街のCD屋さんMightyのコラム 合言葉は”音楽が好きだから…”
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VOL.46 5/05/2002
”小室”→”つんく”の次ぎは
→”フ○ヤ”→”フ○ヤマ”だ!
 PART#1
〜S・プロデューサーは作られる〜 

《小室哲哉研究:その1》
90年代日本音楽シーンのベースになったサウンドは、ロックではBOφWYで、ポップスではTMネットワークであったと思う。BOφWYの”ギター・サウンド”は、90年代に入ってラルク・アン・シェル、グレイに引き継がれヴィジュアル系サウンドとして一世を風靡し、TMネットワークの”キーボード打ち込み系サウンド”は、J−ポップスの基本的技術となり90年代後半の安室奈美恵他のダンス系アイドルの大量発生と繋がっていく。

TMネットワークの先進性は、当時音楽アーティストでは誰もしていなかった専属のスタイリストを付けた事だ。それによって視覚的にイメージを売る商売を始めた。そしてその3人の中に類い稀なる才能”小室哲哉”がいた。最初は、ボーカルの宇都宮隆の影に隠れて地味な存在だったが、じょじょに才能の片鱗を見せTMサウンドの核を作り出す存在として認知されだした。小室哲哉は、TMネットワーク時代にその音楽的才能の鍛錬・思考錯誤に励み自分のスタイルを完成させ、次なるステップへの展開の準備を終えた。

TMネットワークからTMNへの改名は、音楽的な基礎を確立した小室が自分が作った”良い音楽”を”売れる音楽”にするにはどうすれば良いのかを実験する場であった”売れる音楽”=”企業タイアップ”を取るにはどうすれば良いのか…彼は、その答えをこの時代に見つけたと思う。彼の音楽的才能は誠に素晴らしい。しかし、それと同等にマーケティングの才能も彼を語る上で避けることは出来ない。

音楽的なスタイルと”売れる曲”のコツを習得した彼にTMNの継続はもう意味が無い。そして、TMネットワークとTMNで培ったテクニックを実践するためにソロ・アーティストとしてデビューした。そしてYOSHIKIと組んでV2(1992.1)と言うユニットを組んだりしてメディアを動かした。方法論的には間違っていなかったが、彼には””がなかった。シングル1発目は、無理押しを承知で小室ファンも付き合いで買ってくれたが、2発目以降は、いかに小室ファンといえども買わなかった。彼の声には商品価値がなかった(業界を震撼させたひどい声)。

小室の始めての挫折である。鼻っ柱をへし折られた小室は、自分がメインのアーティストとなって前に出ることをあきらめ裏方(プロデュース業)に回ることになる。そして、プロデューサー&コンポーザーとしてのクレジットしかないアルバム”TKレイヴファクトリー”( 1993年2月25日)が発売される。当時、影の薄くなっていた小室哲哉が実験的に作ったコンピレーション・アルバムだ。このアルバムの中で行なった実験が後々の小室成功ストーリーの起点となる 。

当時、世界的に打ち込み系ダンスポップが大流行だった(2アンリミテッド他)。小室がアルバム”TKレイヴファクトリー(略して:trf)”中で今となれば誰もがしそうだが当時誰もしていなかった”打ち込みダンス系ミュージックに日本語を乗せた曲”を2曲入れたのだ。そして、その中の”ゴーイング2ダンス”と言う曲をそのコンピレーションアルバムのために一時的に組まれたグループをtrfと称してファーストシングルとしてシングルカットした。

コレが大当たり!!打ち込みサウンドなら小室のお得意技!さらに今度は、メディアの方から小室に擦り寄ってきた。メディアとの付き合い方もTMN時代で既にトレーニング済み、ここでアーティスティックなアーティスト(=堅物)なら仕事をチョイスするはずだが、小室はすべてのオファーと受けたはず。企業は、金され積めば仕事を確実にしてくれる小室に”安定性と継続性を感じたはず。小室も企業の用意した神輿にいやがらずすべて乗った。小室(売れたい)と企業(売りたい)との利害が一致した。プロデューサー小室哲哉の時代の到来だ。

しかしながら、小室は、本来アーティストである。すなわち”出べそ=出たがり”である”。trfの成功で業界への再復帰を果たした小室は、じょじょに自分も裏方ではなくて前に出たいと思うようになる。

そして、95年8月小室自身がメンバーの一人であるglobeをデビューさせた。音楽的には、trfとなんら変わらないが、trfにはもう親分(小室)はもういない※自力で歩けない。当時天下を取っていたtrfのファンは自動的にglobeに移植された。

同じ年の10月に小室に強力な武器が与えられた。当時東芝社からシングル3枚を出したものの伸び悩んでいたアイドル安室奈美恵がavexに移籍してきた。そして小室と組ませてよりアーティスト性の高いダンス系アイドルとして再デビューさせた。松田聖子・中森明以来のスーパーアイドルの誕生だった。

以後の小室の仕事量はすさまじいもので、安室奈美恵の96年・97年2年連続のレコード大賞授賞、globeの1stアルバムが初の400万枚を達成するなどして、96年・97年と2年連続で長者番付(総合)2位を記録※彼のコストは紙と鉛筆とキーボードだけ
参考資料:95年trf、96年・97年安室奈美恵、98年globeと小室は、4年連続レコード大賞を受賞している

当時彼は、1週間に1枚のペースでシングルを書き(他人提供曲含)、その間にglobe・安室奈美恵・華原朋美のアルバムをも書いていた。小室哲哉:作詞・作曲&プロデュースとクレジットするだけで何でも売れるようになっていた。

本当に小室が書いているのかどうかは、すでに問題ではなかった。小室が作ったという事にすれば大衆をコントロールしやすかった。すなわち、小室もスーパー・プロデューサーを演じるのだ。これを、
小室システム”と呼べは理解しやすいであろう。


このシステムは、最初から作ろうとして作ったものではない、小室が売れる過程で自然と成り立ったものだった。しかし、これ以後、大衆をコントロールする極めて有効なシステムと認知され、この”小室システム”を模倣して最初からスーパープロデューサーを作るべくして売る売り方”スーパープロデューサーの時代”が到来する。⇒『つんくシステム』

しかし、思いもしない所から小室時代の瓦解が始まる。安室奈美恵の妊娠休養である。それも、大事な商品に手をつけたのが、自分の子飼のtrfのサムであった。アイドルはTVに出つづけなければ売れない。1年後子育て休暇から戻ってきた安室奈美恵のファンは、激減していた。以前安室奈美恵が座っていた”タレント系アーティストの女王の座”には、ELTの持田香織が既に座っていた。まさに小室は、飼い犬に噛まれた思いで、腹の中が煮えくりかえっていたことであろう。
※もし安室奈美恵の妊娠休養がなければいまも小室・安室時代が続いており、浜崎あゆみの出番もなかったかもしれない

本題に入る前に前置きが長くなってしましました。
この続きは来週に続く…メンゴm(__)m
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