April.27,2001 近江町市場(おうみちょういちば)

        [碧羅]の料理が旨かったのと、雨ノ森夫妻との再会がうれしかったのとで調子に乗って生ビールを昼間っから三杯も飲んでしまったのが失敗だった。「それでは、金沢の街を案内しましょう」と雨ノ森の旦那に促され外に出たときは、すっかり酩酊状態。市内へ向かうバスに乗り込んだ途端に、クーッと眠り込んでしまった。

        「井上さん、降りるよ!」の声で目を醒ます。寝惚けまなこで見渡すと、そこは近江町市場の入口。何となく、住宅地のアーケードといった雰囲気の入口を入る。入ってすぐのところに回転寿司屋があった。「この店はね、もっとも客の年齢層の高い回転寿司屋」とハルカさんが言う。どういう意味だあ?

        アーケードの奥の方まで、ズラリと食材屋が並んでいる。鮮魚を売る店。名物の加賀野菜を売る店。写真では見たことがあるデカイ野菜が並んでいる。旨そうな加賀レンコンを見つけて、しばらく眺めているとハルカさんが、「どう? 買って返ったら?」。うーん、それにしてもデカイ。なんで加賀野菜ってこんなにデカイんだ? ドテレンコン、ドテタケノコ、ドテキュウリ。ハルカさんはドテキュウリを買う。私も買って帰ってもいいのだが、単にデカイだけっていう気がするけどなあ。

        かのゲンゲを見つける。水魚と書いてあるがゲンゲで通っているらしい。深海魚で下の下の魚だからゲンゲというらしいのだが、それにしても見た目は悪いなあ。

        いくら一盛200円と言われてもねえ。「煮て食べると美味しいですよ」と雨ノ森旦那。まあ深海魚だから天ぷらか煮つけだろうな。源ちゃんは、「こんな魚、死んでも食いたくない!」と呟く。私も同感。「どう、買っていかない?」とハルカが言う。誰が買うか!

        名物いわしの糠漬を発見。

        いわし、ふぐ、にしんなどを米糠や塩で漬けたもので、そのまま薄切りにして食べるものだという。「これ、旨いの?」と訊くと、雨ノ森夫妻、源ちゃん共に「しょっぱい!」とだけ答えて、旨いとも不味いとも言わない。ハルカの奴がまた「どう? 買っていかない?」と言う。買うもんか!

        ゴリを見つけた。

        川魚で、刺身にしたり、ゴリ汁にしたりするらしい。それにしてもこれもグロテスク。「どう、買っていかない?」とまたハルカのバカが言う。そーっと隣の乾物屋へ行って、ゴリの佃煮を買う。ここの姉ちゃん、ハッピ姿で売り気充分。「ねえねえねお兄さん、ちょっと味見ててっよ。買えなんて言わないからさ、味見るだけでいいんだから!」 結局気がついたら、ゴリの佃煮以外にも、ホタルイカの塩辛を買わされていた。

        どじょうの蒲焼というのが目につく。

        「これ、旨いのかなあ」と何に考えているのかわかんない脳天気のハルカに訊くと、「ウ―――ッ」と顔をしかめて、「買っていったら?」と言う。買うかバカ、そんな顔をされたものを!

        魚類は、ものによって安いものも高いものもある。生ホタルイカなどは、築地で買った方が安い。なんだか、いかにも観光客向けという魚屋の前で、源ちゃんと生嶋の足が止まる。「カニ2匹と甘エビとウニで本当は、一万五千円なんだけど、一万円はいいや。五千円にしてやるよ!」なんてことをいう。もともとの値段はどうなっているんだろう。ふたりはここでいそいそとお買い物。宅配便で送る手配をしている。私は迷ってしまった。うーん、安いには違いないが、宅配便の料金を考えるとなあ。築地で買っても変わらないような気がするし、それにしてもあの甘エビ、卵がびっしり付いて旨そうなのだが・・・。結局買わずに帰ってしまったが、源ちゃん、生嶋、あれ旨かった?


