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eccetera1

  1. はひふへほ? 20.10.2001
  2. 韻を踏む 24.10.2001
  3. 所変われば…? 19.11.2001
  4. Incompleteという言葉について 14.12.2001
  5. 3人称に対する命令? 09.03.2002
  6. 曜日 21.10.2002
  7. 否定の否定 02.11.2002
  8. 誰が呼んだか今我が名は「ハビエル」 13.04.2004
  9. -ire動詞のミステリー? 22.06.2004

はひふへほ?

 よく料理では「さしすせそ」なんてのが言われます。それぞれが何を指すのか,もちろん分かりますよね? 砂糖、塩、酢、醤油、味噌。
 で,これを応用してイタリアの「はひふへほ」なるものを作ってみました。
  は:パスタ(pasta);これなしにイタリアは語れますまい。イタリアと言えばこれ,これと言えばイタリア。
  ひ:ワイン(vino);ワインは何もフランスだけのものじゃない。イタリアンワインも捨てがたい。
  ふ:フェラーリ(Ferrari);…私だけ?でもtifosoとしてこれは外せない。イタリアと言えばフェラーリでしょ,やっぱ。
  へ:ペペ(pepe-);pepeは胡椒,peperoneはピーマン,そしてpeperoncinoは唐辛子。意外とイタリア料理に欠かせない。
  ほ:トマト(pomodoro);トマトと言えばやっぱイタリアーノでしょう。ナポリタンとか,アラビアータとか。

 …とまあ,独断と偏見により,イタリアの「はひふへほ」を探してみました。他にもいろいろあるとは言え(オリーブ、香草等々),どれもイタリアには欠かせないものだと思うけどね,どうでしょう?

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韻を踏む

 韻(rhyme):音声の諧和美を得るために文中に一定の間隔で同一又は類似の音声を用いること(『広辞苑』)
 まあ,似たような発音の言葉を使って風情を出すと言うことですな。日本語だと母音を合わせることを言うのでしょうね。「楼閣に月昇り,見とれていたら,大角煮吹きこぼれ,後始末が大変だった」なんてのどうでしょう?  …寒かった。
 TWO−MIXの曲にこれが使われていて,風情を感じたのです。“Let's overtake”“Get over fake”,"et","over","ake"が共通、“Dance Revolution”“Chance evolution”,"ance","evolution"が共通で,聞いた感じは当然似ている訳です。こう言うのは聴覚効果として耳に残る訳ですな。
 こういうのがすらすら出てくるような詩人になってみたい。

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所変われば…?

 大学に入って中国語を習い始めたとき,「主語によって動詞が変化しない文法ってなんて楽なんだ!」と思ったものでした。
 でも最近,イタリア語を学習し始めて,「主語によって動詞が変化する文法ってのも楽なもんだ」と思うようになりました。
 だって,中国語で「私は日本人です」って言おうと思えば,「我 是 日本人」と3語になるけど,イタリア語で言えば,「Sono giapponese」と2語で言えちゃうんですよ。
 もちろん,イタリア語は省略があって,省略なしで言えば「Io sono giapponese」と3語になりますが,省略が多くできるってのは楽ですわな。
 そう言えば中国語も省略多いな…。

 そもそも,高校の英語の教師がこんな事を言ってたかな。「英語ほど簡単な言語はない」 …嘘つけっちゅうねん! 英語が簡単というのは主観に過ぎないよ! 他言語の発音をバンバン取り込んで,1つの綴り方で発音が3つも4つもあるなんて言語のどこが簡単ね!
 女性名詞と男性名詞の区別がないってのは,「英語が簡単である」という根拠の1つだけど,そのせいで単語は難解になってるじゃないの!
 英語:息子−son,娘−daughter この2つの単語に共通点あるか?
 イタリア語:息子−figlio,娘−figlia この方が英語より明らかに分かりやすく無いかい?
 ともかく,英語が他の言語より簡単とは言えないと思うのですよ。英語が簡単だと英語の教師が言っても信用しないこと! その人の性に合っても,自分の性に合うとは限らないから。
 でも,世の中に数ある言語が,全て性に合わない人なんていないと思いますよ。少なくとも母語を持ってる限りは。

