吉永さん



(これは実話だ。そういうと、他のエッセイが実話じゃないように聞こえるが、あえてそう思われる危険を冒して言う。これは、まぎれもなく実話である。)

雪のちらつく寒い朝だった。俺はいつものようにバスを待っていた。雪のせいか、行き交う車の走りもなんとなくぎこちなかったりする。目の前を通った車が突然クラクションを長く鳴らしたのも、前を行くバイクがちょっとふらついたというだけでなく、多少なりともこれから積もるかもしれない雪への漠然としたいらだちがあったのだろう。

それにしても、ヤクザならいざ知らず、どうして堅気の人があんなふうにヒステリックにクラクションを鳴らせるのだろう。などと考えていると、逆方向から来た車が急に路肩に止まったようで、後ろの車が俺の目の前で急ブレーキを踏んだ。

なんとなく、みんなあわただしいな。

そう思いながら、突き刺すような寒風に肩をすぼめながらバスの来る方向を見ていると、後ろからトントンと肩をたたかれた。振り向くと、見覚えのない40才前後の自営業風の男が立っている。

「吉永さんだろ?」

ちなみに、俺は吉永さんではない。

「いや、違いますよ。」

そう言って、また坂の上のほうに身体を向けた。普通ならそれで終わるはずだったが・・・。

「やっぱり吉永さんじゃない?」

不思議そうな口調で、また聞いてきた。

「だから、違いますよ。」

しつこいな。

「いや、吉永さんでしょ。」

かなり確信を持った口調で、さらに突っ込んできた。

「はあっ!?違いますってば。」

何なんだ、こいつ。吉永さんって、そんなに俺に似ているのか?

「違うって言うなら、ちょっと名刺見せてよ。名刺持ってるだろ。」

ここまでくると、ちょっと、普通の状況じゃなくなってきた。

「なんで、見ず知らずのあなたに名刺を見せないといけないんですか。」

「あんた、○○(携帯電話の会社)の会社やってただろ。俺は2千万持ち逃げされたんだ。」

どうやら俺は事件に巻き込まれてしまったようだ。

「あのねえ、そんな人なら、あなたの顔見て逃げるはずでしょ。とにかく人違いです。」

「ちょっとだけでいいから名前確認させてよ。名刺持ってるでしょ。」

あまりにしつこいので、名刺ではなく免許証を見せることにした。あとでよく考えたら、自宅の住所を見せるのはまずかったかもしれない。 しかし、そのときは、会社の名前やビルの名前を見せる方が、覚えやすくてヤバいと判断したのだ。
どちらにせよ、見せるならこっちだけ見せるわけにはいかない。

「そんなこと言うなら、まず、あんたが名乗るべきでしょ。そっちこそ名刺を見せてくださいよ。」

「名刺は持ってない。免許証ならある。」

そう言いながら免許証を俺に見せた。俺としては、こいつに「素性を明かす」という行為をさせたかったわけで、免許証の中身はあまりよく見なかった。丁寧に見すぎると、こっちも丁寧に見られるかもしれないという警戒心もあった。

「決して、怪しい者じゃないから。」

めいっぱい怪しいだろ!

こんなベタな突っ込みが十分通用するセリフだ。まあ、いずれにしても、相手も免許証を見せた以上、こちらも見せないといけない。それであきらめるだろうという思惑もあって、住所の部分をさりげなく指で隠しながら、俺の免許証も見せた。

「ほら、吉永なんていう名前じゃないでしょ。」

これで勝ったと思ってそう言うと、そいつは、まじまじと免許証の俺の写真を見て、「なぜこんな子供だましのようなことをするんだ」とでも言いたそうな口調でこう言った。

「だって・・・・・・・・この写真は明らかにアンタじゃん!」

俺は一瞬とまどい、そして混乱した。

「・・・・・??・・・・そうですよ!?・・・・・だから・・・吉永さんじゃないでしょ?」

こいつは、何を言ってるんだ。そう思う間もなく、追い討ちをかけるようにとんでもない言葉が襲ってきた。

「名前、変えただろ!」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はあっ??」

「あんた、こないだもそうだったじゃないか。また、名前変えたのか。俺はずっと探してたんだ。この辺に住んでるのはわかってて、張ってるんだ。車の中からあんたを見つけて降りてきたんだ。」

それでさっき、路肩に急に止まったのか。 だんだん飲み込めてきた。こいつの言ってることは飲み込めないが、俺が置かれている状況は飲み込めてきたぞ。

「・・・・・・・・・・・警察に行きましょうか?」

俺は、ため息をつきながらそう言った。正直言うと、警察へ行くと言えばひるむだろうと思ったが、そんな気配はない。

「また女房と逃げる準備してるんだろ。いつ、ここにやってきた?」

こうなると、もうどうしようもない。途方に暮れて、周りの視線を意識しながら、誰にともなしに自嘲気味にこう言った。

「こんなときどうしたらいいんでしょう。」

出勤時のバス停にいる人なんて、名前も知らず、言葉は交わさなくても、だいたい顔なじみだ。俺の窮状を見かねた人がフォローしてくれた。

「この人は、毎朝会う人ですよ。もうずいぶん前からそうです。私が証明しますよ。」

有難かった。この人の勇気に感謝した。

「とにかく、私は逃げも隠れもしませんから、まだ用があるなら一緒にバスに乗って職場までついてきてください。ここであなたに付き合って遅刻するわけにはいかないので。」

そんなことを言っているうちにバスが来た。雪のせいで、いつもの時間より大幅に遅れて来た。そのせいだろう。夢中で気づかなかったが、いつもよりバス停にいる人が多い。俺とあいつのやりとりは、かなり注目を浴びてたに違いない。

「乗らないんですか?」

俺はバスに乗り込みながら、挑発するように言った。この時点で、俺は「こいつはバスに乗ってこない」というある種の確信があった。案の定、彼は乗ってこなかった。結局、俺は無事職場についたのである。

後で考えると、彼の言動には解せないことがいくつかあった。

持ち逃げ犯人に「俺は持ち逃げされたんだ」などと説明する必要はない。
それに、俺の免許証を見たときの反応がおかしかった。写真が違ってて「この写真はアンタじゃないじゃん!」と言うのならわかる。しかし、彼はまったくそんな口調で「この写真はアンタじゃん。」と言ったのだ。 むしろ、(吉永さんであるはずの)俺の写真が貼ってある免許証の記載が「吉永」でなかったことが信じられなかったようだ。
さらには、持ち逃げ犯人を追っていて、ずっと張っているくらいなら、やっと見つけた犯人(=俺)をみすみす一人でバスに乗せないはずだ。

結局・・・ちょっといかれた人だったようだ。

さすがに翌日のバス停は緊張した。「張っている」と言ってたくらいだから、またいるかもしれない。もし、また待っていたら、今度は警察に届けるつもりだった。 はたして、バス停はいつも通りの平穏だった。ただ、ちょっと違ってたのは、それまで顔は知ってても口も聞いたことのなかった人が、「昨日は災難だったね」と声をかけてきたことだ。不思議な連帯感が生まれている。

しかし、そんな「ほのぼの」をオチにしたいわけではない。

たまたま、俺の場合は何事もなく済んだが、いきなり刺されるなんて事もあり得たわけで、そういう何気ない日常に潜む危険性を訴えたかった。

だからって、避けられるわけじゃないんだが・・・。

(11th Mar, 2004)


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