April.25,2001 ありがとうございました

        本日明治座千秋楽。3月4月の2ヶ月間は、平幹二朗座長公演『近松心中物語〜それは恋』(蜷川幸雄演出)でした。平幹二朗様、高橋惠子様、二木てるみ様、根岸明美様、新橋耐子様、瑳川哲朗様、西岡慶子様、坂部文昭様、三谷六九様、大門伍朗様他、大勢の出演者の皆様からご注文をいただき、楽屋まで出前をお届させていただきました。どうもありがとうございました。2ヶ月間の公演でお疲れでしたでしょう。

        ラストシーンで客席まで雪に見たてた紙吹雪が舞い、終演後の浜町、人形町の街は身体に紙吹雪をつけたお客様が、その紙吹雪を落としていくものですから、紙の小片だらけ。ちょうど桜の花が散るときなど、道路は凄いことになっていましたっけ。当店にも観劇帰りのお客様がたくさんお見えくださいました。そうなると当店も、紙吹雪だらけ。ハハハハハ、今から思うと楽しい2ヶ月間でした。

        根岸明美様、ご来店の折に、増村保造監督と喧嘩したエピソードを聞かせていただきありがとうございました。たいへん楽しくうかがいました。増村監督にたてつくというのは、いい度胸ですね。ところがそのあとも声がかかって2本ほど出たというのですから、増村監督も根岸さんのことを一目置いていたでしょうね。


April.18,2001 金沢に着いてみれば・・・

        金沢のJRの駅に集まった三人の中年男達は、顔を見合わせ、同時に呟いた。

「で、誰が雨ノ森さんと連絡を取ったの?」

        ことの起こりは、今年の2月始め、白石加代子『百物語』を見に行ったあとのこと。源ちゃんと生嶋、そして私の三人は中華料理屋で盛りあがっていた。だいたい三人で次のような内容の会話を交わしていた、ぼんやりとした記憶がある。

「旨いなあ、この中華」
「うん、そう言えばさあ、雨ノ森ハルカさんがホームページに書いている金沢の中華料理屋、[碧羅]って言ったっけ。あれ旨そうだよなあ」
「おう、あれ食ってみてえなあ」
「あっ、雨ノ森さんは近々転勤だってよ」
「ふうん、いつ?」
「なんでも5月ごろって言ってた」
「そうかあ、それじゃあ転勤しちゃう前に一度みんなで行こうか?」
「おう、そうだな、行こう、行こう!」
「まだ寒いから、暖かくなってからがいいな」
「そうだよな。寒いうちに行く奴の気が知れないよな」
「住んでいる奴の気なんて、もっと知れないよな、ギャハハハハ」
「ほんと、ほんと」
「ところで、金沢って何があるんだ?」
「ええっとね、兼六園だろ、それから・・・・・・兼六園だろ・・・・・・・それと兼六園」
「ばかやろう、兼六園しか言ってねえじゃねえか」
「それじゃあ、お前、何か兼六園以外に金沢の知識があるのかよ」
「・・・・・・・・・ええっと、無い!」
「ほうら、無いじゃないか。ギャハハハハ」
「いいんだよ、金沢の知識なんて何もなくたって。それよりさ、桜の季節に行ってさ、兼六園でゴザ敷いてさ、花見しようぜ」
「いいね、いいね。雨ノ森の奴に酒と肴用意させてさ、ドンチャン騒ごうぜ」
「お前さあ、さっき雨ノ森さんって言ってたのが、いつの間にか雨ノ森の奴になってるぞ」
「いいんだよ、俺は奴とは長い付合いだからよ」
「でもさあ、兼六園って、花見できるのかあ?」
「出来るって、出来るって。出来なくても勝手にやっちゃおうぜ。ギャハハハハ」
「夕方になったら、風呂でも行ってさ、旅の疲れでもとって『おい、ハルカ、ちょっと背中ながせ!』なんてこき使ってさ。ギャハハハハ」
「いいね、いいね。それでさ、夜は夜でどこかピンサロでも行ってさ」
「『あら、いらしたの』なんて、そこでハルカが偶然バイトしてたりしてな。ギャハハハハ」
「おいおい、雨ノ森さんが、いつの間にかハルカって呼びつけになってるぞ」
「いいんだよ、あいつとはパソ通時代からの長い付合いなんだからよ」
「それで、雨ノ森さん、金沢のあと、どこへ転勤するんだって?」
「東京らしいよ」
「それじゃあ、意味無いじゃん!」
「俺、今度は北海道がいいなあ」
「沖縄って一度も行ったこと無いから、沖縄にしようぜ」
「しようぜって、雨ノ森さんの旦那さんの転勤先が東京になるんだから仕方ないじゃないか」
「東京なんて、2〜3ヶ月にして、さっさとまた転勤すればいいのにな。ギャハハハハ」