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Incompleteという言葉について

incomplete[形容詞]:
  1.不完全な、不十分な、不備な、未完成の
  2.【アメフト】(パスが)不成功の(ジーニアス英和辞典より)
 とまあ,いきなり辞書の意味なんて出してみた訳ですが,アメリカンフットボールのパスにおけるincomplete,パス不成功と言ってしまえばそれまでですが,そうなる理由はいくつか考えられます。
 1.Passerのパスが悪い
 2.Receiverのキャッチが悪い
 3.PasserとReceiverの相性が悪い
 …その他,パスを投げる前にPasserへチェックが入るとかReceiverへのマークが激しいとかがありますが,1.〜3.はディフェンスに関係なく起こる事態なのでこれを例に取ります。

 1.はPasserのパスを投げる能力に問題があると言うことですな。Passerに「思ったところにパスを投げる能力」が備わっていればReceiverはキャッチできる訳ですから。
 2.はReceiverのパスをキャッチする能力に問題があると言うことですな。Receiverに「投げられたボールをキャッチする能力」が備わっていればパスは成功となる訳ですから。
 3.はPasserとReceiverにパス投擲能力と捕球能力があったとしても起こり得ることで,どちらか一方の責任とは言い切れない部分があります。大体の場合は世間で高い評価を受けている方には責任が無く,それに合わない方に責任があると結論付けられますが,実際の所,相性の問題は能力ではどうしようもない面がありますから。
 まあ,ですから,アメフトでパス不成功のことをbadでもno goodでもなくincompleteと言うのは,結構当たっているような気がするのです。記録上はPasserの評価に影響するのですが,PasserとReceiverの息が合って初めてパスは成功するものだというのが表されているような気がしませんか?

 さて,このような話をしたのは,本を読む際に,作者(著者)と読者の間にもこのような関係があるのではないかと思うからです。
 作者をPasser,読者をReceiverとすると,作者は本というパスを読者に投げてくる訳で,読者がその内容をきっちりと理解して共感できればComplete,内容が理解できなかったり共感できなかったりすればincompleteという感じになるのではないかと思うのです。
 さて,incompleteとなる理由はアメフトの場合から類推すれば,作品が悪い読者の感性が悪い作品と読者との相性が合わないの3つになるでしょう。
 作品が悪いとすれば,読者には責任がありませんね。読者は内容が分かった上で「こんなの読んでられるか!」と思うのではないでしょうか。
 読者の感性に問題があるとすれば,読者は内容が分からず頭が混乱するのではないかと思います。感性を磨いて内容が分かるようになる必要があります。
 さて,作品と読者とが合わないとすれば,普通の場合どちらかが悪いという結論になるのですが,作品が良くて読者も感性があるのに合わないと言うこともあります。
 その時,作品と読者の相性が合わないと言えるのではないでしょうか。
 つまりは,文学賞を受賞するような作家の本でも合わない人がいることは十分考えられる訳で,このとき,その人の感性は変だと言い切れる人はいるでしょうか? また,いるとしたら,その根拠は? という感じになります。とは言え,その人が,「あの作家は変だよ」とか「あの作家はヘボいよ」とか言い出せばこれまた問題ありですがね。
 要すれば,「自分と感性の違う人の存在を認めましょう」ってことで,パスが通るかどうかは相性次第,相性が合わなきゃ無理読みすることはないと思うんですよ。まあ,教科書とかで無理にでも読まなければならないことはありますがね。
 「本の虫」と呼ばれたことのない(呼ばれたって不思議じゃないはずなんだけど…)私も読んだことのある作家の方が少ないくらいです(世の中にごまんと作家がいれば当然ですかね)。
 最近読んだ江國香織の本は,「そのパスコースに投げたいのは分かるけど,そのパスは私には取れない…」と言う感じでした。このとき,読者には,あきらめる権利もこのパスが取れるようになりたい(この作家の本を分かりたい)と思う権利もあるのです。私?…どうなるかな。

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3人称に対する命令?

