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客席放浪記

きらめく星座

2014年10月5日
紀伊國屋サザンシアター

 戦争中の浅草のレコード屋の家族の物語。このレコード屋の家族は、どちらかというとハイカラな音楽が好きで、そういうものに力を入れたがっている。ところが、そういった敵国の音楽はいかんという風潮になってきてしまっている。そんな中、娘が右手を戦争で失った傷痍軍人と結婚して一緒に住むようになると、この男がガチガチの軍人だったことから、ますますおかしなことになってくる。

 この男が家庭に入って来て、それまでのレコード屋の主人夫婦や居候たちは隅に追いやられ、主導権が移って行ってしまう。それでもやりたい放題にさせるというのは、今の時代から思うと変な感じがするが、実際にそういうこともあったのかもしれない。

 山西惇の傷痍軍人は敵性音楽など否定する男。それでも井上ひさしの書く芝居だから、どこかユーモラス。あんなに嫌いだったポピュラー・ミュージックを最後の方では一緒に楽しむようになっていくところが可笑しい。

 この家の息子は脱走兵で、ときどき家に帰ってきては、またどこへともなくいなくなる。そのたびに満州に渡って一儲けして来たりしていて、緊張感がなかったりするのも可笑しい。もっとも、それが原因で、脱走兵の息子を捕まえるべく憲兵が住み込んでしまうという結果になるのだが。
 しかし、今の時代みたいに核家族化が進んでしまうと、三世代住宅どころではない、居候やら、憲兵やらまで一緒に暮らしているなんて信じられないような世界。でもあのころの日本の家庭って、そうだったんだろうなぁ。

 クライマックスは、召集令状が届いた若者がやってきて、出兵前に大好きだった天野喜久代の『私の青空』を、もう一度聴かせてくれと言う。ところがこのレコードは新しい主人になった傷痍軍人によって処分されてしまっている。この家の母親(秋山菜津子)は、元歌手。そこで彼らに『私の青空』を歌って聞かせる。

 『私の青空』は、元はアメリカのポピュラーソング My Blue Heaven だ。「笑顔と、暖炉と、居心地の良い部屋 バラの花が寄り添う小さな巣」を、「せまいながらも 楽しい我家 愛のほかげの さすところ」と訳したのは凄い。

 井上ひさしは、戦争というものが、幸せな家庭にどんな影響をもたらすのかを描きたかったのだろう。戦前の、ひとつの家にたくさんの人間が同居していた家庭が、今の時代から思うと、そんなに住みやすかったとは思えないのだが、それでも国のためなどというもので壊されてしまってはいけない。

 なんだか最近、きな臭くなってきたような気がしてならない。世の中またおかしな方向に向かいつつある予感がする。私などは、もうなんとなく井上ひさしの芝居はもう古くさい気がしてしまうのだが、それはあくまで私の好みの問題。この芝居の持っているものは、どこか懐かしさわ感じるとともに、やはり怖さを感じてしまう。

10月6日記

静かなお喋り 10月5日

静かなお喋り

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