        酔っ払っていたから、正確なことは憶えていないのだが、だいたいそんな話をしていたのだと思う。そして、それはそれで忘れてしまった。確か雨ノ森さんには4月ごろに行きますというメールを打った記憶がある。

        2月はなんとなく過ぎ、3月になった。今年の桜は開花が早く、東京でも3月下旬には満開になってしまった。まてよ、桜かあ。そういえば、兼六園で花見やるとか言ってたなあ。突然に思い出してしまった。雨ノ森さんのホームページを覗いたら、金沢に来る人は、早く到着日、到着時間、宿泊先ホテルを知らせるようにと書いている。ああっ! これひょっとして俺たちのことかあ? あわてて旅行社に飛び込む。一番安く行ける近畿日本ツーリストの[ザ・ビジネス]。これを使えば往復の航空券とホテル(シングル一泊)代込みで、21300円で行ける。これを慌てて申し込む。岡山の源ちゃんには、メールで宿泊先のホテルを知らせた。

        当日、生嶋とふたりでJAS261便で小松空港に到着。市内までバスで移動した。金沢駅で岡山からサンダーバード3号でやってきた源ちゃんを捕まえる。「いやあ、久しぶり、久しぶり」。とりあえず近況などを立ち話したあと、さてこれからどうするの?ということになった。これからの予定を誰も知らないのである。そして、三人同時に呟いた。

「で、誰が雨ノ森さんに連絡を取ったの?」

        お互いの顔を見詰め合う。源ちゃんが言う。

「井上さんが、連絡したんじゃなかったの?」
「冗談でしょ。私は、相手の電話番号も知らないもん」
「生嶋さん・・・」
「ぼくは、ノータッチ。源ちゃんが連絡取っいるんだと思ってた」
「まてよ、きのう寝てたらハルカさんから電話があったなあ。寝ぼけまなこで受話器を取ったら、『で、何時にくるの?』って言うから、『うう〜んと、何時だっけかなあ、とにかくサンダーパード3号』って言ったら、『そうじゃないの! 何人で来るの?って言ったのよ! バカ!』て言うから、『あ、あの、あの、3人です』と言ったら、突然ブツッと電話が切れた」
「ちょっと、ちょっと、ハルカさん怒っているんじゃないの? まったく連絡よこさないから。とりあえず、ハルカさんに電話してみたら?」

        こうして源ちゃんは、携帯電話をプッシュした。「あのう、源内ですが、これからどうしたらいいんでしょうか?・・・・・・・ああ、はい、昼食を[碧羅]でとろうというんですね」。しまった、そう言えば私のところにメールが入っていたっけ。昼食は[碧羅]で、夕食は和食の店を予約するって書いてあったっけ。今思い出した。「で、その[碧羅]へはどうやって行けばいいんですか?・・・・・・・・・はい、はい、わかりました。では行ってみます」

        兼六園での花見という、こちらの勝手なプランは却下されていたようだった。そして、このあと私達三人の想像していたのとはまったく異なる金沢滞在が待っているのだが、それは、おいおい書いていくことになる。


April.15,2001 卓球選手、皆細身? 

