12月のある日、そこに白い神宮があった。




それは来るべきもの.. (2010/12/13) 

本格的な雪化粧を見た。

このいわば「冬らしくある冬」
普段「冬はいやだいやだ」とぬかしながらも結局は"北海道人のDNAの持ち主"である自分の心を
ともすればホッとさせるような視覚(体感)効果(!?)があるような気がする。

やはり人間は、それ自体が身を置く自然(環境)と
精神的・肉体的につながっているものなんだと思う一方で、
そういった環境や気候変動などの影響から自分等の営みを切り離していこうという
"科学"という名の人類の所業が、やがて自然環境の動向をも変えてしまい
その"不本意な変化"が、そこに息づく生命の"本能"を不安にさせているという世の中の構図をイメージする時
自然界の持つもの凄く精巧で壮大なセキュリティ・システムの存在に圧倒されてしまう。。

そして己は、いよいよ疲労が重なりかなりしんどくなってきたので、
(いや今回は本気でやばそうだったゆえ)強制的に久々の爆睡を敢行。
自身の防衛システムをしっかり持っていこうというのが
今年1年通して得た教訓、ということになりそう。。



自分を幸せにするのも
自分を不幸にするのも
自分を守るのも

きっと自分なんだろう
 



ということを、なんとなく最近、思ってきており

それはかつてどん底の自分を見下ろし
「何事も気の持ちようだ」などとほざく所謂"健常人"達に対して、
「所詮こいつらは自分の力ではどうにもならぬ精神疾患の苦しみを理解できぬ偽善者の馬鹿共だ」
と忌み嫌っていた当時の自分が持っていた理屈からすると、相反する所も多分にある訳だが、

それは今の自分の内面が、当時に比べて如何ばかりかでも"健常化"した証であるかも知れないし
いや、、、   おそらくそれらのどちらが"真"でどちらが"否"だということもないんだろう。。

その時どきで自分に都合の良い"屁理屈"を並べて生きてゆけばよいのだ。
何故なら人は皆「幸せになるために」生まれてきたのだから、、

その意味において、使用する理屈の真偽などまったく問題ではなく、

自分を幸せにする理屈こそが、自分にとっての"真"なんだよ、きっとね。





あえて文字列にしてみる新年.. (2011/01/03)

人は皆、笑顔になる為に生まれてきたんだと思う。

してそこに到達する為に人は、大小の努力を払わなきゃならん。
それはまさに"振り子の体"で、笑顔に大きく振るには大きく堪え忍び、
また、何かに立ち向かった量だけ心が充実感で満ちるんでしょ。

まったく損得で生きることじゃない。 我欲に執着することでもない。

周囲と調和して"良質な"相互関与をした上で自身も心豊かだったら、
そして、あらゆる心理的・肉体的(時に経済的)負荷も、己にとって
前向きな理屈に転化しちまってその心が"笑顔"でいられたら、
もうそれは最強だなきっと。

最期の精算で悔いに振る様な残高こそなければ、その人生は大成功だろう絶対。
必ずしもその中に、プール付きの大邸宅とか高級車がある訳じゃなくて、
何故なら幸福の物差しに物質量を計る単位が目盛られてるとは限らんから。
自分の人生の成功の基準は当然自分の中にあるんだから。

そう、人は皆笑顔になる為に生まれてきたんだが、
それはきっと、人様に形づくってもらうもんじゃない。

少なくとも、”待つ”もんじゃない。






望まずとも通らねばならぬ泥道..
             ..要はそこで靴を汚すことの意味。
(2011/01/15)


様々な場面であらゆる接点、そしていろんな思いが巡り、流れて...

