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   雑感乱れ打ち..


  (2000/06/23)
   MAJESTICの新作、確かに良いことは良いが、1曲目のインストは
   YNGWIEが浮かぶし、2曲目はSYMPHONY Xみたいだ。
   影響されてると言えばいいのか、ただのパクリなのか、わからんけど、
   なんかシラけちゃう.. あと、AT VANCEって、毎回カヴァー曲多すぎと
   思うが、これは持ち味ということでいいのか?
   好き嫌いを越えたところで、孤高のオリジナリティを保ち続けるYNGWIE
   のような存在になるのは、ジャンルを問わず、大変なことなのか。

  (2000/06/23)
   初挑戦のSTORM WINDの新作に期待。
   ちなみに、MAJESTICの新作は6曲目もYNGWIEにそっくりじゃんかぁ〜。
   まぁ、ケチばっかりつけてないで、よくよく聴き込んでゆけば、
   それなりに味が出てくるもんです。 ただリチャードアンダースンは、
   良いのだが、「突き抜ける」存在にはならなかった。
   要は「Yngwieってなんだかんだすごいんだね」と思わせる一員に、
   彼もまた加わったということ。

  (2000/07/08)
   STORM WINDの新作は、オリジナリティに欠けて、コピー機みたいだった。
   SONATAの方がずっと好き。しょうがない、今度は、初のコンセプトアルバムに
   挑戦したというSYMPHONY Xに期待。コレはイケそうな予感...

  (2000/07/24)
   なんで、なんで、なんで沖縄サミットで、安室が歌ってらっしゃるので?
   小室ピアノ弾いてるし〜、安室はまぁ、沖縄出身だからなんだろうけど...。
   また一つ世界にしょうもないものをさらして..(寒)。
   いや、それが恥にならんのが、世なのかな。

  (2000/07/24)
   ”音楽”...文字通り、”音”を”楽しむ”ものであろうし、
   音楽に上下を設けることはナンセンスだと思うが、
   そこそこにふさわしい音楽、アーティストはあって良いと思う。
   目についてしまった”沖縄サミット”、ああいうことするから、
   世界に舐められるのではないか?
   いや、そんなことで舐められないのが世なのかな。
   ああいうことをやらせるから、小室哲也はますます勘違いしてしまうのではないか?
   「自分はかなりイケてる」と。いや、しかるべく認められておるのが、世なのかな。
   いや、彼も昔は良いものつくってたと思うんだが、今の状況はと言えば。。。
   売れることと才能があることとは、全然違うんで、
   彼はあくまで今の自分の音楽というものを”商売の道具”と割り切って生きているんだな。
   (もしそうじゃなきゃ”単なる才能のない人”だ。)
   そう言う人間が作った音楽が、”沖縄サミットのテーマ”だとしたら、
   だったら、沖縄サミットっていったい何??
   沖縄サミットってその程度のモノなの????
   もしそうだったら、全然問題ないんだけど、僕はそうじゃないと思いますので、
   申し上げると、

   「あのショウを、各国首脳に見せることに、なんの意味があったの?」

   でもですねぇ今のご時世、若い子の前で小室ミュージックの批判なんぞしたもんなら、
   「はぁぁぁ???」 みたいな感じですよ。僕が変なのらしいぜ。

   まあいい。 使い捨て故、10年後には消えてる。 
   そんときは”懐メロ”扱いされるかどうかも あやういぜ。


  (2000/07/26)
   SYMPHONY Xの新作はとても良かった。決して彼ららしさを失うことなく、
   常に前進している感じが、素晴らしい。マイケル・ロメオは優れたセンスを持つ。
   他とは間違いなく一味違う。NATIONのギターにもそれを感じる。
   つまり、「いて欲しい。」という気持ちになる。

  (2000/11/23)
   MARK BOALSの2nd、とても素晴らしかった。2曲目でVITALIJ KUPRIJとTONY MACALPINE
   パワー全開だね。すげー。YNGWIEの新譜と同時発売ってのも、ものすげー。
   メンバーの写真で、VITALIJの髪がぐちゃぐちゃだ。すげー。

  (2002/09/17)
   いまさらながら、やっぱりSONATA ARCTICAってすごいわ、と改めて思う次第。
   もうSTRATOVARIUSが「劣化盤SONATA」に聞こえた瞬間は、どうすべきかと思った。
   "独特の" NOCTURNAL RITESもずっと頑張って欲しい。

  (2007/11/18)
   ネオクラ系は、YNGWIEは別格として、基本メロスピ路線か
   プログレメタル路線での発展・進化がしばらく続くだろうか。

  (2009/11/27)
   ざっくりではありますが...

