January.28,2001 ありがとうございました

        本日明治座千秋楽。今月は五木ひろし座長公演『三味線風浪唄(ながれうた)』(川口松太郎『三味線やくざ』より)でした。五木ひろし様、姿晴香様、青山良彦様、嘉島典俊様、沢本忠雄様、吉沢京子様、佐竹明夫様、眞乃ゆりあ様他、大勢の皆様から注文をいただき、楽屋まで出前いたしました。ありがとうございました。

        沢本忠雄様。すっかり御贔屓をいただいてありがとうございました。現在は吉本に所属の役者さんですが、昔は日活の役者さんだったんですね。インターネットで、いまごろになって知りました。また明治座ご出演のときは、よろしくお願いいたします。


January.25,2001 好きなことを職業にすればよいのか?

        今月のこのコーナーは、ちょっとマジになってきてしまって、なんだか私の本意ではないのだが、どうにもひっかかる本を読んでしまったこともあって、とりあえず書きたいことを書いてしまっている。こういうのは正直言って苦手だし、読まされる方もウンザリだろうが、もうひとつだけ書かせてもらいたい。

        「自分の好きなことがかならずなにかあるはずだ」 中島義道が嫌いだという言葉の最後に出てくるもので、他の9つの言葉とはいささか趣きが違う。学生時代、どんな職業に就きたいたいかと訊かれて、なりたい職業をすぐに答えられる人は少ないだろう。すると「ほら、あなたが好きなことがなにかあるはずでしょう」と追い討ちをかけられる。それはだからといって売春婦であってはいけないし、麻薬の売人であってはいけない。こんなことは大ウソだと著者は言う。なんだかこれも凄い理屈だよなあ。

        またさらに、こんなことを言う。「たとえファッションモデルが好きであっても、この身体つきではどうしようもない。たとえ中田英寿のように世界を股にかけたサッカー選手になりたくても、この運動神経のなさではどうしようもない」―――って、そういう人は最初からそんなことを考えないって! ある程度自分がスタイルがよいと思っている人や、自分は運動神経がすぐれている人であってこそ、そこから「もしかしたら、努力次第では」と考えるのではないか。

        小学生のとき、将来何になりたいかというテーマで作文をかけと言われて困ってしまったことがある。何も浮かんでこなかった。飛行機のパイロットか? 別にそんなものになりたいとも思わなかった。中学に行っても、高校を卒業しても、自分が何になりたいのかなんて分からなかった。ただ、仕事をするのは好きだった。学生時代は手当たり次第にいろいろなアルバイトをやった。

        自分の好きなこと、趣味を仕事にすればいいのかといえば、これがまた難しい。例えば自分はロックが好きだからミュージシャンになろうとしても、売れるかどうか分からない。それでもいいといえばいいのだが・・・。ミュージシャンが無理なら音楽関係の仕事に就けばいいかといえば、これがまた仕事となると遊びとは違うんだということが分かってくる。現場はあくまでビジネスの世界である。これは私自身が体験したことだから骨身に沁みて分かるのだが、外から見たのとは大違い。趣味を仕事すればいいというものではない。

        ほとんどの人は、自分がほんとうにやりたいこととは違うと思いながらも、学校を卒業し、自分の能力に合ったと思われる会社に就職する。やがて仕事に馴れはじめると、いくらか余裕がでてくる。私は最終的に家業の蕎麦屋を継ぐことになったが、この職業を嫌だと思ったことはない。好きである。と同時にこのホームページを読んでいただければお分かりのように、映画を見るのは大好きだし、ブルースを聴くのも大好きだし、美味しいものを食べるのも大好きだし、旅行も大好きだし、本を読むのも大好きだし、落語を聴くのも大好きだ。そして、こういうホームページを作るのも大好きだ。

        最初から、この仕事は好きだとか、この仕事は嫌いだとか経験もしてみないで判断するのは出来ないと思う。仕事というのは、ある程度経験を重ねていくうちに、その面白さというのが分かってくるものだと思う。