はたと気付けば、当然の如く、、
今年度もまた受験シーズン本番に突入しているのだ___。

大切なのは、悔いの残らない過程を踏むことであって、
それができれば、それでもう受験の勝利者なんだと俺は思う。

だけどそれが実は一番難しいんであって、


   例えば合格しても、
   敗者はいると思うんだ。


それはきっと後々、自分がそこまで残してきた轍を振り返ったとき、
たぶん自分自身で気づくもので、

人様が「お前はああだこうだ」と述べてくる内容とは、
ものさしが必ずしも一致するものではないかもしれない。


自分にとって、自分がどうであるのかを、そして
自分がどうしていけば良いかを自分のために考えていくのが、
自分のことなのに、実はめっちゃ難しい。


でも、なんだか色々頑張った後に、
きっと"笑顔"があるにちがいねぇ。

してきっと人間はそうなるために生まれてきたにちがいねぇ。


だったらとにかく

がっつりやってみたらいい。





連日のこの寒さこそが、 (2011/01/26)

これがまさに北の大地の冬であり、
どうしようもなく根をおろしてしまった、我が故郷の証。
結構降ったし積もった。 ここ数年、毎年言ってるような気がするけど、
「結局一冬通して雪の量つじつまあうんだねー。」って1月辺りにやれやれって落ち着く。


なんだけども、
しっかり道の両脇に「これぞ我々が知る冬!」と頷かせるようにおわすうず高い雪山も、
「あれ、去年ここまであったっけ?」ってちょい思った。

この光景に自分の中で直接リンクするのは、子どもの頃の記憶の中の映像なんだが。
学校帰り、あの上めっちゃ歩いたわ。

これは単なるバイオリズムの一端か、
それとも20〜30年前とは見かけこそ似て、その実はまったく非なるものなのか、

世界各地のイレギュラーな気象状況が伝えられる日々、
この星はまた何かでかいポイントを通過してしまってんだろうか。。。と思った。


なにも知識ないし、正直なんもわからないけども、
いやきっとその分、
目に見えない漠然としためっちゃくちゃ巨大なもんが
少しづつある方向に動いてるような不安とか恐怖がこれ、
独特なあおられ方するんだよ。きっと。



      むかし

     「怪談の傑作」などと言われて小学校の担任に聞かされた

     "猿の手"っていう話を思い出したんだ。



            その結末のもつ威力は

            「直接見えないものの怖さ」...




                     ____そう、まさに最高級のホラーさ。





                               ■ 夜の円山地区 ____。





相手にくれてやれるものって...
            ..してそれ、ホントに受け取れるモンかしら。
(2011/02/05)


どんな形でも、人と接するってことは
その人の記憶に残るということ。 そしてそれは、
その人の人生に多かれ少なかれ関与するということ。

それが大それたこととか、大きな責任を伴うこととか、
そんなこといちいち考えて参ってしまう必要はかならずしもなくて、
そもそも社会の中で生きていくことそのものが、
そういった相互関与の連続なんだしきっと。


   も一つ加えれば、
   自分が相手に何でもしてあげられると思うなんぞ、
   とんだ思い上がりだと言うことだ____。


そして俺が
翌朝に私大入試を控えた生徒に出した本番前最後の宿題は、

「悔いのない頑張りをせよ。」

今更細かい教科内容とか、いいよ。
でも、短く漠然とした言葉のこの宿題の中身って、

自分で言っておきながら、何と難しいことよ。。(ToT)


しかし何事もそうあるべきと思うし、、

って言ったってそんなのたやすくできたら、
人生苦労せんわ!


   色々と教鞭垂れながらも彼らの顔に重ねてそこに
   自分の姿を見ていることもまぁよくあること..。


だが俺は言う。 きっとこれからも、
その真意を伝えるに余りにも若すぎるかもしれない彼らに
俺は言い続けるさ。

して彼らの将来のどっかのポイントで、なんらかのステージで、
「ん、なんかそういえばあの男あんなこと言ってたな。」
と、少しでも思いよぎる瞬間を作り出せたら、


   俺はきっとその子の記憶に残り、
   その人生に多少関与したってこと。


そしてその関与がいくらかでも"良い"ものであったら、
おれの仕事は成功したと考えていいんだろう。


そう思ってる。




年度の締めへ向け、 (2011/03/09)