   ・ステレオマックス・
   CDやアナログレコード等のステレオ音源素材の音声信号の
   位相を操作することでステレオ感をアップさせる。

   ・オプチモード・
   コンプレッサー、リミッター、イコライザー等を内蔵し、
   それらのパラメータ設定で音声信号にエフェクトをかける。

   (例)音声信号の特定の周波数成分をイコライジングして
   音質を変える。(重低音をアップしたり、高域を効かせたり等)
   (例)コンプレッサーを使い、音声信号のピーク(最も音がデカいところ)
   をつぶし、全体の音量をアップすることにより、
   ピークを変えることなく、聴感上の音の大きさをアップする。
   (結果的にダイナミックレンジが小さくなる。)

   上記の2つの機材は半民生機でありながら、日本の基幹都市及びその周辺をカバーし、
   かつ、ライバル局が乱立するFMラジオ局においてよく使用されていて、
   置かれるポジションとしては、各スタジオにいわばサウンドエフェクターの
   一環として設置、使用されている局もあれば、電波を飛ばす送信機の前段構え、
   出力される放送の音声全てに分け隔てなくかましている局も多くある。

   当然の話として、CDに収録されている音はそのまま聴くのが一番良い音であって
   余計な回路を介さずダイレクトに聴くのが最善なのであるが、
   FM(周波数変調)の方式上、規定以上のレベルの音声を変調し輻射するのは、
   占有帯域が広がり電波法に抵触する(1局に与えられる帯域幅は150kHz)。
   そもそもそうなってしまうような設備設計は認められていないわけで、
   送信機前段にリミッターを置くことが義務付けられているわけだが、あくまでそれは
   最終手段であり(仮にそいつで音がつぶされてしまうとひどい音質になっちゃう。)
   そうならぬよう、あらかじめ演奏所においてレベルを押さえておかなくてはならない。
   その一環として、スタジオの機器で押さえ切れていないオーバー・レヴェルの信号を、
   内蔵のコンプレッサーやリミッターで押さえる必要がある、というのが実のところです。

   ステーション独自のカラーを出したり、他局より聞き映えするように等、
   意図された要素が付随的にあるわけだが、それに対して
   特段意義もなければ、大して気にすることでもないかもしれません。

   ただ確実なのは、エアチェックの音が原盤の音とはまったく異なるということです。


  (2015/09/10)

   (2000/07/24) から続く雑感..

   そして"消えた"わけだ。
   彼は宇多田ヒカル出現時の衝撃を隠さずに語った。
   彼女の生むメロディも、詞も、映像も、「自分からはあんなものは絶対に出てこない」と。
   とても正直に真実を吐露した。
   彼はある程度、いやかなりわかってただろうさ。 そりゃアーティストだからな。
   表現者である者はセンシティヴだ。そのアンテナで、感じないはずがない。
   自分の魅力も、脆弱さも。
   ただ、今までにない名声や権限が与えられたとき人は、驚くほどモラルを失う。
   万人に共通のその落とし穴に、彼ものまれたってだけの話だ。






















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   TIMO TOLKKI(G) STRATOVARIUS


   北欧のネオクラシカル様式美バンド、STRATOVARIUSのギタリストで、
   このバンドのブレインでもある、ティモ・トルキ。

   彼らのスタジオアルバムは、2ndからすべて持っている。
   始めて買ったのは2ndで、帯の文句が”北欧メタルの最高傑作!!”とかなんとか、
   とりあえず泣かせることが書いてあったので買った。それが最初の出会い。