January.19,2001 ひとの気持ちを考えるということ

「相手の気持ちを考えろよ!」
「みんなが厭な気持ちになるじゃないか!」

        私が嫌いな中島義道の本『私の嫌いな10の言葉』の中で、一番最初に取り上げられているいる言葉が、「相手の気持ちを考えろよ!」 この冒頭で私はすでに「ああ、これは私の読みたかった本ではないな」と感じてしまった。著者はいう。

「相手の気持ちを考えることは、じつはたいへん過酷なことです。いじめられる者は、相手の気持ちを考えるのならいじめる者の『楽しさ』も考えねばならない。暴走族に睡眠を妨害される者は相手の気持ちを考えるのなら、暴走族の『愉快さ』も考えねばならない。わが子が誘拐された者、妻を目の前で強姦されたあげく殺された者が、相手の気持ちを『考える』とはどういうことか?」

        こういう理屈をつけられると、ムッとくる。[相手の気持ちを考える]とは、みんなが平和に楽しく暮らすためには、相手を尊重してあげることだと思う。こういうことを個人主義と混同してはいけないと思う。私自身、個人主義とは何かということを今ひとつ理解できていないのかも知れないが、上の文章などは、ちょっとヘンだと思う。

        私の住む町にはスーパー・マーケットが存在しない。住民は、肉は肉屋で買うし、魚は魚屋で買う。乾物や調味料といった一般的な食料品を買う場合は、小さいながら食料品店が二軒ある。一軒は、割と品揃えが多いのだが、通路が狭く、床にも商品を置いているから、人がすれ違うことすら困難な状態。若い女将さんが切り盛りしていて、店員さんはほとんど女性。いつ行っても混んでいて活気がある。

        この店の二軒しか離れていないところにあるもう一軒の店は、空いているので買物が比較的楽だ。品揃えだってもう一軒の店には劣るかもしれないが、一応のものは揃っているし、よく利用する。では、なぜこちらの店には客が少ないのだろうと以前から思っていたのだが、最近になってその理由が分かるような気がしてきた。こちらは店員さんがほとんど男だ。若いアルバイトらしい人もいて、その人はテキパキとよく働いている。

        問題は高齢者の男性だ。最初はこの店の主人だと思っていた。ところが、この人、店主ではないことが分かった。私の想像だが、この人、前の会社を辞めて、この職場に再就職したのではないかと思う。若いうちは、仕事の憶えも早いものだが、歳を取ると、なかなか仕事が憶えられなくなるものだ。この店は高齢の女将さんが切り盛りしている。この女将さんが年中、この高齢者の店員に文句を言っているのだ。「まったくもう〇〇さんは仕事ができないんだから」 「早く野菜を並べて置かなくちゃダメじゃないの!」 「あの味噌はウチの売れ筋商品なんだから、無くなったらすぐ補充しておいてくれなくちゃダメじゃないの!」

        おそらく、この店員さんは店員さんで、一生懸命に仕事しているに違いない。しかし、年齢とは怖いものですね。自分ではやっているつもりでも体と頭が付いて来ない。この店で女将さんが誤っているのは、お客さんがいるというのに、店員を怒鳴りつけているということ。店員さんの[気持ちを考えていない]。人前で怒られることが、この人のプライドをどれだけ傷つけていることか。そしてまた、この行為が二重に誤っているのが、お客さんの[気持ちも考えていない]ということなのだ。それは、[みんなが厭な気分になるじゃないか!]ということに繋がるのだ。

        中島義道が「みんなが厭な気分になるじゃないか!」を嫌いだというのは、日本人はその場の[気]を乱す人を徹底的に排除しようとすることから来ているのだが、それはそれ。大学の哲学の教授が考えそうなことだが、実社会において、ひとつの商売を成功させようとしたら、その店の[気]を乱すのは、やっぱりまずい。消費者は、どうせ買うなら気持ち良く買物をしたいものだからだ。