        通販はあまり利用しない方なのだが、去年通販でCDラックを買ったら、その通販会社から頻繁に通販カタログが届くようになった。たいがい見もしないで捨ててしまうのだが、先日届いたものをパラパラ見ていたら、こんなのが載っていた。

        「卓球選手、皆細身。」という見出しが目を引く。卓球台の広告だ。若い女性モデルが卓球のラケットを持っていて、「ピンポンすれば、スリムになれる?」という吹き出しが付いている。その横に書いてある文章が面白いので、ちょっと引用してみよう。

「ところで、卓球選手に太め人が滅多に見当たらないことに、もうお気づきでしょうか?競技者がことごとくスレンダーなのはなぜでしょう? そういうDNAの人だけが卓球競技に向かうとは考えられません。卓球という競技にスリムになる秘訣が隠されている、と信じるしかないでしょう」

        ウソだあ。私の周りには卓球をやっている人が多いのだが、ことごとく小太り体型だぞお! 私の妹が卓球好きで、週末になると必ず体育館へ行って卓球をやっている。今、妹に確かめてみた。やっぱりそうだ。ほとんどの人が太っているそうだ。なんだがポッチャリしていると言う。可笑しいのは、この広告の左下に写っている写真の男の人。これ、絶対に小太りの男性ですよね。

        ちなみに今、妹が、「小太り体型ばかりの卓球選手の中でも、私は痩せているとちゃんと書け」と睨んでいるので、ここに書いておく。はいはい、妹は痩せてます。だから卓球弱いんだ。―――なんだか今、妹が複雑な顔になっています。


April.9,2001 カード・ナンバー44

        午前10時ごろだった。一日のうちで一番忙しい昼時の営業に向け、仕込みは最終段階に差し掛かっていた。そのとき、父が言うのだった。

「急に、急いで現金が必要になっちまったんだけど、銀行行って40万円ほど下ろしてきてくれないか?」

        預金通帳とハンコを渡された。

キャッシュ・カードは無いの?」
「裏のマンションに置いてきちゃったんだ、それでも下せるだろ?」

        よせばよかったのだ、このとき。でも「あいよ!」と言って、引き受けちまった。銀行に行き、[お引き出し]の紙に必用事項を書き込み、父のハンコを押し、順番のカードを一枚取る。44番。今は38番のカードの人が取り扱い中。あと6人目かあ。午前10時10分。まったくもう、こんなことなら裏のマンションまで行ってキャッシュ・カードを取って来た方が早かったなあ。

        「39番のカードをお持ちのお客さま」 いかにも会社の経理担当という男の人が立ち上がり、窓口に向かう。何やら複雑な内容の会話を窓口の女性と話し始める。窓口の女性も対応しきれなくなったのか、「ちょっとお待ちください」と言って、奥の男性と話を始める。あーあ、早くしてくれよ、もう。午前10時15分。

        イライラするなあ。ふと見ると、パソコンが一台置いてあり、インターネット・バンキングのやり方に関するデモンストレーション・ビデオが、さっきから流されている。もうインターネット・バンキングは利用しているのだが、ボンヤリと見つめる。「40番のカードをお持ちのお客さま」 OL風の制服を着た女性が窓口に向かう。頼むから早くしてくれよなあ。インターネット・バンキングのビデオにも飽き、雑誌を読もうとする。面白そうな雑誌はみんな他の人にとられてしまい、私が手にできたのは、なぜかマンションの広告ばかりが載っているヘンな雑誌。一昨年マンションを買ったばかりで、まったく興味なし。イライラとページをめくるも、どこまでいってもマンションの広告ばっかり。「何じゃこりゃ」と放り出す。

        「40番のカードをお持ちのお客さま」 まだ40番かよ。午前10時18分。まだ仕込みが残っているのだ。早く帰って続きをやらなくちゃならない。しかもだ、午前10時すぎというのは、ウチにとって魔の時間帯に当たる。近所のある会社がお昼に突然、まとまった数の出前を頼んでくる電話がある可能性のある時間なのだ。もし、その注文が入っていたらどうしよう。こんなところにいる場合じゃないぞ!