   感想を言ってしまえば、初期は曲作りがまだまだって感じで、
   中期には、そこそこ聞けるのだが、いまいちひねりが足りないと思った。
   確かにうまいのだが、運指の練習のように聞こえてしまうギターソロと、
   画一的で練りが足りないメロと曲展開。Voもいまいち頼りない。

   とりあえず、アルバム毎に確実に成長してはいるのだが、
   僕の満足行くレヴェルではなかった。 僕の中では、
   ”所詮2番煎じ”とか”万年B級バンド”という印象を持っていた。
   実際、一部で”YNGWIEのコピー”とか、”QUEENSRYCHEのパクリ”とか言われてたのは確かだ。

   3rdが出た頃、ティモ・トルキが、
   「俺達は、どんなタイプの音楽だってうまくこなすことが出来るんだ。」
   と、豪語したのを知ったとき、
   「ちょっと日本で売れてきたからって、全然たいしたことねえし。」と思った。
   その後、彼がある音楽雑誌に暴言満載の手紙を送ってきたという記事を見たのがとどめで、
   「コイツはやっぱり駄目だ。最悪だ。」
   と彼に対して完全なレッテルを僕は貼ってしまった。

   それでも僕は「今回はどの程度成長したかな?」と思ってついつい新作を買ってしまう。

   今日、最新作”INFINITE”を購入した。

   次々繰り出される妥協を許さない曲展開と、
   今までには考えられない程とてもよく練られたメロディーラインがそこにはあった。
   そしてここぞとばかりの効果的なギターソロ。とにかく全体が、よく考えられてるな、
   という印象ではっきり言って意外で、かつとても嬉しい驚きを受けた。
   初めて僕の中で納得のゆくアルバムだったのだ。

   「ティモ・トルキ、君もようやくここまで来たか、 素晴らしい!
            しかしここまで来るのに、えらい長かったなぁ...」
   などと、図々しくもエラそうにそう思っていた。
   そしてアルバムの中盤にさしかかった頃、歌詞カードを手に取った。
   解説を読もうと思ったのだ。 伊藤政則氏の文章である。

   僕はじっとそれを読んでいた。  じっと、それを...
   中程まで読んだ頃だろうか、何故だろう、目頭が熱くなっていた...
   僕は泣いてた。何故だか涙が止まらなかった、もう、涙が出てきて出てきて、止まらなかった...


   ごめんなさい.. 僕は心ん中で彼に謝っていました... そんなこと全然知らんかった...


   彼は、僕の想像より遙かに繊細で思慮深い男であった。
   そして全く知らないところで彼はものすごく大きく成長していたのだ。
   今の僕には到底手が届かない、とてつもなくでかいものを彼は手に入れていた..。
   今、僕の中で彼はとても輝いている...。
  (2000/02/23)


   久々に2ndの2曲目、”HANDS OF TIME”を聴くと、
   初期のシンプルさが逆に新鮮でなかなか良かったりする。
   ビスカヤ然り、北欧メタルはどことない田舎臭さが味にもなるんだ。
  (2000/03/20) 

   STRATOVARIUS/ELEMENTS PT.1入手。やってしまった。EPISODEのころに逆戻り。
   退? テクはあるんだけど敢えてあまり凝ったことをやらない
   と言うのが、バンドの方針なのだろうか? とさえ思った。
  (2003/07/12)

   なんと、STRATOVARIUS/FRIGHT NIGHT(1st)を初めて聴きました。
   田舎臭いけど、音楽的にはこのアルバムが一番冴えてたと思うのは、僕だけだろうか?
   色々やってるし、ティモ・トルキのVoも、このころは、なんか、いいなぁ。。
   この、初期っぽい生々しさも僕にはGOOD。”ELEMENTS PT.2”と立て続けに聴いたら、
   なんか、新しい分だけ音が良くて、音響とか凝ってるが、何故かあまり惹かれるもんがないなぁ。。
   と思ってしまいました。
  (2003/11/04)





