場では高給を取っている割には働けず、リストラの対象になりやすい。リストラをくらって再就職しようにも仕事はなかなか見つからず、運よく新しい職場を見つけても、まったく新しい仕事にはなかなか順応できない。女子社員からはバカにされ、かといって耐えるしかない。
 家庭に帰れば、やれ高校だ大学だと脛かじりの金のかかる子供に囲まれ、しかも相手は反抗期。子供の目からは、もう父親は尊敬できるおとうさんではなく、薄汚いダメ親父になっている。

 そんなことを頭でボンヤリ考えていると、この芝居の男達にはなんだか現実感が感じられなくなってしまう。まあ、久しぶりに会った50になった仲間達が集まって童心に返ってハシャいでいる姿と捉えれば、それでいいのだが。私だって昔の仲間に会えば実際に現実を忘れることもあるんだしね。

 芝居くらい浮世を忘れて楽しめって事なんだろうなあ。うん、私の方が間違っていたんだ、きっと。

 孔子は70歳になったとき、もう心のおもむくままに行動しても道理に反する事はしなくなったというが、私は果してそんなことができるだろうか? また、そんな人物になりたいとも思えないのだが。
 いかん、まだこんなことばかり考えている。

8月2日記

静かなお喋り 8月1日

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