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「普通,日本で『三国志』というと『三国演義』のことを指す」
私にとっては聞き飽きた言葉である。ほとんどの研究者,特に民間の研究者は全く
悪びれることなくこの言葉を用いている。
では,『三国志』と『三国演義』は同じものなのだろうか?答えはNoである。
『三国志』とは元々二十四史と呼ばれる歴史書の一つであり,『三国演義』とは
四大奇書の一つに挙げられる小説(物語/講談)である。この二つは似て非なるもの,
いや,似ているように見えて実は全然違うものなのだ。方や歴史書,此方物語なのである。
そこで出てくるのが,「正史至上主義」というものである。これを歴史家が言い出したものなのかどうかはっきりしないが,「正史至上主義」とは『三國志』を見る上で,正史は歴史であり見るべきものであるが,
演義は物語であり見るべき価値のあるものではない,という考え方だと強引に定義してしまい
話を進めていこう。
実際,『三國演義』には歴史的に見て間違っていることも色々と含まれており,それが
民間においてまるで本当のことであるかのように認識されているのは事実であるだろう。
それがエスカレートすると,『三國演義』と『三國志』の区別が付かなくなり,正史の研究家に
向かって『三國演義』を例にとって反論するようなことも起こり得るのである。こうなれば,
正史の研究家が『三國演義』なんてつまらないものだと主張するのも頷けようと言うもの。
歴史的に見れば『三國演義』の価値は,歴史にあるのではなく,三國志時代の歴史を
理解する上でこれほど利用価値の大きなツールは無いという点にあるのだと思う。
『三國演義』は歴史としては完成されていない部分がかなり多い。これは当然な事で,
所詮は物語なのであるから,これに歴史を語らせること自体が無理のあることなのだ。
『三國演義』も物語としてみれば読み応えのあるものだし(だから,横山三国志や
吉川三国志があれ程の読者を獲得するに到るのであろう),無価値なものではない。
しかし,歴史研究に役には立たない。あくまで補助的な存在なのである。『三國演義』
で調べたことを他の歴史書を用いて裏をとる,こういう使い方なら正史至上主義においても
『三國演義』を有効に使えるのではないだろうか。
ちなみに,私は正史至上主義の立場をとっている。これは『三國演義』そのものに問題が
あると言うよりも,『三國演義』を受容する層に問題があるためと言うことだ。『三國演義』を
受容する側が,『三國演義』と『三國志』を混同して,あまつさえ「本当のことなんて分かる
筈もない」等と言って『三國志』の価値を無意味に引き下げようとする連中がいるため,
『演義』を賞賛するわけにいかなくなってしまったというのが真相かも知れない。
「歴史書に書いてあることは本当か?」非常に大きな命題である。「本当」と答えても
間違いであるし,「本当ではない」と答えても間違いである。「信頼性が一番高い」と
いうのが正解ではないかと思う。「歴史書以外に書かれていることよりも真実である
可能性は高い」が真相であろう。だが,現代に生きる人間が確たる根拠も無く色々と
述べ立てる所謂雑説は聞く意味がない。現代という色眼鏡を掛けて見た世界に真実が
あるはずもないからだ。
しかし,結局の所は,色々な雑説に惑わされることなく,自分の力で『三国志』や
『三国演義』を通読し,自分の,但し自分勝手でない「三国志像」を作ることが重要なのかも知れない。…って,それができれば苦労はないか。
1999年11月2日,私は縁あって「懐徳堂秋季講座」なるものに出席させて頂いた。私の大学の中文の掲示板に案内があり,加えて三国志関連では有名な井波先生が講師と言うこともあったために,生まれて初めて往復ハガキなるものを書いて申し込みをした。