  ■ 駄言   


   言いたいことは色々あるが、とりあえず、俺がすんどる国、
   なぜこんな音楽的有様になったんだろう。
   音楽はむろん、楽しむためにあるんだから、
   聴いて楽しめればそれでいいじゃん、
   お前にどうこういわれる義理はないよ、
   と、言われれば、まったくもってその通りなんだけども、
   ほんとに、いやはや本当にこれでいいのか?
   音楽制作及び配給がビジネスとして回転してる以上、
   売れた方がいいに決まってるし、
   そりゃ売れりゃ、似たようなもんが次々出てくだろし、
   業界の言わば"類型援護射撃"で計画的に作られてゆくムーブメントもある。
   そこには、"音楽作品的価値"の軸で語られる概念や数値なんぞ希薄で、
   そりゃさあ、聴いてたのしけりゃ、いいんだよ。
   いいんですけども、今の若い世代、
   その類、シーンを席巻する乱造乱発ミュージックしか知らん世代、
   もはや、音楽の聴き方も知らねえんじゃないの?
   腐った媒体に与えられた物しか、聴いたことがない結果、
   音楽の捉え方も退化しちまってる、いや、まったくいたたまれない。
   俺は、他の人間が何を聴こうが、何して生きていこうが、
   それはそれでいいんだが、
   本当に素晴らしい!と心グラっと来るよな所謂プロフェッショナルな仕事をしている人間達が、
   他に職を持たなければとても食べていけない、と言う現状をみるにつけ、
   もう、悲しい。
   使い捨て音楽を聴いて感動しちゃった若造共が、
   "音楽の志"を持っちゃって、
   その子たちがデビューしてまた売れちゃったり、
   それ見てみんなきゃーきゃーって、
   うぜーよ。

   はい。音楽に上も下もありませんよね。
   自分の聴いてる音楽の方が素晴らしいだなんて、とんだ虚栄で。。
   うざいのは僕の方ですな。失礼しやした。。。
  (2013/06/10)





   上記駄言に対する提言


   簡単に「人間が音楽から得る快楽を科学(数値化)する」ことはできないと思うが...

   −−例えば音楽とは心地よい違和感の集合体だと思う。

   気の利いたゴロの良い言葉群がリズムとメロディを持って
   それこそ滞ることなく出てくる。
   それは、その場その場の思考で行われる日常生活の会話の中では
   ほとんど起こり得ない滑らかさを保ち、
   聞き手の意図しない方向へもどんどん発展する。
   人は日常生活であり得ないことが目前で起こると違和感を持つだろう。
   それが心地よい違和感なら、きっと求めたくなる。
   だから、音楽をクリエイトするに当たって、
   その違和感の連続体の中に、いかに心地よさを連発できるかが
   勝負なのではないだろうか。

   自分の心の中からわき出る感情をそのまま表現し、
   その形が作品となって多くの人々を大きく感動させることができるならば、
   それはまさに天才の業だろう。
   しかしそのような天賦の才能を持ち合わせていないならば、
   心地よい違和感の集合体を構成するために、巧みな計算を重ねて
   作品を構築して行かなければならない。
   その力、或いは才能は、前者の才能と大きく性質が異なるものと思われ、
   それはおそらく大方経験が磨くものであり、別の個との間に生まれる化学反応かもしれない。
   湧き出るインスピレーションに突き動かされ発信せずにおれなくなったり、
   何かしら手がかりを求めて自発的に心の旅に出る人間もいる。
   形成されたその"結果"も、タイミングが異なれば輪郭も構造も違っていたかも知れない。
   従って音楽をクリエイトする手法というのはまったく一元的ではないと言える。


   −−人々の趣味趣向が多様であるのに合わせて、
   音楽には様々なジャンルが存在するが、
   心地よい違和感の集合体という点において、
   すべての音楽に共通する要素を見いだすことができる。

   それは、音楽は楽しむためにあるということ。

   すべての音楽は生まれるべくして生まれた。
   不快に思うなら捨てればよい。
   気に入るものを聴けばよい。
   ただ、自分の耳に合わないからといって、
   存在を否定するようなことはいけない。
   逆にリスペクトを感じないものにわざわざ迎合する世辞を捧げる必要も
   全くない。