仕事とかプライベートでのうごき、
はたまた精神活動の総括をしてゆかなきゃならんことも
多々ありましょう。

場合によっては活動拠点の移動に伴って お別れの季節...
なんてことにもなるけども、
来たる近い未来に向けて ここはひとつ大いに展望を広げて、

待ち構えているに違いない数多の出会いや様々なチャンスに、
胸をふくらませてみたらいい。


     いつもにこにこなんて無理だ。

でも、
ふと気付いたとき見上げる "にこにこな未来"を
天井に掛けておく
ことは、きっとできると思うんだ。






色々と、 (2011/04/12)

そう、色々とありましょうが..
新年度、どんな心持ちでスタートされましたか?


うん。

そしてきっとまた僕たちは


         思いっきし腹抱えて笑ったり

       そりゃもう滅茶苦茶ムカついたり

     いきなりもの凄く頑張ったり

   なんで自分ばっかりって嘆いたり

 素敵な出会いに心躍ったり


         涙枯れるまで泣いてみたり

       そんなんどうやってもガマンできなかったり

     自分が嫌になるほど何かを憎んだり

   優しい気持ちに触れて癒されたり

 時々あり得ないくらい寂しかったり  ___するんだろうけど...


でも、

いつも傍らに 大好きな”音楽”のある暮らしを

これからもよろしくです♪





白石区、サイクリングロードの八重桜。




もう揺さぶられずに其処に居るのは無理で.. (2011/05/22)

桜も終わり緑が映え、
この目にそれがとても心地よく。

ほんとに何故なのかこの木々の深緑っていうのは、
その時点の自分の"たましい"に対する大きな癒しであり、

してそこで陥っていく精神世界がまた、
これまでの自分の奥のほうの幹にきっといっぱい刻まれてきた、
痛みとか安息といった記憶のかたまりと
何故かいつも一体で..


あの木々さんたちのことはなんも知らんが、
なんかこう、「おう、また帰ってきたな」と思ってしまったとき
どうにもならなくなる。


    そこで一際さわやかな風でも吹いたら、
    それにのってどこまでもいってしまうのも 
    きっと最高だろうっておもえるんだ。


しかし、
自然は非現実でファンタジックなイメージを
たくさんくれるっておもってたら、
いやいやこれ、自然こそが現実そのもの なんで。


そこには、我々の母としての無償の癒しと、
我々のあずかり知らぬような莫大な脅威とが
”現実というもの”の両側面として、
きっと常に存在してるんだ..






yes , all for me... what's wrong ?  (2011/05/29)

もういい加減あったかくなるだろ、
って 昼の日差しなんかにも多少惑わされてスーツだけで出てって、
帰りの地下鉄から家までのチャリの上で、こごえて帰るのを
何回繰り返せば自分は”わかる”のか。

こごえるってたとえじゃなくてな、文字通りほんとにこごえるんじゃ! 毎晩毎晩。

まぁまぁまぁまぁいつまでもいつまでも低い気温に、無意味に強い風...
この"至る所がたがたな体"にわずかな治癒の兆しも感じるどころか、
いのちけずられる思いだわ。


もう完全にアホでしかない希望なんぞ捨てて、
上着・マフラー・手袋 ないとほんとまじで、


   死活問題だから。  メンタルにも確実にきますよ、これ。


まぁ予報はいいんだけどね... 


"言った・言わない" "辞める・辞めない" だので大忙しの高給取りどもよ。 
あいつら一体 "だれ" の "なんの" ためにぐだぐだ時間割いてやがんだ?


