April.22,2007 ありがとうございます

        明治座出前御礼、久しぶりに書かせていただきます。このところ出前の注文が無かったけではなかったのですが、更新をサボってしまっていました。しかし、先月と今月の『忠臣蔵』2ヶ月興行では、実に多くの出演者からご注文をいただきました。本日は千秋楽。改めて御礼申し上げます。西郷輝彦様、藤田まこと様、松平健様、赤木春恵様、音無美紀子様、小林綾子様、渋谷飛鳥様、島田順司様、園田裕久様、高松しげお様、林与一様、山崎銀之丞様、他にも名前の漏れた方がいるように思いますが、本当にありがとうございます。

        そして、渋谷飛鳥さんが、こんなイラストをプレゼントしてくださいました。

        なんでウサギなんでしょうか? なんでリボンをしているでしょうか? 聞き忘れたてしまいましたが、こちらこそありがとうございます。

        そして、山崎銀之丞さんにはテレホンカードにサインをいただきました。

        おそらく、1993年の『熱海殺人事件』を観に行って手に入れたもの。買った記憶はないが、なぜか持っていました。出前を持っていって「すみませーん、サインしてください」と、このテレカとサインペンを差し出すと、何事かとテレカを見て、「これ、よく持っていましたねえ。そういえば、オレ、舞台からこれをばら撒いたことがあるんだ」 そうだ、そういえば結構前の方で見ていて拾ったんだった。それにしてもなんで野球のユニフォーム姿なんだあ? これだと野球選手と間違えられちゃいそう(笑)。


April.14,2007 植木さん、いつも元気をありがとう!

        植木等さんが亡くなった。近年はテレビでもあまり見かけず、舞台出演も断っていたという話も耳にしていたから、お身体の具合が悪いのだろうなあと推察していた。1997年から体調を崩されていたと聞いたのは、ずっとあとのこと。2000年10月の名古屋中日劇場の楽屋に突然のことに招かれ、お話を伺ったときにはすでに肺気腫で苦しんでおられたことになるのだが、そんな様子はチラリとも見せなかった。その後、私は2002年1月にも中日劇場へ出かけて植木さんとお会いしている。そして、おそらく植木さんの舞台姿は、その年10月の明治座、堺正章座長公演『おしゃべり伝六』が最後だった気がする。

        『ALWAYS 三丁目の夕日』は1958年(昭和33年)を舞台にしていた。その当時私は幼稚園児で、東京下町で元気に遊んでいた。当時はまだ我家にはテレビなどなく、漫画本とラジオの連続ドラマに耳を傾けていた。気分は赤胴鈴之助だった。小学校に上がったころ、我家にもついにテレビがやってきた。私も他の少年たちの例にもれず、『月光仮面』や『ジャガーの目』や『少年ジェッター』や『怪傑ハリマオ』、あるいは力道山のプロレスにはまっていた。そんなとき、『シャボン玉ホリデー』が始まった。1961年(昭和36年)のことである。それまで夢中になって観ていた子供向けのヒーロー・ドラマにはない大人の世界が目の前に広がって写った。『シャボン玉ホリデー』は、底抜けに楽しかった。植木さんの「およびでない」コントは、毎週おんなじパターンなのだが見飽きることがなかった。小学生にとっても日曜日の夜というと、翌日からの登校のことを思うとブルーな気分になったものだが、『シャボン玉ホリデー』が始まってからは、日曜の夜を心待ちにするようになっていた。観終わってからも、今観たばかりのコントを頭の中で反芻してはうれしくなって眠れなかったほどだ。

        平日の昼時には、『おとなの漫画』という生のコント番組が放映されていて、こちらはそれこそ主婦でなければ観られなかったが、夏休みや冬休みには、これが観られるので楽しみにしていたものだった。

        クレイジー・キャッツの映画も父にせがんで、よく見に行っていたが、中学生になると映画は自分ひとりで行くようになっていた。東宝の加山雄三ものと、クレイジー・キャッツのものは欠かさずに観に行っていたはずだ。地元の東宝の封切館。日曜の午後は同級生でいっぱいだった。見終わったあと、仲間とクレイジー・キャッツの話題で盛り上がった。

        クレイジー・キャッツの笑いは、子供の私にも画期的に写った。日本の喜劇というと、とかくペーソスが入ってくるものが多かった。やはりテレビで放映されていた浅草の喜劇『デン助劇場』などは、私は苦手の部類に入っていた。とことんバカバカしくてカラリとスマートに笑える笑い。それが好きだったのだ。だから『シャボン玉ホリデー』のハナ肇とザ・ピーナッツの「いつもすまねえ」で始まるお粥コント。ペーソスで入って、植木等の「およびでない こりゃまた失礼いたしました!」で終わる破壊的な笑いに大喜びしていた。笑いに人情はいらない。