   ただただ、聴かなければいいんである。
  (2013/06/10改)










   哲学と科学の狭間。 @

 
 「音楽って何なのか?」   

  そんなことを学生の頃から幾度も考えてきた。
  義務感をもって行うことではない。気付けば無意識的に手を動かして解くパズルのように、
  特段意味があることでないかもしれないが、おそらく多くの人が幾度もそれをやる。

  キケロの言「To live is to think.」(生きることとは、考えること。)ではないが、
  この行為自体が、おそらく音楽と関わる喜びと等価なのだ。
  だから人は自発的に「音楽って何か?」を言おうとし、頭で言葉をこねくり回す。

  生きる過程のその節々でガチャポンみたいに、出てくる結論?が変わるのがまた面白いのだ。

  ある時、
  「音楽とは人が触れて楽しむものであり、心動かされるものがその人にとって良い音楽なのだろう。」
  って、なんとももっともらしく語ってみたり、

  ある時期には、
  「音楽理論はすべて数学で成り立ち、感情論的な曖昧さを遥かに超えた次元で完成している。
  宇宙はすべて数式で記述されているんだ。」と、
  物理学者にでもなったつもりで胡散臭い講釈を垂れてみたり。

  今の自分が、またしても無駄に時間を使って思い馳せた音楽ってものについての考察を、
  現時点での覚え書きとして記そう。

  音楽に触れ、それを興じる度合いとその行為の複雑さから言えば、それが可能なのは
  人間のみと考えてほぼ間違いないだろう。

  では音楽とは何なのだろうか? 目の前のコンパクトディスクか?と言えば、
  それは違う。CDはただのプラスティック製品だ。

  mp3か?
  それも違だろう。"0"と"1"で記述されたデジタルデータファイルに過ぎない。

  音楽とは物体やフォーマットではない。

  それは、
  「受け手が定義する概念」だ。

  それは昔から、何となく考え至っていたところだ。

  しかしこれは、じーっくり考えていくと、途方もない深淵へ
  堕ちていくような気がするのだ...。






   哲学と科学の狭間。 A

 
 「聞こえてくるものの、どこまでが音楽なのか。」

  ある音色がその音程を適度に変えながら
  一定以上の時間長で耳に入ってきたら、それは高確率でメロディに感ずるはずだ。

  そうなれば脳は、その聴覚情報を"音楽"と認識するだろう。

  音程の変移でなくとも、一定の間隔をもって打つ打撃音や規則性を持って鳴るビートなども人は"音楽"と認知し、
  さらにそれらはメロディの進行する速度とその変化の情報をリアルタイムに伝える機能も持つ。

  けれども人によっては、
  夜通し自部屋に響くトタンを打つ雨音が軽やかなビートに聞こえるかもしれないし、
  晴天下にさえずってやまない野鳥のこえをメロディと捉えることもあるだろう。

  テーブルに出された丼が客にとって"ラーメン"であるには、
  どこまで"ラーメン"であればよいか。

  スープはこうで、麺はこう。
  あるいは、
  スープと麺があればラーメン、ってことでいいんじゃないか? 
  いやいや、
  チャーシューがないラーメンなんて、あり得ないだろ...etc

  それは受け手が決める。そして受け手により違う。
  すなわち「受け手がどう感じるか」で決まる。

  聞いた人がそう聞こえれば"音楽"だし、
  そうでなければ、それ以外の別な何かの"音"なんだろう。

  特に音楽の場合においては、感知した音波に対して、それが音楽か否かといった判断は、
  およそ直観的、自律神経的に起こり、論理的な思考など待たずして瞬時に出される"反応"とみてよいだろう。

  音楽はつまり、
  「受け手が定義する概念」であると言えて、
  人が聞いて、それが「音楽だ」と感じた瞬間に音楽は存在する(発生する)ということだ。

  受け手の人間が音楽の存在を決定(定義)し、その時にこそ音楽は音楽として存在しうる。

  もともと人間が作った定義であり、人間だけがその概念を感ずることができる存在であるという前提に立てば、
  「人間がいなければ、"音楽"は存在しない」という必然性が浮かぶ。

