March.29,2000 スケート靴を履いた歯医者

        下の写真は、私が通っている近所の歯科医院[小川源歯科医院]の待合室に掛けられているパネルである。

        フィギュア・スケートをしている若い男性の姿をとらえたものだが、さして気に留めなかった。ところが、しばらく通ううちに、このパネルの男性は、この歯科医院の若先生の昔の姿だとわかって、愕然とした。だって、今や見る影も・・・。フィギュア・スケートに関する知識ときたら、私はまるで無いに等しく、このパネルの人物が、なんとフィギュア・スケート界では知る人ぞ知る、大人物であるとは、夢にも知らなかった。

        小川勝。ご存知ない方に、競技歴を紹介しよう。

1977年        全日本ジュニア選手権 2位
1981年        世界ジュニア選手権 4位
1984年〜1987年 全日本選手権 優勝 4連覇
1983年〜1987年 世界選手権 出場 5回
1984年        サラエボ冬期オリンピック出場
1986年        世界選手権 10位

        もちろん、もう引退してしまっているが、歯科医をするかたわら、現在も解説者としてフィギュア・スケートのテレビ中継があると、伊藤みどりとのコンビで出演している。2月に大阪で行われた4大陸フィギュア・スケート選手権を、歯科医院の女性スタッフ達が「見て見て」と言うので、始めてフィギュア・スケートなる競技を見ることになった。本人は非常に照れていて、絶対にこの話題を口にしようとしないのですがね。

        見る前に思い描いていた、小川先生の解説とはこんな感じ。

        「ああ、転倒ですね。すいません、ちょっと今のシーン、レントゲン・ビデオを見せて下さい。―――――ああ、やっぱりそうですね。右上の奥から2番目の歯が虫歯です。これでバランスを崩したんでしょう。おやっ、親知らずもある。これは抜いておかないと、これからの選手生命も心配ですね」

        そんなことを考えながら治療を受けていると、思わず笑いがこぼれてしまっていた。歯医者の診察台で笑っている人間も珍しいだろうが・・・。

        それで、テレビ中継を見ることになったわけだが、フイギュア・スケートって予想していたよりも、かなりメンタルなスポーツだという印象だった。採点が減点式なので、一度ミスをすると、それが後々まで気持ちの上で尾を引いてしまい、演技がバラバラになってしまう。また、ミスを取り返すために、より難しい技にトライしなければならなくなる。どちらかというと、気の弱そうな勝先生には、およそ向いてないスポーツのように感じられた。

        テレビの解説だが、口調が歯の治療をしているときと、そっくり。日本の選手が転倒したりすると、「おしいなあ」なんて言う口調が、「おしいなあ、薬が歯の根っこの奥まで入らなかった」と言うときとおんなじ。

        大阪から戻った先生にテレビ中継の話を向けても、あまり話したがらない。よっぽど照れ屋なんだろう。それからというもの、先生の治療を受けていると、頭の中でこんな言葉が頭の中に渦巻くようになってしまった。

        「はい、スタートです。キュイ―――ン。まずは、トリプル・フリップからダブル・アクセルのコンビネーション。キュンキュンキュン、キュンキュン。はい、次はトリプル・トゥループね。キュンキュンキュン。あっ、レイバック・スピンのコンビネーション・ジャンプがうまくいかなかった。これは、ドリルがレイバックの回転不足を起こしているからだな。さーあ、いよいよスピンかけますよお。キィー―――――――――ン」(書いている本人、これらの専門用語がさっぱりわからないんですがね)。

        実は冒頭のパネルを撮ろうとしていたら、後ろから声がかかった。勝先生本人だ。

        「井上さーん、止めましょ―よ―。今やもう別人なんだものー」

        くっそー、他の人の治療をしているものだとばかり思っていたのだが、いつのまにか見ていたのだ。先生、あんたに言われなくても、これは誰が見ても別人じゃい。誰がこのパネルに写っている細身の締まった体型の若者と、中年太りの歯医者を同一人物だと思うかあ!