最近はやつらの存在してる意味すらおれにはわからないんだ。


もう、自分でまもらんと、きっとだめなんだ。



だまって歩いてたって

向かい風なんて、
そりゃいくらでも吹くぜ。






                             ■ 南郷そして円山の深緑 _____。




他力を考に入れるという"自力".. (2011/06/11)

どうしようもなく落っこちたら、
これ以上の"下"なんて、おそらくないから、
あとはだまってても昇ってくしかないんだ。

どうこういっても結局
この島国がやっぱり好きなんだろうから、
底をつくことの"幸"なんか考えてみる。

しょうもないかも知れないし、
何の中身もないかも知れないが、

だからなんだ。

ただうなだれて、文句たれて、
あるいはあきらめて、

結局、己ごときじゃどうにもならんものなら、
無意味な楽観的展望でも喰らって、
いくらか気分よかったら、
それでいいんだろう。

そしてそんなのとは別に
自分の日々の進捗の中で、
何かしらの充実や笑顔を見いだせていけるなら、
それは本当に幸せなことで、

それまでもが壊されるほどの
社会の破綻が起きてしまわないよう
せいぜい一人こころの底で祈るのみ。

そんな人間を「どうしようもない」などと、
もう誰も言えない。





ぐるぐる掻き回されて きっと残っていく轍(わだち).. (2011/06/22)

いよいよじわっときてこれが今、常駐してんだ。
盛んな生命力をぐいっと引っ張ってくる"全力の夏"の、あの予兆。

草いきれ もくもくな雲に 不思議と自然にわき出てくる開放感、
暑さ・冷房・扇風機といつも一体のあのぐったり感、
夜のあの独特な香り...。

おそらくまた"あの"勢いにのせられ 活気づくこともあり
またその絶対的な威力に ヤられそうになって..

いつも通り営んで 揺れて 動いて
してまた今年だけのグラグラやフラフラやワクワクが
きっとあるんだ。

視界のすぐ先がもう幾様にも膨らみすぎて
今この時をしっかり進めていく以上のことは
無理だ。


そしてまた自分の中の奥の方が
ぐるぐる掻き回されたらいい。


そのかたわらに いつも最高の音楽さえありゃ
それでまた いたって「いつも通りの夏」だ..。





下り坂の充実感 .. (2011/06/30)

どんな風になのか わからんけども、
のぼっていけたら 楽しそうだ
それぞれの 行ったことないとこまで..

その「初めて見るながめ」って ずっと思ってたように
すげぇ良いもんか、
そうでもないもんか、あるいは
もう見たくもないもんか..。

でも、見れるもんは きっと見といたらいい。

そうしたらそれだけ、
視野もおそらく広がんだろ。
"想いかた"の通りも 増えんだろ。


すごいとこに行くこと自体より
そのことがむしろ財産だったり...


そう...
ほんと一体なんなのかさっぱりな、
して如何せんどうにもこうにもこの一度きりの自分を
なんやかやおだてて つっついては またなだめて
これからも ふらふら ふらふら 歩いてくんだろが...



  _________________ 間違いなく次の日の朝は来るだろし
              今年もまた間違いなく己の心に "あの夏"がくる...。








                             ■ また来る 光の季節が _____。





"うごいている"魂.. (2011/07/07)

かぎりある時間のなかで
どんだけ有意義に"うごく"のか

それは 広く社会的な活動であろうと
あるいは あまりにも個人的な精神活動であろうと

自分という魂に与えられた「からだ」とか「時間」という
どうしようもなく強烈な圧迫感をともなう"有限"を
どう使い消耗していくか

その使用法が その後の心の善し悪しを決め、
しいてはその人生の"質"を決めるんだ。


各々の経過に各々の価値基準が滲み
その幾通りもの糸がこの社会を編んでるんだ

そこに強く関わったり 疲弊の末に遠ざかったり
やはり組み込まれずにはこのいとおしき"有限"が成立し得なかったり..



  言えるなら

  その多様な"進行形"のひとつひとつに...


どうか
どうか、幸あれ...