 「命令法」とか「命令文」とか言う文法を聞いたことがない人はほとんどいないと思います(英語とかで嫌という程聞いた人もいるかも知れませんね)。
 ちなみに,「命令文」とは,「命令法」を用いて書かれた文のことです。ほぼ全ての動詞には「命令法」という活用法があり,聞き手に対して命令・依頼・勧誘する時には,この活用を用います。
 ところが,英語では,命令法の活用が直説法現在(I)と同じで,しかも,直説法現在の活用は3人称単数を除いて不定詞と同じという簡単な(逆に言えば区別しにくい)語法であるために,「命令法」という動詞の活用法があることも,命令法活用と直説法活用とが厳密には区別されることも気付きにくいのではないでしょうか。
 …とまあ,何とも英語批判的な文章ではありますが,英語以外の言語において,「命令法」を用いて命令を表す言語が存在し,その活用は直説法とは異なる場合があるということが決して珍しくない(そして,そのこと自体は難しくない)と言いたいのです。
 さて,本題。通常命令法には2人称単数・1人称複数(英語にはない)・2人称複数の3形がありますが,イタリア語にはさらに3人称単数・3人称複数の2形があります。
 「三人称に対する命令」というのは何か変な気がしますね。「〜に…させなさい」と言う意味にでもなるのでしょうか? …違います。
 イタリア語では2人称の丁寧形を3人称で表すことになっており(昔は2人称単数の丁寧形を2人称複数とする用法があったようですが),命令法の3人称は「2人称に対する丁寧な言い方」です(ですから,主語は単数Lei、複数Loroしか取りません)。
 ちなみに,(丁寧形ではない)3人称に対する命令は,「〜に…させなさい」という訳が示すとおり,あくまでも3人称への使役を命令しているので,命令法としての動詞の活用は2人称への命令と同じになります(II)。命令法の1人称複数は,英語(Let's 〜)のように自分自身を目的語に取る必要はありません(動詞の目的語に自分自身が来る時は別)(III)
 ですから,英語の命令文を習うと,この辺りの情報が全てごっちゃ混ぜになったままになるので,他言語を見た時に「難しい!」と思ってしまうのではないだろうかと思うので,英語を学んでいる人(特に得意にしている人)は,英語以外のヨーロッパ言語を1つ(本気で)学んでみてはいかがでしょうか? 私は英語が得意ではない方ですが,イタリア語を学び始めてから,英語の構造が以前より理解しやすくなったような気がします。

 さて,日本語には命令法(に当たるもの)があるでしょうか? これは,動詞の活用表を見てみれば一目瞭然なんです。「命令形」というのがありますね。日本語は主語の人称・性・数などによって動詞の活用は変化しませんから,命令形は命令法活用そのものに当たると言ってしまってもよいでしょう。
 ちなみに,日本語には命令を示す表現が多種ありますが,ほぼ全てが動詞の命令形です。「〜してください」や「〜しなさい」も「ください」、「なさい」が命令形(音便)です。ただ,禁止を命令する「〜するな」の「な」は助詞なので異なります。
 …余談となりますが,日本語古典文法の中で,完了の助動詞「り」がどの活用形に接続して使われるかと言うのに2説ありました。1つは「さみしい」でサ行変格活用の未然形と四段活用の已然形,もう1つはサ行変格活用、四段活用の命令形。
 「命令法」というのを考えるまでは,どっちゃでもええやんと考えていましたが,「完了を命令する(〜してしまいなさい)」ことはあっても,「命令を完了する」(「命令してしまった」とは違います)事はあんまりないのではないでしょうか(まあ,「未然を完了する」というのも結構変な話ですが)。このことからすると,「活用の形が同じ」だからどちらでも良いというのは(受験生にとっては楽な話ですが),腑に落ちませんね。一体どういう事なんでしょうね。