        レコードも集めていた。当時はビートルズに夢中で、ビートルズのシングル盤が出ると買っていたものだったが、それと同時に加山雄三と、クレージー・キャッツと、三遊亭円生、桂文楽のレコードも集めていた。私の頭の中では、これらはまったく同じ位置にあるものだった。むしろ、クラスで人気のあったGSは冷めた視線でいたところがある。

        『スーダラ節』が大ヒットしたときには、小学生のクラス全員が真似をして平泳ぎの振りやら、手をブラブラさせる振りをして、世の大人のヒンシュクを買った。子供たちが喜ぶ番組が低俗だと批判されるようになったのはこのころからだったんだろう。『ドント節』や『五万節』のヒットのあとに出たのが『ハイそれまでョ』。キレイに歌い上げる前半から、盛り上げたところでツイストになるコミック・ソング。これが出たときには大人たちに自慢して歩きたかったほどだ。植木等は歌が上手いんだ。本当は上手いんだけど、バカをやって楽しませてくれているんだと、言って歩きたかった。

        やがて、『シャボン玉ホリデー』も終了し、クレイジー・キャッツの映画も封切られなくなっていった。それでも、テレビには相変わらず植木等やクレイジー・キャッツが出演する番組はあり、番組表に見つけると、テレビにかじりついていた。

        大学卒業が迫っていたころのこと。就職先が年が明けても決まらないでいた。まっ、「そのうちなんとかなるだろう」と思っていたころ、新聞の求人広告欄で見た会社に応募してみた。面接に行ったら、そこは渡辺プロダクションのビルの中だった。その会社に拾われて働くようになって気がついたら、この会社は渡辺プロダクションの関連会社だった。芸能プロダクションといっても、タレントが会社にやってくることは少なかったが、ときどき廊下やトイレでバッタリ出会うことがあった。毎年始めにホテルの宴会場で行われるプロダクション主催の新年会にはタレントが一同に会する。立食パーティー形式だったが、酒を飲まない植木等さんが汁粉を旨そうに食べながら、「(この会場で)こんなの喰ってる奴は他にいないやね、うひゃひゃひゃひゃ」と談笑している姿を憶えている。

        3年ほど勤めたあと、私は家業を継ぐ決心をして会社を辞めた。次に植木さんの姿を見たのは1995年だった。ある日、私の部屋から外を眺めていたら、ドラマのロケをやっている。テナントビルの裏口が銀行の通用口という設定になっていて、植木等、谷啓、いかりや長介らが銀行強盗に入るシーンだった。双眼鏡を持ち出してジーっと撮影の様子を眺めていたのを思い出す。これはテレビ朝日の土曜ワイド劇場で『俺たちの銀行強盗』というタイトルで、翌年放映されることとなる。

        明治座の堺正章座長公演のときには、植木さんがご出演されることが多くて、そのころから楽屋に出前をお届けするようになった。植木さんはあんまり自分の楽屋にいることが少なくて、他の人の楽屋にいることが多かった。他の楽屋に行くと植木さんがひっそりと座っているのでびっくりしたことが何回もある。他の役者さんのバカ話を聞くのが好きらしくて、いつもそんな話を聞きながら静かに笑っていた。

        2000年10月。名古屋の中日劇場に『新・名古屋嫁入り物語』を観に行き、突然の出来事で植木さんの楽屋に招かれ、お話を伺うことができた。そのときのことは、『蕎麦湯ぶれいく』2000年10月に書いた。さらに2002年の1月にも、最後の嫁入り物語となった『尾張嫁入り物語』を観にいって植木さんと話している。これは『客席放浪記』2002年1月に書いた。どちらも植木さんに会えてお話ができたというだけで、元気を貰った。

        植木さんが亡くなって、しばらくして、昼寝をしていたら、夢の中に植木さんが出てきた。私の顔を覗き込むと、「まっ、気楽にいきましょうよ、気楽にね。うっひゃひゃひゃひゃ」と笑った。「植木さん、あなたはいつもボクを元気にしてくれました、ありがとうございます」と話しかけると、植木さんは手を振って、「ほんじゃ、ボクはもう行くから」と言い残して『ホンダラ行進曲』を歌い、あの珍妙な踊りを踊りながら、道の先へ去っていった。

♪一つ山越しゃ ホンダラッタ ホイホイ も一つ山越しゃ ホンダラッタ ホイホイ 越しても越しても ホンダラホダラタ ホイホイ・・・・・・ホンダララ ホンダララ ホンダラホダラタ ホーイホイ ホンダラホダラタ ホンダラホダラタ ホンダラホダラタ ホーイホイ ホンダララッタ ホンダララッタ ホンダラホダラタ ホンダラホダラタ・・・・・・


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