来るべき次の季節から
      この夏の終わりを待ち構える..
(2011/07/13)


あち〜
なつなんだな、まちげーなく

こんな全開な夏だったらもう、

「そんとおり! あんたは夏だ!」 と いふのみ。



  素敵な季節に なるといい。

  きっとなるんだ☆



してそのあと巡ってくるあの感情渦巻く季節に
どんな映像が残ってるのか、

その残像のバックに
どんなサウンドトラックが流れてるのか、


それを今から先回りでイメージして、
自分の夏のBGMを選曲してみんのも
素敵な試みかも知れぬし...



夏なんだから、
太陽も、頭上で存分に輝いたらいんだ。
地面を存分に焦がしたらいんだ。

してそこから生い茂る深緑に
その間を抜ける薫風に
今年も翻弄され続けるんです..。




流れの中に この川底を踏みしめる.. (2011/07/17)

季節は確実に移ろいで
この世の中の変遷も歩を緩めることがない
  絶対に。

そしてその流れに身を置く己の身体も精神も
確かに変異し、成長し、揺動し、破壊され、治癒し、
更に変質して、ふと振り返った時、
何らかの蓄積があるかもしれん、
また負の財産をいくらか背負ってるかもしれん


今自分がこの数十年分の線分図の何処に或るのかもわからん
でも、その始点から現時点までのアーカイブに想い更けることの、
或いはここから末端までの様相を思い描くことの重要性が

以前程大きくなく、さほどしがらみに感じず、



要は

 ”今”が もの凄く多くを占めていて
        ”今”が とても大事なんだ..。




それ以上のことに対して、
 この自分が何をできると言うのでしょう?





スタートしてしまえば あとは
    終了までのあらゆる"連続"...
(2011/07/24)


おそらく その一人一人において
成せることなど 微々に限られるんだろうが

笑顔になること、或いは何かしらに満足することなんかは
きっといくらもできるんだろうと思う。

その為のラインを己の意志の有り様で
如何様にもできるんであれば..


 _____ こりゃ まさに己の"生"の隆盛を
      手中に収めたも同じなんじゃないだろか..。


そんな単純じゃなかろうし、楽じゃないんだわ。




いや どうだろな。


案外そうしてみようなどとも
思ってなかっただけかも知れんとよ。





殻。 (2011/08/03)

自分にとってのこだわりは

"自分にとって"で十分。


それを"余所"に流布する必要もないんだろうし、
そこに「理解してもらえないことの苦しさ」もない。



  そんなエリアが己の内にあるってのは、
  それ自体がきっと大きな幸福なんだろう。



周囲との同調やら摩擦やらの所謂"関わり"から
己の位置や精神状態を相対的に見いだすことが
生きることの大部分になっちまっていると見ると
いささか残念さもよぎる。

でも、
この"余所からの目と無関係にある幸福"とは
ある意味ものすごく"本物"の様な気がして、


まぁ気休めであっても

"良い" 理屈と思うんだ。




             ■ 光、 熱気、 このまとわる空気の質感...すべてが強すぎる____。





来たんだ、   この感覚が。 (2011/08/10)

精神・肉体共多忙の盛りの身にまとわるこの高温多湿たち、
昼夜 共存以外の余地なく、

それは本意か否かなどとまるで無関係で、
自分を包む"大いなるもの”が持っている自分に対する"絶対"や"強制"に、
激しく影響されながらも 或いはそれが生来の姿かとも思うんだ。

そしてこの時期特有の、
昼下がりに感じる強烈な倦怠感で薄れていく思考の輪郭、
夜に突出する繊細な感度を持ったおおよそ根拠のない希望や興奮、


そういったものをざっと見渡した後、
自分はやはり夏には属さないものと気付く。


でもこうしてここを通っていくことに
きっと重たい意味がある..。





"今"の重量感。 (2011/08/16)

「そこに至ったのには、必ず因果がある」
という考え。

それは、その日その時を迎えるに、そこまでの道程がすべて
"なにかしら意味のあるもの"であったのだと考えること。
これはとても有意義と思う。

だって"今現在"も必ずや未来のある地点への連続の一貫なんであって、
大きな意味を持つのだと考えるようになるからこそ、
それが"この時"を大切にしようというきっかけになっていくと思うんだ。

して、それはそうなんだけど___

一方、"今"は、それより前の過去を全て引きずっていると考えると、
そのイメージは個人レヴェルの事象に留まらず、

いま現在の宇宙は、過去のすべての情報を内に宿しながら
未来へ進行しているのだろうかと、、


この進み続ける宇宙のが持つ情報量は、
時間の経過と共に、爆発的に膨張しているんではないかと
思っちゃったんですけどね、



そうだったら、かなりすげぇくないすか。











    downstairs.....