 (I)直説法現在:英語で習う「現在形」は,文法的には「直説法現在活用の形」を指します。
 (II)3人称に対する命令例:Fagli portare i bagagli!−彼に荷物を運ばせなさい。←fagli(fa+gli)は2人称に対する命令"fa'"+「彼に」という意味の"gli"が結合したもの。
 (III)1人称複数への命令例:Andiamo!−行きましょう。→英語では"Let's go!"となるが,"Andiamo!"には直接"Let's"に相当する表現がない。

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曜日

 現在私たちが日常用いているのは太陽暦,太陽暦では7日を1週間として計算し,その7日は曜日としてそれぞれ名前が付けられています。“日曜日,月曜日,火曜日,水曜日,木曜日,金曜日,土曜日”ですね。
 しかし,何故このような曜日の呼び方になったのでしょうか? これについて興味深い話が『韓国言語風景』(渡辺吉鎔著,岩波新書No.438,1996/3/21)に載っています。

 一週間を,日本語では月曜日からはじめ,火曜日,水曜日,木曜日,金曜日,土曜日,そして日曜日という。韓国でもまったく同じ漢字をもちいてあらわす。(中略)
 さてこの曜日の名称,実は,宇宙や地上の万物に対して私たちの先人たちが彼らなりに抱いていた哲学と関係が深い。いまふうに言うとコスモロジー(宇宙観)とでもいえようか。それによると,宇宙はそもそも混沌としたカオスの状態であった。そこから明るい「陽の気」が高く昇って「天」となり,暗い「陰の気」が下に降りて「地」となった。いわゆる天地創造(チョンジチャンジョ)の物語である。さらに,この陽の気と陰の気はたがいにまじりあい,万物を生成した。その結果,天界に生まれたのが月,日,星であり,地上にできたのが火,水,木,金,土である。ここまでが,少なくとも六世紀ごろから日本人も韓国人も影響を受けた,中国に源を発する東洋の哲学,すなわち陰陽思想である。この天の月と日,地上の火,水,木,金,土はいわば地球を作りあげているもっとも基本的な要素。とくに火,水,木,金,土は「五気」といって,森羅万象を形成する五つのエレメントとして重要視された。
 月曜日から日曜日までの名前は,まさにこの宇宙への認識を受け継いだ結果,生まれている。そもそもは五行説で「五惑星」,すなわち火星,水星,木星,金星,土星の名前が戦国時代にできあがり,これが七曜の命名に影響し,日韓に伝わっている。韓国では李朝時代に伝来した「時憲歴」のなかに七曜が見られるという(李殷晟『韓国の冊歴』)。
 不可解な自然の移り変わりや人間の存在を説き明かすために,むかし,発達した陰陽哲学。その片鱗が,このように日常の曜日の名に残されているとは,不思議でロマンチックな感じすらする。日本人と韓国人は,近代化の過程で西洋に追従し,自分たちで築きあげたものを気前よく捨ててきたと思うと,なおさら陰陽思想の痕跡は感慨が深い