今回の題目は「三国志演義の世界」。井波先生お得意の題目である。講演は18時30分からなのに,会場に到着したのは18時過ぎ。30分程待ち時間があったので会場内を見渡すと(とは言っても一瞥で見渡せるそんなに広くない会場なのだけど)…,受講者の平均年齢が高い高い。「何なんだ,この場は?ひょっとして私は場違い?」って感じ。
…そうこうしているうちに時間になり,井波先生登場。司会(おそらく大学関係の人なのだろう)が井波先生について紹介するのだけど,見ているのは井波先生の著書『三国志演義』の後ろの著者紹介。そのまま読んでるわけではないんだろうけど,何で?しかも,「今日のお話を聞いて興味を持たれたお方は,ぜひ先生の著書をお買い求め下さい」と宣伝。いやー,商売上手いねー,って別にこの人が商売しているわけではないんだけどね。
そういえば,会場に入った時にはレジュメをもらえなかったので,「今日は井波先生が話のみでどう聴衆を虜にするのだろう」と思っていたのだけど,結局レジュメは配られた。その最初の部分を見て,「常套句が出ているなあ」と思った。それは“2つの「三国志」”という言葉だ。
2つの「三国志」とは言うまでもなく,『三国志』と『三国演義』だ。話はその成立についてと言うことから始まる。『三国志』とは西晉時代(三国時代を統一した王朝)の史官,陳寿(223〜297)の書いた正史(王朝公認の歴史書,正しい歴史という意味とはちょっと違う)。『三国(志)演義』は14世紀中頃羅貫中(生没年不詳)によって成立した,と。まあ,これは,基礎知識だ。
このあと,話は三国志の対象とする時代の概説から「三国志」がどのように民間に語られていったのかを表す資料を挙げ,劉備が善玉、曹操が悪玉という見方,それに蜀漢王朝を正統とする蜀正統論が11世紀頃には成立していたことを説明する(これは『三国演義』の基本構想の原型となっている)。その後,『三国志平話』から『三国演義』へとどのように変化していったのかを概説して,各論に入る。
その中で,『三国演義』がそれまでの語り物と違うところは,羅貫中が知識人で,それまでの語り物にあった荒唐無稽な部分を取り除いたために,非常に深みが出てきているところだと言う。
それに加えて面白かったのは,関羽の扱いについての話だ。『三国演義』では縦横無尽に大活躍する関羽だが,それは,羅貫中の環境が大きく影響していると言う。関羽と羅貫中の出身地が同じ現在の山西省太原だから,羅貫中の関羽に対する思い入れには特別なものがあると言う。
実は,『三国演義』までの三国志ものでは張飛の果たす役割が非常に大きかった,その理由は,民衆はその三国志ものを聞いてストレスを発散させるのであるから,大暴れする張飛が必要なのだと。ところが,知識人の羅貫中にとっては,ちょっと頭の足りない喜劇性のある張飛よりも,義理を重んじる悲劇性のある関羽の方が思い入れ易いこともあったのだろう,と。
先に,『三国演義』では曹操が悪役であると言われているが,『三国演義』の曹操は関羽に対した時だけは良い面が出てきて,それがまた,曹操を悪一辺倒の人物にしていないので曹操の人間的な深みを醸し出していると言う。曹操は関羽を認め,色々な手段を用いて関羽を配下に引き込もうとしたが,関羽は劉備に対する義理を重んじて決して裏切ろうとしない。しかし,曹操の恩も決して忘れはしない,それは,赤壁の戦後の華容道でのエピソード(『三国演義』第50回)でも明らかにされている,とも。
また,劉備や張飛と言った曹操にとっての敵は,曹操のことを「曹賊」と呼んでいるのに,関羽は決して曹操のことを「曹賊」とは呼ばなかった,と。これは,曹操が関羽のことを認めていた証拠なのかも知れない,もしくは関羽の人柄を表している証拠なのだと私は思う。