        本当は、白衣姿の現在の先生の写真を撮って、並べてやろうかと思ったのだが、それだけは勘弁してくれと泣いて頼むので、許してやる。そのかわり、ハガキに印刷されていた医院スタッフの似顔絵を公開。

        右上が、院長であるお父さん。それで、左上が息子である勝先生。ちょっと美化しすぎでないかい。どうしても実物が見たい方、明日からいよいよ、フランスで世界選手権があって、先生またテレビに出る。放送予定は以下のとおり。

3月30日(木) 26:40−28:05
3月31日(金) 25:55−26:55
4月1日(土)  26:10−27:10
4月2日(日)  16:00−17:24
          25:45−27:15
全て、TBSテレビです。

        このホームページを見てくださっている方で、小川先生を知っている方はいないでしょうが、もしいたら内緒ね。今日の内容を先生に知られたら、今度治療に行ったとき、あの優しい声で、「いのうえさーん、この際だから、全部抜いちゃいましょーかー」と言われるのが落ちである。


March.27,2000 梅沢武生劇団

        本日、明治座千秋楽。本来なら毎月恒例の、ウチの出前を取っていただいた出演者を紹介するところなのだが、今月は誰も取ってくれなかったのです。今月は梅沢武生劇団、梅沢富美男、前川清公演でした。

        梅沢劇団というのは、我々、楽屋出入り業者にとっては悩みの種。絶対に誰も出前を取ってくれないんですよ。なんでも、自分のところで食事を作って、持ちこんでいるらしい。どうも推測なのだが、明治座は梅沢劇団自体に売り興業をしているのではないだろうか? 明治座が制作営業まで担当するのではなく、貸しホールのように一日いくらの単位で売り、梅沢劇団が自由に使うといった形態。そのため、通常の明治座公演よりも、2〜3割安い料金設定になっている。切り詰めるところで、とことん切り詰め、お客さんに少しでも安く楽しんでもらおうとする心がけ、これは見上げたものだ。

        今回、実は梅沢劇団のスタッフが何回か取ってくれたので、ひょっとしたら、梅沢富美男ないし、武生の元へ持っていったかもしれない。これでも、3年くらい前までは、お二人からは何回も注文があったのだ。とことん切り詰めるようになってしまったのかなあ。

        そういえば、5〜6年前こんなことがあった。お二人以外からは注文がない1ヶ月が終わろうとしていた。明日が千秋楽という日、掲示板に一枚の貼り紙があった。「明日の千秋楽には、弁当を支給します」。ほお、さすが千秋楽、明治座の弁当(1500円)でも配るんだろう。これでは、明日は座長さんたちの分もウチは用無しだなと思っていた。千秋楽当日、電話が鳴った。「楽屋ですが、昼に天丼60個持ってきてもらえるでしょうか」。なにー!、弁当ってウチの天丼(当時750円)のことかあ!


March.22,2000 しかと

        中学、高校のころ、クラスの不良がよく使う「しかと」という言葉が気になった。「てめえ、シカトしやがって」「シカトしてんじゃねえよ」。聞いているうちにだいたいの意味は解ったのだが、こんな言葉、辞書を調べても出ていないのである。国語辞典でも広辞苑でも出ていなかった。出ているのは、「確かと」という「まちがいの無いように」という意味だけ。「広辞苑! てめえ、シカトしてんじゃねえよ!」という気分だった。

        ところがである、先日ラジオを聞いていたら、何と新しい広辞苑には、この[しかと]が出ているというのである。富士通のノート・パソコンに付いて来たCD−ROM版の広辞苑を、さっそくドライブに入れてみる。

        しかと―――相手を無視すること。「――する」

        ほう、解ってたんじゃないの。で、親切なことに、この語源まで載せてくれているのである。

        花札の紅葉の札の鹿がうしろを向き知らん顔しているように見えることからという。

        へへえ、面白えじゃないの。花札が出てくるあたり、やっぱり不良、賭場、ヤーさんの匂いがプンプンとしてくるではないの。やっぱり、そのスジの隠語だったのかもしれない。さっそく花札を確かめてみる。

        ほんとだあ。鹿がそっぽ向いてる。それにしても、可愛げのない鹿だよなあ。こらあ、この鹿! こっち向かんかあ! この目がバカにしてるよなあ。

        ところがですね、花札をよく眺めていたら、こんな札も目に入ってしまった。

        あまり花札って詳しくないのだけれど、左のは鶴だよね。それで右の鳥は何? まあ、何だっていいんだけけれどさ、こいつらも、そっぽ向いていませんか? 「こらあ、この鶴、[つると]してんじゃねえ! こらあ、この鳥、[とりと]してんじゃねえ!」


March.19,2000 箱根湯元 HOTEL滝亭

    

        株主優待券なるものを貰って、箱根一泊旅行に出かけてきた。箱根湯元温泉[HOTEL滝亭]。なんだかこのアーリー・アメリカン調の外観といい、ネーミングといい、ラヴホテルを想像されそうだが、決して、いかがわしい宿泊設備ではない。一泊二食20000円のところ、三割引になって14000円だという。凄く得した気分。