        今月の11日に、この店で納豆を買った。翌12日の朝に食べようとしたら、ちょっと臭いがおかしい。納豆は賞味期限が切れかけているものの方が美味しいのだが、これは明らかに臭いが普通じゃない。賞味期限を見てみたら、昨年の12月30日。12日間も賞味期限の切れた物を置いておくか、普通。これだって店員さんのミスなんだろうけれど、徹夜してでも商品の管理を一緒になってチェックしていく覚悟がないと、食料品店の経営者としては失格だと思う。


January.8,2001 「自分の胸に手を当ててよく考えてみろ!」

        もう随分と前のことだ。私の店の一軒先に10階建てのビルがある。各階ごとにテナントの会社が入っているオフィス・ビルだ。当然、毎日のように出前に行く。

        ある日のことだ。このビルの守衛さんが、店に怒鳴り込んできた。
「今日、ウチに出前に来ただろう!?」
「ええ、お届けしましたが」
「その時に、蕎麦の汁をエレベーターの中にこぼしただろう!!
「いえ、そんなことはしていませんが」
「嘘をつくな! ちょっとこっちへ来て、見てみろ!!」

        私は守衛さんに引っ張られるようにして、ビルのエレペーターに行った。
「ほら、ここを見ろ! 汁がこぼれているだろうが!!」
「いや、私には記憶がありませんが」
守衛さんは、怖い顔をして私を睨みつけて、こう言った。
「なんだと! 自分の胸に手を当てて、よく考えてみろ!!」

        自分の身に覚えの無いを考えてみたって、無罪は有罪にならない。このビルに蕎麦を出前するのは確かにウチが多いが、他の蕎麦屋だって出入りしている。ここで、「すみませんでした、気がつかないうちにこぼしてしまったのでしょう。申し訳ありませんでした」と言ってモップを持ってきて拭き取ることもできた。しかし、私もこのときばかりは引き下がる気にならなかった。この守衛はいつも出入りの業者にうるさく、威張り散らしている。

        私は守衛が蕎麦の汁だというエレベーターの床に屈み込んで、匂いを嗅いでみた。するとその液体からは蕎麦汁の匂いではなくコーヒーの香りがしてきた。
「ちょっと匂いを嗅いでみてください。これはコーヒーをこぼしたものですよ」
このビルのエレベーターの前には紙コップ式のコーヒーの自動販売機が設置してあった。このビルに入っている会社の社員がコーヒーを買い、それを持ってエレベーターに乗り、震動でもあったのだろう、コーヒーが床にこぼれてしまったに違いない。

        匂いを嗅いだ守衛は、苦虫を噛み潰したような顔をして私を見た。それでそのままプイと行ってしまった。それ以来、私はどんなことがあっても人に「胸に手を当てて、よく考えてみろ!」という言葉は絶対に使うまいと思った。よく考えてみると、これはかなり暴力的な言葉だ。相手を頭から疑い、自分の想像や考えを強引に認めさせる言葉。こんな言葉を軽々しく使うものではない。

        『私の嫌いな10の言葉』で中島義道が、「胸に手を当ててよく考えてみろ!」を持ち出したのは、ちょっと違うケースなのだが本質は変わらないと思う。またこの言葉以外に「謝れよ!」をあげている。「謝れよ!」は、自分の前にひれ伏す相手を見て復讐心を満足させることであり、謝られたところで謝られた方も相手を本当には許すわけではないという。それは確かにそうだろう。しかし、しかしだ。私は使いはしなかったが、「それは蕎麦の汁ではなかったでしょ? 謝ってくださいよ」と言いたかった。これは私が無罪か有罪かを認めてもらう重要なことだった。しかし謝罪の言葉もなく、その数ヶ月後、この守衛さんは退職した。この守衛さんだって私に有罪を認めさせ、謝らせようとしたのだろうに。

        たかが、エレベーターの床に液体がこぼれただけ。掃除は自分の仕事じゃなかったとしても、ちょっと拭けば済むこと。欧米型の個人主義社会では分業が進み、自分の仕事以外は絶対にやらないという。人の仕事に手を出すのは、その人の仕事を奪うことになるという考え方らしいのだが、私にはどうもこれが合理的な考え方だとは思えない。そんなことが個人主義というのなら、それは行きすぎていると思うのだが。

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