他にも話はあったのだが,何と言っても生きているときには義の人で,死ぬと祟りをもたらす関羽の話は私にとっては新しい発見だった。また機会があれば井波先生の話を聞いてみたいものだ。
「三顧の礼」と言えば,劉備が諸葛亮を自分の幕下に迎え入れたときに行ったものとして,以前は当然のことと認識されていた。
だが,最近の中国史学会では,この定説が覆されつつあるらしい(I)。曰く,『三国志』完成以前に編集された歴史書『魏略』によると,出会いは,劉備が諸葛亮を訪れたのではなく,諸葛亮の方から劉備を訪れたとなっている。『九州春秋』の記載もこのようである(『三国志』巻35諸葛亮伝裴注を参照)と。
また,当時の劉備と諸葛亮の置かれた状況を考えあわせると,果たして,諸葛亮がこのような無礼な行動をとったであろうかとも言っている。
ちなみに,『魏略』、『九州春秋』の記載について,裴松之(陳寿『三国志』に注を付けた人)は「諸葛亮は『出師表』の中で『先主(劉備)は自ら草廬(諸葛亮の住居)を三度訪れ…』と言っているのだから,諸葛亮が先に訪れたのではないのは明らかである」と,三顧の礼はあったという立場である。また,内藤湖南も「諸葛亮はうそを付くような人間ではない」という趣旨(「諸葛武侯」)で,三顧の礼の存在を肯定している(II)。
三顧の礼のあるなしを論じる研究者の数は,まだそれほど多くないが,根底にあるのは,ひょっとしたら「人間諸葛亮の追求」ではないだろうか。
そして,「人間諸葛亮の追求」に隠された背景などについても考えるべきことがありそうである。これについてはまた後日。
ちなみに,私は「三顧の礼」については,今のところ「似たようなことがあったかも知れないが,あんな美談ではあるまい?」と思っています。
(I)加来耕三氏は著書の中で「現在の中国史学界では,この定説は覆されつつある」と書いている
(II)狩野直禎氏によると,逆らしい(『別冊歴史読本中国史シリーズ3(1992.02.11)』の陳舜臣vs狩野直禎対談を参照)
以前,「三顧の礼」について,単なる美談から現実的な論へと認識が変わりつつあると書いた。これは,物事を掘り下げて考えようということと言える。
ここで,私はあることを思い浮かべずにはいられない。「思想の方向性は,その時代背景に影響されるところが大きい」
このことは,魏と蜀漢の正閏論争(どちらの王朝が正統かということ)の経過を見ていると良く分かる。
魏を正統とする意見が出る時代は,漢民族の王朝の勢力が強く,中国の北半分にも勢力が及んでいて,蜀漢を正当とする意見が出る時代は,漢民族の王朝の勢力が弱く,長江南部にしか勢力を及ぼせていない。(I)
ところで,三顧の礼研究に見られるこのような「掘り下げた見方」は一体何なのだろう?もしかしたら,「掘り下げた見方」は容易に「穿った見方」になり得るのではないか。
そもそも,研究会に新しい見解が発表されるのはどのような時なのだろうか。研究者が論文を発表するとき,その研究者は過去の成果に満足せず,自らの視点から意見を加えて新たな研究を発表するものではないか。となれば,研究というのは「過去に打ち勝つ」ということになるのではないか。そして,発表した論文が認められれば,過去がものを語ることはないので,その研究者は過去に打ち勝ったことになる。
これについては何も研究論文に限ったことではなく,他の世界でもそのような展開になるのではないか。しかし,よく考えてみて欲しい。このとき,過去vs現在に判断を下す(判定する)のは現在の人間なのである。一言で言えば,「過去は現在に勝てない」と言うことである。
さて,このとき逆に新しい研究発表が認められなかったとする。それは,その研究者の成果が過去の成果に劣っていると判断されるが,それも現在の人間の判断でしかない。
「説得力のある研究成果は新しいほど質が高い」と考える人は多いと思う。私の見聞範囲では多かったのでこう言うのだが,この考えは果たして正しいだろうか?