        ロビーに入って、まず驚くのは、ガラーンとしていることである。これといった飾りなし。現代的なデザインのソファがいくつか置いてあるだけ。観光地によくある土産物コーナーは、壁に菓子と地酒が、ちょっとだけ置いてある。それだけ。フロントで宿泊カードに記入すると、部屋に案内される。

        「どうぞ、ごゆっくり」。部屋に案内すると、案内係はすぐに立ち去ってしまった。それは不思議な空間の部屋だった。入ってすぐ右にユニット・バス。左にクローゼット。奥にシングルベッドが四つ。その手前にテーブルがひとつに、椅子が四脚。左手に六畳の和室。大きなワンルーム・マンションとでもいうのだろうか? リビング・ルームと寝室と和室が、ごちゃ混ぜとなっている。元々、経営母体がマンション建設で有名な[セザール]だということもあるのだろう。なんだか、マンションの一室を改造したような部屋なのだ。

        とにかく一度、部屋に通されたら、後はまったくの干渉なし。食事は夜朝共、食堂に時間が来たら勝手に行って食べる。風呂は露天風呂付きの大浴場。寝具はベッドだから、勝手に好きな時に好きなように寝ればいい。なんだか、ビジネス・ホテルの感覚に近い。

        老舗旅館など、仲居さんがいろいろと面倒をみてくれたり、番頭さんが寝具の上げ下げに来り、女将が挨拶に来りして、それはそれで雰囲気があっていいのだが、わずらわしく感じるときがある。その点、こういうホテルはドライで、これはこれでまた、のんびりできる。そっとしておいてくれるのが、サービスとも言えるのだ。

        「夕食は、伊勢海老のお造りと鮑の踊り焼きのプランが、同じ料金で食べられますが」と言うので、そっちにしてもらった。食堂で他のテーブルを見たら、どのテーブルも普通のプランだった。伊勢海老と鮑の代わりに、鍋が付いただけ。私、伊勢海老は、刺身にするより焼くか煮るかした方が好きなのだが、鮑の踊り焼きは旨かった。バターとレモンで半分食べ、あとの半分はおろしポン酢でいただいた。これ一品だけでも鍋に勝った気がした。


March.16,2000 ロケ依頼

        もう1ヶ月も前のこと、一本の電話がかかってきた。

「はい、翁庵です」
「あのー、こちらVシネマを制作している××××という会社の者なんですが、今度サクラギアツコさん主演で『ユートピア』という映画を撮るんです」
「はあ」
「それでですね、サクラギさんが銀座へ向かう途中で、蕎麦屋さんに立ち寄るシーンがあるんですよ。それで、おたく様を使わせていただけないかと・・・」

        私も映画ファンである。自分の店がロケに使われるのはうれしい。しかも、撮影現場を見ることができる。しかし、話を聞くと、撮影が平日の昼間。3時間くらいを予定しているという。うちは、昼が3時までの営業で、夕方は5時に始まる。その間を利用してもらったとしても、2時間しかない。撮影なんて往々にして時間が延びる傾向にある。撮影が終わったら跡片付けもあるし、掃除もしなければならない。そこまでしても、うちには何のメリットもない。これは悪いけれども断るしかない。

「構図としてはですね、サクラギさんが座敷で蕎麦を食べるという絵が欲しいんですよ」
「ああ、うちはね、座敷ないんですよ。椅子席だけ。5年前に改装したときに、座敷は取り外しちゃったんです」
「ああ、そうなんですか。困ったな。それじゃあ、どうでしょう、建物の外観だけでも撮らしてもらうというのは」
「うーん、それもねえ、5年前の改装で変えちゃって、ちょっと以前のような趣のある、老舗のような感じじゃなくなってしまったんですよ」