2011/08/25

きたんだ、 この時期が。

あんまりにも気持ちの良い空気と程よい気温、
そしてあらゆる有機的存在が鮮やかに色づく季節へと突入して
今年もまた自分の中身はどこか別なところへ飛んでいくんだろう。。


それは思い馳せれる毎に気の遠くなるような
胸が焦げるような...

いつもいつもずっとこの時を待ってるんだが、
やって来て 大きくこの心をさらって揺さぶっては
あっという間に去って行き、


結局いつもあの高い高い空に
手が届いたことなんてないんだ________。






2011/09/07

未だ4分の1を残す2011だが...

おそらく今年も我々の中を
もの凄い量のアナログ・データが通り過ぎた。
その度、脳内の情報や記憶の断片は書き換えられ、
判断基準は都度変化、情緒など概して安定せず
摩擦、協調、そして緊張や安堵、その果てに
さらにデータが上書かれ
修正・改善、時に改悪され、またそれを幾度となく繰り返し、
軸もぶれ、発言もゆれること茶飯事、
その行った先でまた何か確固たるものを掴んだ気になってみたり、
他をいちいち非難し論評してみては自分の"位置"を確認し、
いま踏みしめている足場も、果たして何時まで存在するかさえ分からない。

確信も錯覚も信頼も疑念も
恐らくはベン図の如く激しくクロスしていて、
到底存在するはずもない
“明確な価値観の定義”をだらだらと求めながら、
実はランダムに繰り返すだけのこの変域内の揺動を
“人生における有意義な多彩”と勘違いし、
常に腹空かせて生きている。

しかし
仮にどんなデタラメな計算過程であっても、
己が導き出した解の中に一つでも前向きな文字がおどれば
そりゃ己にとってめちゃくちゃ使える方程式なんじゃないか。


そいつをきっと大切にしたらいいんだ。






2011/10/04

大い<にうごめく"こころ"にも
徐々に寒の染み入る、このなんとも
いやこのなんとも言に尽くせぬ 移ろい感、傾斜感 或いは、、なんだらう、

秋絶頂の頃やや過ぎるこの時期、誕生月と重なるからなのか、
自身に向く強烈な無常観で. . . もう、



     ________________張り裂ける。



またここから次の秋を待つ阿呆、などと
ゆっておれぬこの感覚は、例年の己といかばかりか違うのか、
もしくは着実にこの「限りある存在」が向かうべき道を辿っているのか。



とにかく 明日も その次の日も その次の次の日も、
そこらじゅうに満ちる空気を いっぱい吸う。







2011/10/18

はい冷える夜、ユキムシと
今年も段取りよくきました

こころに漠然と覆い始める暗幕も
透過度がぐんぐん落ちていって..

くぐり抜けるための余力を
若干蓄え損ねた感あり

だったら来るべき暗寒の中で
自ら幾らか発電していかなきゃなるまいに。




そしてそろそろこの平野部にも 初雪が舞うんです...。  







2011/10/26

残してきた轍によろこんで
これから駆けてくはずの はるか前方まで伸びていく彼方に 
めちゃくちゃワクワクしたらいんだ。

そやってずっと続いたらいい、
していろんなことに「よかった」って思えたらいいんだ。






2011/11/01

ほんとに愛することであれば、積み上げるに易いことで
許されればいくらもそっちに傾倒できるだろし
損得の勘定なく 時間も体力もこころも 或いは財をも費やして
結局そこに埋もれること自体がこころを潤すんだろう