        「41番のカードをお持ちのお客さま」 目の前の人が立ちあがる。と同時に女性週刊誌を置いた。マンションの広告ばかりの雑誌よりはるかにマシだ。手にとって眺眺める。相変わらずタレントの離婚の話。こんなの興味ないって! もう! 雑誌を放り出して、イライラして立ちあがる。あとから考えるとこういった行為がいけなかったのかもしれないのだが・・・。

        「42番のカードをお持ちのお客さま」 落ちつかなくなってきた。いったいいつまで待たせるんだ! こんなことならキャッシュ・カードの方が早かった。マンションは店のすぐ裏なのだ。キャッシュ・カードを取りに行った方が、どんなに近道だったか。キャッシュ・カードなら自動支払機で1分とかからずに引き出せる。

        いやな空想が頭に浮かぶ。40万円といったら大金である。しかも引き出すのが私の口座からではなく、父の口座からだ。遊ぶ金欲しさに、父の預金通帳とハンコを盗みだした放蕩息子。そんな風に思われたらどうしよう。ウロウロと行内を歩き回ってしまった。よく考えるとこれは不信人物だ。よく見ると、防犯カメラがたくさん仕掛けられている。いやだなあ。

        「43番のカードをお持ちのお客さま」 ふう、あとひとりだ。おばあさんが「よっこらしょ」と立ちあがり窓口に向かう。自分で言うのナンだが、これでも私は老人には寛容な方だと思う。電車でご老人が乗りこんできたら率先して席を替わるのを胸としている。しかし、このときばかりはイライラが高じていた。「ババア、早くしろ! ノソノソするんじゃねえ! こっちは急いでいるんだあ!」 午前10時25分。なんてえこった。もう二度と窓口で現金を引き出すなんてことはしないぞ。

        43番のババアがもう一度呼ばれる。また「よっこらしょ」と立ちあがり窓口に向かう。やはり現金を引き出しに来ていたらしい。老人は機械が嫌いだ。どうも自動支払機は使えないらしい。ゆっくりと札を勘定している。「ババア、札の勘定なんかどうでもいいだろ! 銀行が間違えるわけねえんだからよ!」

        「44番のカードをお持ちのお客さま」 やっと俺の番だ。もう午前10時30分だぜ。預金通帳と[お引き出し]書類を窓口の女性に渡す。「少々お待ち下さい」とニッコリ笑って引き替えカードをくれる。相手の女性が美人だったこともある。このスマイル一発でイライラ気分が一瞬影をひそめ、こちらもニッコリしてしまう。ああ。

        ところがこれからまた待たされることになる。どうなっているんだあ? またイライラが始まる。インターネット・バンキングのビデオをまた見る。これで3回目だ。すっかり憶えちまった。呼ばれたのは5分後。スマイル浮かべた女性行員が言う。

「あのう、ずいぶんと長い間お取引がないようで、こうなると機械が動かないんですよ」

        そんなことあるもんか! 毎月なんらかの出し入れをしている。

「よく見てくださいよ、先月だって預金もしているし、引き出しもしているじゃないですか!」
「あっ、そうですねえ。でもちょっと念のため、この通帳がお客さま本人のものであるかどうか確認をさせていただきたいので、身分証明書のようなものを拝見できませんか? 運転免許書でけっこうなんですが」

        と、あくまで顔いっぱいの笑顔で言うのだった。やっぱりだ、疑われている!

「困ったなあ、運転免許書は今持ってないんですよ。それにですね、これは私のではなく、のものなんです。父に頼まれて引き下しにきたというわけで・・・」

        いかん! やっぱりこれは放蕩息子パターンだあ! 親の金を無断で引き出す道楽者のバカ息子だあ! 