         がっかりしたように、電話は切れたが、あの後どうしたんだろう。

         ところで、『ユートピア』って仮題だろうけど、どんな映画なんだろう。サクラギアツコっていう女優、知っている人います? まさかポルノじゃないだろうな。


March.6,2000 携帯電話

        先月、仲間と西麻布の中華料理屋で会ったときのこと、来るはずのひとりが、なかなか姿を現さない。

ボクちゃん「後藤さん、遅いね。どうしちゃったんだろう。電話してみようか。誰か携帯持ってない?」
鈴木のバカ「井上、まだ携帯持ってないのかよ。ほら、俺のを使えよ」
ボクちゃん「ねえ、誰か後藤さんの携帯の電話番号知らない?」
いいこ安渕「ああ、解るよ。ええとね、×××−××××ー××××」
ボクちゃん「ええっと。ねえ鈴木、携帯ってどうやってかければいいの」
鈴木のバカ「普通にかければいいんだよ。数字押すんだよ。それで電話の外れてるマーク押すの」
ボクちゃん「こう? これでいいの? あっ、通じた。後藤さん、今どこ?―――――あ、そう。―――――――うん、じゃあ30分後にね」
鈴木のバカ「お前なあ、いいかげんに携帯くらい買えよ。パーソン・ツー・パーソンで通じるんだぞ。今時なあ、携帯持ってない奴は人間じゃねえよ」
ボクちゃん「ええーっ、じゃあ僕は妖怪人間ベム?」
鈴木のバカ「人間になりたけりゃな、携帯電話買って来い!」

        別に携帯電話を嫌っていたわけでもない。他人が携帯を使っているのも、人が言うほど気にならないほうだ。ただ、プライベートな会話を人前でしているのが恥ずかしくないかなあと思うのだけど。

        確かに、今この場に携帯さえあればという状況も何度も経験している。ただ、そんな状況は、ほとんど月に一回あるかないか。それだけの為に、月々の基本使用料を払い続けるのが、もったいないと思っていただけのことなのだ。

        昔の海外テレビドラマ『それゆけスマート』では、主人公の靴が今で言う携帯電話になっていた。ああいう型の携帯が出来たら買おうかなと思っていたのだが、一向に、そんなもの出る気配がない。そんなの作る訳ないか。

        というわけで、携帯電話を買う決心をした。

「へいへい、何か御捜しでしょうか?」
「早く人間になりたーい」
「はっ?」
「あっ、いや、そうじゃなくてさ、初めてなんだけど携帯電話欲しくてさ」
「へいへい、今はいいのがたくさん出ていますよ。ほら、これが今一番人気のある、DoKoMoのデジタル・ムーバ502i。カラー液晶画面で、キティちゃんを待受画面に出すことも出来るんですよ。インターネットで文字メールも送れるし、ゲームや占いだって出来ちゃうんですから」
「あのね、そんなのいらないの。遊びじゃないんだから。普通に会話だけできればいいの」
「それでは、これはいかがでしょう。IDOのcdmaOne」
「ああ、コマーシャルで音がよく聞こえるというやつ。ほんとなの? たいして変わんないって話だけど」
「いえいえ、格段に違いますですよ」
「そうかあ、じゃあそれにするかな。いくら?」
「そうでございますね。正直言って4000円と言いたいところですが、勉強させていただくということで、半額の2000円ぽっきりということでいかがでしょう」

        人間になれるのに、2000円なら安い。手続きを終え、携帯電話を片手に外を歩く。どこからもかかってこない。当たり前だ。誰も私の携帯の番号を知らないんだもの。試しにどこかへかけてみることにした。一番暇な奴(特に名を秘す)がいい。よし、あいつにかけてやろう。

「あの、ぼくだけど」
「何? 何か用?」
「あのね、人間になれたんだよ、ぼく」
「えっ、何言ってんだよ」
「あ、あのね、携帯電話買ったの、ぼく」
「ふーん、それで」
「番号知りたくない?」
「別に」
「そんなこと言わないで、聞いてよ」
「めんどくせえなあ」
「あのね、×××ー××××ー××××」
「――――――」
「ねえ、解った? ちゃんと書きとめてくれた?」
「ああ」
「じゃあ、一旦切るから、こっちにかけてみて」
「なんでそんなことしなくちゃいけないんだよ」
「だって、ほんとに通じるか知りたいもの。お願い」
「やだよ、そんなのめんどくせえ」
「そんなこと言わないでかけてみてよ。あっ、ほんとに番号書きとめてくれたのかなあ? ちょっと読み上げてみて?」
「うるせえなあ、俺忙しいの。お前と違って。じゃ、またな」
「あっ、やっぱり書きとめてくれてないんでしょ。ちょっとちょっと切らないで」
「ブツッ」
「ああ、切りやがった」

        街を歩いていると、携帯電話を売っている店がいくらでもあるのに、気がついた。そのうちの一軒の店先で、私の今買ったばかりの機種と同じのを見つけた。「おお、私のと同じだ」。そして、次の瞬間、目が点になってしまった。なんと1円。くっそー、あの親爺ボリやがった。人間になるのは大変だ。

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