それが時に思わぬような大きな"形"を成してしまうこともある

その一連に利己的な計画性や邪な計算もなく
この尊い"形"が、ただ自発の念に突き動かされた軌跡の先に置かれていたとすれば

それを土産に墓にでもいけるんだ。

もしその軌跡を描くための時間や体力やこころを
多少なりとも身にあずかっているなら
大いに感謝しなけりゃならない。


思うに、それ以上の財産は   
おそらくなかなかない。







             ■ 空はより高く、高く。  紅の彩は夜の灯りにも浮かぶ___。









深い深い季節の終焉...  (2011/11/20)

揺れながらもまた前を向き
脳天を打たれながらもまた上を向いて
そこに”充実”やら”成長”やらと、
己に暗示でもかける日々か..?

良い潮流に乗じたつもりが座礁し
すぐの目前に光を見たつもりが
一夜で闇と化して

ふらふら、またよろよろと、
ほんとにこの魂が救われることなんて、
もうこの先ありやしないんじゃないかと何度も思い、

でも何かの拍子で心が、想いが、"持ち上がった”時、
ふと振り返ればそれは、「戻った」んじゃなく、おそらく
何かが「積み重なって」いて、

よろめくなんぞ、望まぬともいくらでもよろめくが、
己の内に動かぬ軸が、立ち戻る原点があればこそ
一見寄り道なこの大きな振幅の"中心"は、きっとあるべき方向に伸びている
そこに向かっている。


でなければ、 そう思わなきゃ、


きっと崩壊する...。






それはまた来るべきものへの...  (2011/12/27)

みなさま 調子は如何でしょうか

今年もまた己身から去り行くもの、或いは訪れるもの、
数多有形無形が分離、通過、接触、衝突..

  その主体である"自身"は
  一年前と並べてどう相成った..?


成長? 進化? 或いは深化、劣化? それとも変質?

いんだそんな分析なんて。 いま楽しいかい?

年を越えた向こうに "笑顔"が見えますか?



そのために ただ日々があったらいい..。





              その諸々に感謝の意を込め、
              そして来たる極々近い未来へ向けて...   拝。









                                            ■ 藻岩山頂付近から見下ろす冬の街___。








言うに及んでもつぐんでも...
         生まんとするなら行うのみと。
 (2012/01/20)


最近の激寒に「マジ有り得ん」と思っていたら
なんも 幼少頃 冬のこの時期、
ざらにあった寒気と言うではないですか。


退化...?

防寒は耐寒力を下げ、
除菌や空気清浄は免疫力を下げ、
あらゆる"利便"は思考力を奪い、

そうして
いわゆる"ぬるい環境"は"生きる力"をそいでいくんだ。



いや、
そんなのまるで言い過ぎです。              







想い結んでは拡散する...
         ____それは刹那の雫。
 (2012/01/31)


おそらく"積み上り"を感じれば
きっと楽しくもなるだろし
やる気もでるだろし、

屁理屈でも、一つ一つ、いちいち意味のあるものに思えては
充実したつもりにもなる。


"積み上がり"を感じよ
感じるのに足るうごきをせよ

そして願わくば
その目に映る限りの親愛なるものに
それを感じさせる配慮をせよ

できなくても
してみようと思うことが
おそらく"糧"になり

「及ぼし合う」ことが生きることの常なら、
その流れの中で結局きっと、なにか、

"積み上がる"。


        おそらくは、それでいいのだと。        

そしてまた、此の胸の中にもどかしくもいとおしい輪廻が
続いていくんだ。

何に向かうか どう辿るかなど

今、敢えてこの見通しの悪さに そして結局は拭えない深い霧を
敢えてまきはべらせて、
敢えて寄り掛かって、   なごむ。














 ■ (2012/05) 日頃のルーチンを停止、それに寄せる考慮も凍結..
             圧倒的な"広大"と"開放"そして飽くことない非日常の連続が、
              それらをまったく難儀にしなかった...!