  これは、
  無人の部屋に置いてあるモニターから楽曲が流れていたとしても、
  それは"音楽"ではなく、ただの"分子の振動"である、ということを言っている。

  こうして考え続けていくと、
  やはり気付いたら、こう似非哲学的な領域にどうしても入り込んで来てしまう。

  そしてふと立ち止まって、軽く視線をやればすぐそこに、
  「我思う。故に我在り。」のデカルトがたたずんでいたり、
  量子力学的な存在の定義がよぎったり、

  そうやって夜な夜なふけっていつの間にか寝落ちして、
  そこで終われば青い時代の脳内で起こったこととして終わるような話? なのだが、笑


  でも、そうではないんだ。
  ずっと自分の暮らしの傍らに一つのパートとして流れ続けていた"音楽"、
  自分のこの胸を張れない生き様に、縫い合わせるかのように共生してきたこの"音楽"というものに、
  もっと実質的な感慨があって、
  だからこそこんなものを、わざわざ書いているのだと。






   (最終回) 音楽の絶対値。

 
  「音楽の属する所。」

  故カート・コバーンによれば、
  「Smells Like Teen Spirit」のギターリフは、あのBOSTONの「More Than A Feeling」に
  インスパイアされて作ったと言うのだ。
  言われれば確かにそう聞こえ、そう聞こえた事で、己の「聞く」という所業のなんともな狭さと非力さを
  思い知ることになる。

  更に己の狭視野から申せば、メタル・ミュージックに舞うテクニカルなギターソロ、あらゆるメロディック・ロック、
  といった愛してやまない音楽ジャンルを正に喰い潰したグランジ・ブーム。
  その発端と言って違わないあの作品のルーツに、よもやアメリカン・メロディアス・ハードの大家があろうとは。

  それを考えれば考えるほど、なるほどやはり音楽は音楽なのだ、という、かなり盤石な所に着地する。
  「違い」や「こだわり」など所詮「個人的な好み」や「思い込み」でしかない。
  生前のカート・コバーンの意識の内にグランジとメロハの垣根など存在もしていなかったのは明白だ。

  そしてこの事例は同時に、自分がそれまで大好きだった音楽、それを聴いて大いに心揺さぶられた記憶の宝物に、
  何一つ不利益な影響もなかったということも、逆説的に証明している。

  "事実"なるものは存在しない。あるのは"解釈"のみだ。 
  ___ニーチェ

  それは音楽にもかくの如く当て嵌まり、

  「受け手が定義する概念」が音楽であるなら、その概念を定義する主体であるところの "受け手"="我々" の中に
  それぞれの解釈が流れる。

  "絶対的この曲"は存在しない。一つの音楽を百人が聴けば、それぞれの心に100パターンの楽曲となって宿る。

  ある者の心には物悲しい詞が大ボリュームで響き、ある者の耳にはべースラインなどまったく聞こえていない。

  そう、あの若き自分にはNIRVANAの楽曲の中にBOSTONなど、微塵も聞こえなかった!

  つまりはそういうことだろう、音楽って。

  すべて巨大な輪廻の中に有る。
  しっとりと涙して聴く者、キレキレに奏でる者、拳振り上げて歌う者、大作を緻密に編む者、
  皆ただこの壮大な潮流にのっている。

  この海原を操ろうと果敢に切り込もうとも、
  存分にもがいた末、いつかそれに抱かれていることに気付く。

  人が定義した物のようでいて、たいそう偉そうな視線の先にその輪郭は欠片も見えず、
  とどのつまりこれも、しっかりと自然の摂理に内包されるもの。

  それが音楽の本体であると。

  今はそう思う。



  ※ カート・コバーンやNIRVANAに否定的な思いはまったくなく、
    むしろ大好きでよく聞いたし、大いに敬意を持っている。


 
  文/国見 昌臣 (2019/09/06) - (2020/02/11改)