「それではですね、お父様の住所と電話番号、生年月日をここに書いていただけますか?」

        うわあ、犯罪者じゃねえかよ。他所の家に空巣に入った泥棒! くそっ! 書けばいいんだろ、書けば! スラスラと書きこむ。「少々お待ちください」と言ってまた引っ込んじゃった。

        午前10時45分。おいおい、冗談じゃねえぜ! なんで銀行に30分以上もいなくちゃならねえんだ! ようやくまた呼ばれる。絶対にこっちは疑われているのだが、女子行員の笑顔は変わらない。

「それでは、こちらに電話してもよろしいでしょうか? お父様は今、家におられますか?」
「いるよ、いるよ、かまわないから早く電話してよ!」

        午前10時50分、呼ばれる。

「お待たせしました。それでは、こちらがお支払いです」
「オヤジに電話しましたか?」
「ええ、すぐにご本人様が出られました。なんだかお忙しいんですね」
「そうそう、今の時間帯、忙しいんだよね」
「ご伝言がございまして、なんでもお昼にカツ丼44個の出前が入っているから、早く帰っていらしてくださいって・・・」

        くっそー! 何てこったい! 奇しくも私のカードと同じ44


April.6,2001 夜桜

        花見といったら、普通は昼間やるものでしょ。でも住宅街ではない、ウチのようなどちらかというとオフイス街では夜の方が賑やか。近くの会社員たちが、仕事が終わってから、ビールや乾燥珍味を酒屋で仕入れて集まってくる。

        まだこの時期、夜は寒いやね。それでもめげないもんね、あの連中。ホームレスの山ちゃんが寝床を取られたと言ってボヤクこと、ボヤクこと。もっとも山ちゃんも、オコボレにあずかったりして、まんざらでもないんじゃないかなあ。

        いくら寒くても、仲間と夜桜見物という理由をつけて酒飲むのも、また楽しいよね。でも、くれぐれも夜桜だけは大勢でやった方がいい。ひとりはいけない。

        去年の今ごろ、夜中に目が醒めて眠れなくなってしまったことがあった。そうだ、思い切って起きちゃって夜桜でも見に行こうと思ったんですよ。24時間営業のコンビニでビールを買って、誰もいない近所の公園で夜桜を眺めながらビールをチビチビやっていたら、なんだか昔の悲しかった出来事を思い出しちゃったり、これから先、俺はどうなっちゃうんだろうという将来の不安がドッと心に押し寄せてきて、泣き出してしまった。桜には魔物が住んでいるような気がする。どうか皆様も、夜中にひとりで桜を見に行くことだけは止めた方がいいですよ。


April.2,2001 

        桜ってきれいだなと思うようになったのは、いつごろからだろうか? 小学校、中学校、高等学校と、いつも桜の咲いた校庭を通って入学式に行ったはずなのだが、どうもはっきりした記憶がない。

        やっぱり桜がきれいだと感じるようになったのは、酒を憶えて、いっちょ前に花見などをやり始めたころからだろうか? いや、花見を始めたころなんて、桜なんて見ていなかった。ひたすらムチャに酒を飲んで騒ぐだけ。あのころの数々の武勇談は、思い出したくもないことばかり。

        30代に入ったときに突然オートバイに乗りたくなって中型自動二輪の免許を取った。まったく私の30代はオートバイに明け、オートバイに暮れた時期だった。何と言ってもオートバイで楽しいのは春と秋。満開の桜の峠越えほどうれしいものはない。よく、秩父の山の中を走りまわっていたものです。

        ようやく今ごろになってからですね。ムチャな酒の飲み方もやめ、ビールをチビチビやりながら桜をじっくりと眺めて、ふわーっといい気持ちになっているの。つくづく「平和だなあ」と思う。

        桜の木の下の人間って絵になりますね。公園でボンヤリとしていると、ハッとする瞬間がたくさんある。花見の酔っ払いは勘弁して欲しいけど、桜の木の下のカップルとか、子供が遊ぶ姿とか、もう一幅の絵ですもんね。で、今年はそんな写真を撮ろうかと思ったのだけど、桜の木の下でいい気持ちになっているうちに、もうどうでもよくなってきちゃって、昼寝して帰ってきちゃいました。桜の季節の日曜日って、ほんとに、のんびり、ゆったり時間が流れていくようです。

このコーナーの表紙に戻る

ふりだしに戻る