そもそも,新しい研究成果がもてはやされる理由は,「より現在に近いから」ではないだろうか。現在に限らず人間は,自分が生きている「今」を基準として物事を判断しやすい(これはおそらく真であろう)。となれば,研究成果の判断の基準も「今」になりやすいと言える。結局の所,もてはやされるのは,「時の要請に合致している」からだろう。
無論,時の要請に合致することが喜ばしい分野(サービス業とかコンピュータ開発とか,実生活に根差している分野)においては,時の要請に合致することが第一目標であると言え,時の要請をくみ取ることが重要であるし,過去になかったものが現在に存在するという世界(先端技術の開発分野等)では,過去より現在の方が理解度が高いと考えられるから,現在に近い方が高く評価されるのは納得できる。しかし,そうでない世界では? 三国志の研究分野などは,原本である『三国志』は完成が約1700年前であり,それ以外の野史(正史以外の歴史書類)の中には散佚して現在には残っていないものも多くある。つまり,過去にあったものが現在にはないと言う世界である。
それゆえに,「思想の方向性は,その時代背景に影響されるところが大きい」ことになり,ここから考えると,「三顧の礼あるなし論争」等に見られる「掘り下げた見方」も,時の要請によるものと考えられる。
先程,「掘り下げた見方」は容易に「穿った見方」になり得るのではないか,と書いたが,『三国志』の分野では容易にそれが起こり得る,いや,起こりやすい。なぜなら,三国志の研究は,資料の少なさから推測に頼る部分が多くあり,その推測の根底にはどうしても現代の感覚の影響があるからである。
ここから総合判断すれば,三国志の研究分野では,研究者や研究者もどきの言うことを頭から信用してはいけないし,逆に,頭から否定してもいけないと言うことになる。頭から否定してはいけない理由は,時の要請に逆らうことも,また時の要請に捕らわれていることの現れであるからだ。
私は,現在の三国志研究者の見方が「穿った見方」になっていないかどうかを恐れている。
しかし,この考えは,世の中にあふれる有形無形の荒唐無稽な三国志もどきを肯定するものではない。現在認められている研究成果が,例え「穿った見方」であったとしても,それにはそれ相応の根拠があり,根も葉もないことではない。根も葉もないことで世の関心を引こうとする燕雀と同列におくのは明らかに誤りである。
結論としてはこうなるか,
「三国志研究においては,過去より現在が絶対に優れているとは言い切れない。よって過去を安易に切り捨てるべきではない」こうやって見てみると,これを書いている私の見方が一番「穿っている」!
(I)例としては,
北宋の司馬光は魏を正統とし,南宋の朱熹は蜀漢を正統とする。
三国志も自由競争の時代がやってきたらしく,三国志の小説や漫画が数多く発表されるようになってきた。「独自の三国志観」が売りになっているのが多い,いや,多すぎるような気もするが,小説や漫画は,研究とは一線を画すものであるから(たまにこの中から真実が見出されることはあるにしても),「面白ければそれでよい」部分があると言えるだろう。そして,その判定を下すのは読者,それはそれで構わない。
だったら,最低限のルールとして,「『解釈』なる言葉を使わない」、「研究方面に対しては口出ししない」位のことがあっても良いのではないかと思う。小説や漫画の宣伝文句である「新解釈」の内容なんて,研究(真実を探求する)という視点から見れば,お話にならない。それに,作者が「読者よりも三国志を知っている」ように物を書くのも気に食わない。
そもそも,作者はどれだけ三国志を知っているのだ?私の見る所,研究者の卵よりも知識の絶対量で劣っているのは確かだ。三国志を題材にした作品で書きたい事ってのは何なのだ?作者に三国志に関する一家言があるから書くわけでしょう?だったら,何も「新解釈」とか言う必要ないじゃない!「作者の(個人的)解釈」で物を書けばいいんじゃないの!それが面白けりゃ売れるし,面白くなかったら売れない。そういう事じゃないの?
何が「新解釈」だ?どこが「新解釈」だ?自分が時代の先端を行っていると誤解してるんじゃないのかね?
ある小説(3年前に出た5巻立ての小説)を例にしよう。作者は「三国志の新たな可能性」を描きたかったらしいのだが,それはひどい物だった。
これがギャグ小説なら救いはあったと思うが,作者が「あとがき」でアジテーションするものだからシャレにならなくなってしまった。読者からはそっぽ向かれ,挙げ句の果てには「三国志本」として紹介されないこととなってしまった。「いくら何でもこんなのは認められない」ということか。
- 小説の構成力に難があった。話を無理やりつなぎ合わせるものだから,「何がどうなってこうなるのか」が全く分からない。
- 三国志時代を生活空間として正確に把握していない。三国志の人物を持ってくればいいと言うものではないのだ。三国志時代の人間だって生活し,政治していると言うことを忘れてはいけないのだ。
- 歴史としての三国志の知識が足りない。三国志時代に限らず,中国の歴史に疎い人間がさも知った風をして三国志を書くのは,「結婚していない結婚相談員」の様なものである。想像で物を書いて,それが真実になるのなら,苦労はないっての!