           最北の離島に悠然とそびえる富士。
              その圧倒的"観"とあまりに必然な"歴史"の存在。
                 得てして内に棲む"北の者だったはずの意識"が揺らぐ_______。













 ■ (2012/07) 強烈な"命の時節"にまた、飽くことなく揺さぶられ 背押され
             削られ 膨らみかけて 潰れ...。
                濃くあっても本意などでなく、とみに酷であっても...

          
        そう こいつを通過しなけれりゃ、"大いなる次"は絶対やってこない
           それこそ「連続」の必然、して刻が経てば必ず過ぎ去るのもまた、
                          「連続」が併せ持つ厳然たるもう一端の性格。



       通勤路〜南郷通と並走するサイクリング・ロード、昼夜大きく趣を異にするその姿__ 
          勤めに赴くものと終え帰するものの心の差異、高低..? 表裏?
            そう、日周運動に完全にシンクロするこのルーチンの「連続」の向こうに
                  そりゃ必ず有る"大いなる次"。   そうでなきゃ歩を進められない。











 

(2012/08) それはそれは広大な北の大地の中央部、
             この島の至るところで繰り返される数多営みの位置的中央で、
                この”広大なるもの”の美しさ、厳しさ、奥ゆかしさ、力強さの真髄を、

     いやおそらくその”ほんの片鱗” を魅せられることの、 その連続を浴びて...
          己の内に「大切な何かを取り戻す」というより、
             おそらく「そもそも持ち合わせてすらいなかったもの」が入り込んで来る_____。         
       




  ■ 十勝岳連峰麓の幻想 〜全身に、余りに強烈に、鬱蒼とした”重たい夏”がのしかかる。
                    毎季、己を押しつぶしてきたこの”圧倒的重量感の本体”に、 
                      とうとう踏み込んで来てしまったのか...。   


                      もう、 ほんとに  打尽にされてしまいそうで...


                   そしてその後もこの”絶対力”は頭上に有って
                   この身にしばしのっかり続けんだ_____。  










 




                           ■ (2012/09) ニセコ町日の出大橋からの眺望と共和町神仙沼付近の湿地帯。         



       

                           ■ (2012/09) 霧雨の羊蹄山麓半月湖と日差しが戻る瞬間の共和町長沼。         












            and downstairs again.....






2012/09/25

やがて今年も切なく、たかくたかく舞い上がってくだろう空に

   決して手が届くことなんてない、そんな幻想に

      極めて普通に、自然に、予定通りに流れるように、


  のまれる...。










                          ■ (2012/10) 秋の支笏湖岸と雲間から鮮やかに覗く日差しとの共演。
             










        
       

                               2012/10


当然のものとして確実に訪れ

   しかしあまりに遅くやってきた幻想は

     あまりにも瞬く間に過ぎて

       身を投じ振り回される猶予も あるいはその余韻も...

                               2012/11
    気づけば舞う初雪の虚無とクロスして  

       とうに本格的である寒風は

          あらためて己にその移ろいゆく現実を

             頼まずとも訓(おし)えてくれている__。



                               2012/12









   ■
(2012/12/31) 大晦日、閑散とした円山方面。

     
     余りにも「至っていつもの一日」として過ぎようとしている寒極まる夜。
       あと数時間も経てば怒涛の初詣客が訪れるであろうこの地の、束の間の静寂に浸る。

     この一年全体をざっと振り返るにあたり、
       この先随所で顔を出すであろう、正にも負にも振れるこの数多の蓄積...



            今はちょっと疲れるんで、片隅に置いておくように、
            して間もなく確実に溢れかえる人ごみ、その片鱗さえも目に入らぬうちに、
                                        そそくさと帰路につこう__。



     望むと望まざるとに関わらずこれから何度となくこの心に現れ、
       自分をまた一つ形造るに余りある一際怒涛だった2012年...

                                   まずは一端、さようなら!








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