- 『三国志演義』での赤壁の戦の取り上げ方を例にして,歴史書について云々するのはどういうことだ?『三国志』と『三国志演義』,このすみ分けができていないのに,『三国志』や歴史そのものについて知ったかぶりをする。自分の知識を見直してものを言ってみろというのだ!
別に私は「研究者が偉い」と言いたいのではない。研究者だってある種の先入観に捕らわれている面があると思う。時が進むことによって,考え方が色々変わってくる。こういうのを「進化」だと思っているようだが,果たしてどうか。「時の要請」に捕らわれて真実の探求という視点からずれていないだろうか?
結局の所,最近になって出てくる「新解釈」なんて,時代の色が濃く出たものになっていると思う。つまりは,「現代」という色眼鏡をかけて見たものじゃないか?そのような物が真実に近いと思うことは現代人の傲慢だよ。もう1回基本に立ち返って欲しいものだ。
ともかくも,「驚愕の新解釈」で心の底から驚愕したいよ,ホンマに。
諸葛亮について色々と考えてみると,解釈がこのように変わってきたのかなあと思う。
1.『三国志演義』を本にした人物像
2.『三国志演義』から荒唐無稽と思われる部分を削除(あるいは訂正)した人物像
3.正史『三国志』を基調とした人物像
つまり,三国志の解釈が現実的になってきたと言うことができるし,『三国志演義』の影響を受けない歴史研究をしようと言うことになってきたらしいと言うこともできるか。
『三国志演義』は「七実三虚」とよく言われる。歴史書『三国志』に基礎を置きつつ,民間での講談などを取り入れて面白みを持たせ,それでいて教養層に読むべきものとして認識されるという考えようによってはすさまじい経歴の本である。だが,七割も本当のことがある故に,リアリティがありすぎて,『三国志演義』と『三国志』の記述がごっちゃになってしまうということがある。
今,ここに図書館から借りてきた『諸葛孔明言行録』という本がある。陳寿の『三国志』を基調にしながらも,『資治通鑑』や『三国志演義』を補強要素として書いたと言うことだが,パッと見たところ演義の人物像そのまま。張昭達と舌戦してみたり,周瑜の葬式に列席して大泣きして見せたり。歴史上の諸葛亮の姿を解析するどころか,演義の諸葛亮の紹介になってしまっている。
こういうことが起こるので,最近の研究者には「演義離れ」が顕著に見られる。「演義(すなわち物語)の記述なんてあてにならない」というもっともなことが認識されてきたわけだが,「演義離れ」が極端になると,「演義は嘘っぱちだ」とか「『三国志演義』は本物じゃない」等という論に発展してしまう。これはゆゆしきことではある。『三国志演義』は歴史書としては本物じゃないけれども,物語としては本物なのである。
だから,歴史家が『三国志演義』を嫌うのは分かるが,その価値までも否定するのは考え物だ。これがあるが故に三国志の世界に足を踏み入れてくれる人が多いことも確かで,「三国志演義による先入観は排除してもらいたいけれども,それを否定してはこの世界に足を踏み入れる人がいなくなるしなあ…」というジレンマが見えてきそうである。
さて,結論としては,『三国志』を歴史研究する人の物差しは,ここ100年くらいで確かに変わった。三国志演義を史料として利用する人なんていなくなったからね。しかし,『三国志』を楽しむ人の物差しは,依然として「面白さ」が基調にあるのである。上にも書いたけれども,歴史研究と楽しむのとは大違い,世界が違うと言うことを作る側も読む側も良く認識しなければならないと言うことですな。私は歴史としての『三国志』に傾倒する側なので,小説や漫画などの面白さについても考えてみなければならないということになる。しかし,面白くない作品が多いからそれを見抜く目が必要になると思う。
小説として3流で,歴史解釈として落第で,なんてのは蒙御免。
話題となった扶桑社の歴史教科書問題,『三国志』も無関係というわけには行かなかったようです。といっても,日本史のことしか頭にない人達が,『三国志』そのものを話題にするはずがありません。魏志倭人伝の信憑性について論議が起こっているのであります。
そこで扶桑社の教科書に書かれたこの文言,この歴史書を書いた人は日本に来ていない。…何が言いたいのだろう?中国の歴史書で日本が大々的に取り上げられるとでも思ったのかね?
確かに,『三国志』を全て真実として扱うのは危険が伴うよ,作為が入っていないと言う証明ができないからね。でも,だからどうっだってのよ?日本史の分野から『三国志』を捉えれば確かにそうなるだろうよ。でもね,『三国志』は「魏志倭人伝」だけじゃないでしょうに!『三国志』がいったい何であるか,と言うことを抜きにして色々好き勝手言われると,私としては何か変な気分になる訳よ。『三国志』って西尾幹二が言う程薄っぺらいものだったのかね?
日本史において,日本をどう語ろうが勝手だという意見にはそれなりの説得力がある。でも,外国の書物、文章に対する評価は別だろう?まあ,昔の日本人は外国についてこう考えていたという部分なら史実に基づいて書くことに外国の干渉は要るまい。でも,教科書を書いたヤツ(学者か何か知らんけど)が当時の外国に対して持っている感情によって,当時の外国が日本をどう捉えていたかが左右されるのではたまったものじゃない。それは思想書の部分でやってもらえればいいのであって,教科書がやる事じゃない。
そもそも,魏志倭人伝の信憑性を言うのに,『三国志』の成り立ちにまで遡ってケチを付けることはないだろうに。しかも,日本人が持っている薄っぺらい中国観によって当時の中国を分かった気になって,『三国志』なんてこんなものだと言われたって,信用できる訳無いだろう!魏志倭人伝の信憑性とは別の問題だと思うのですよ,私は。
PHP研究所から出ている「歴史街道」という雑誌がある。この2001年10月号には特集として,「三国志に見る『男の魅力』」というのがあった。
さて,執筆者を見てみよう。…江坂彰、伴野朗、菊池道人、大久保智弘、藤水名子、村山孚、北方謙三。
まあ,まともな研究者は村山氏位やなという感じ。あとは,ほとんどが作家で,1人評論家が混じってると言うところかな。
ということは,この特集は「歴史としての『三国志』を期待して読んではいけないもの」である。おそらく正史と演義が明確に区別されていることはないだろうし,研究の成果と言うよりもイメージとしての三国志世界が展開されるのだろう。そう思ってページをめくった。…予想は大正解。つまり,この特集は,三国志の一般的な認識を以て社会にメッセージを送ろうという類のものだと判断できよう。
さて内容といえば,まあ通り一遍なことしか書いてない。ある意味見飽きた内容である。その中で目にとまったのは,北方氏と村山氏と藤氏の文章。
北方氏の文章(インタビュー)は,北方謙三が好きな三国志の武将ベスト10で,北方三国志の裏にある感情を吐露した感じのものである。呂布好きの北方氏,もちろん1位は呂布である。まあ,北方氏の「思いこみ」を聞くだけのものなので,「ふ〜ん,そうなんだ」位の読み方をしておけばいいんじゃないかと思うね。
村山氏は三国志の脇役に目を向けた文章である。と言っても,脇役の中でも名の知れた人物を取り上げているので,「驚愕の新発見」とはいかない。しかし,つい主役級の人物に目を奪われがちになる中で,ちょっと息抜きによいのではないだろうか。
藤氏の文章は,周瑜と曹植がなぜ女性ファンを多く獲得しているのか,と言うことについて考察したものだが,単なる作家の思いこみなので,学問的価値は全くない。もしかしたら,周瑜や曹植に引かれる女性ファンの多くはこのように思っているのかも知れない。 だったらどうだっての? そう言う読み方するのは自由だけどね,人の一生を勝手に決めつけるのはあまりにも高慢ではないかい?
最後に,今回の雑誌の中で一番面白かった三国志関連の記事は何?と聞かれたら,私は黒鉄ヒロシの『三国志』三原色説だと言う。特集の中の記事よりも,黒鉄氏の短い文章の方が興味を引かれるものだったということだ。「(『三国志』に)無限の楽しみ方が準備されている」とは言い得て妙。この文章だけでこの雑誌を買った価値があったと言うもの。
それにしても,三国志のどこに男の魅力を見るのだろうか?謎は解けない。