 …かなり長い引用になりますが,前半の部分で間違っている所は特にありません。私が問題にしたいのは,色を変えた部分です。渡辺氏はここで,西洋の文化に追随して自分たちの文化を捨ててきた日本人と韓国人が用いている暦の中(曜日の名前)に昔の陰陽思想で培われた「七曜」が用いられている事に感慨を覚えているようなのですが,何故「日,月,火,水,木,金,土」の順番になっているのかについては言及がありません。
 私は,曜日の名前は,西洋の概念を「七曜」に当てはめただけのものであると思います。つまりは,西洋の宇宙に対する認識を和訳したに過ぎないものだと言うことです。
 何故そのように言えるのか。日本語(韓国語も含まれることになるようですが)における曜日の名前と西洋の曜日の名前を対比すれば分かります。
 イタリア語では各曜日を"domenica""lunedì""martedì""mercoledì""giovedì""venerdì""sabato"と言います。ここでは月曜日から金曜日までに注目して下さい。"lunedì"はラテン語の"lunae dies"から来たものですが,そのイタリア語上の意味は"giorno della luna(月の日)"です。以下同じように"martedì"は"giorno di Marte(火星の日)"であり,"mercoledì"は"giorno di Mercurio(水星の日)"で,"giovedì"は"giorno di Giove(木星の日)","venerdì"は"giorno di Venere(金星の日)"となります。
 "domenica"(主の日)と"sabato"(安息日)については日本語と直接対応しないところに疑問が残るかも知れません。この点は,英語を見ると理解しやすくなります。
 英語における日曜日と土曜日はそれぞれ,"Sunday""Saturday"ですね。"day"は“日”ですから,"Sunday"は"day of sun(太陽の日)"であり,"Saturday"は"day of Saturn(土星の日)"とすぐに分かります。
 2カ国語を使っているので疑問があるかも知れませんが,西洋の曜日と日本の曜日とは対応することが分かるのではないかと思います。"eccetera"レベルではここまで,これ以上やると「妄想」じゃなくなるから。

 ここまで来て何が言いたいか,「七曜日」は日本人と韓国人が「西洋に追従して自分たちで築きあげたものを気前よく捨ててきた」中において痕跡として残ったものではないと言うことです。
 おそらく,「七曜日」の考え方は近代的なものでしょう。それを日本人と韓国人が取り入れたときに,昔からあった陰陽思想と結びつけて(あるいは対応させて)解釈したことを示すものなのではないかと思います。ここには,日本人(だと私は思います)の柔軟性が現れていると言うことはできても,(事実そうであったとしても)西洋に追従して自分たちの伝統を捨ててきた,ましてや,その痕跡が曜日の名に現れているとは言えないのです。

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否定の否定

 否定疑問文という文型があります。平叙文を否定形にしてさらにそれを疑問文化するもので,「〜ではないのですか」という訳で表されることが多いのですが,これをさらに否定する答えを出すのが結構難しいのです。
 否定疑問の否定ですから,結局は相手の平叙文を肯定する答えを出すことになるのですが,このとき,否定疑問文に対して出す答えはどうなるのかというのが問題となります。
 普通の疑問文と同じく「はい」か「いいえ」で答えるのですが,日本語では前の文がどうであれ,否定するときには「いいえ」と答えれば良いことになります。すなわち,「いいえ」と言う答えは,前の文章を全てひっくるめて否定する意味を持っています。
 ところが,英語やイタリア語では平叙文で考えて肯定するか否定するかで答えを出さなければならないのです。つまり,"Aren't you a student?"(あなたは学生ではないのですか?)と聞かれたとき,学生なら"Yes"で,そうでないなら"No"で答えなければならないのです。このとき,"Yes"は日本語では「いいえ」に,"No"は日本語では「はい」に相当し,日本語とは逆になっています。要点は「動詞部分を肯定するか否定するか」なのです。
 さて,「外国語」として認識されている中国語(普通話)の場合はどうでしょう? 答えは「日本語と同じ」です。否定の答え「不」は前の文章全体を否定してくれます。ですから,「他不知道[口馬]?」(彼は知らないんじゃないの?)と聞かれたとき,彼が知っていれば「,他知道。」と答えることになります。
 ただ,中国語学習の中で,このことは案外軽視されているようです(日本語と同じなので言及するまでもないと思われているのでしょうか?)。否定疑問文が出て来たときに,一度は言及されても良いのではないでしょうか。確かに,辞書で「不」を引けば否定疑問文の答えが例文として出て来ますが,それだけでは不十分でしょう。

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誰が呼んだか今我が名は「ハビエル」

 小学校の歴史の教科書,中学校の歴史の教科書,高校の日本史、世界史の教科書に必ず出てくると言って過言でない,「1549年にキリスト教を日本に持ち込んだ人」と言えば,フランシスコ・ザビエルで問題ない…ですよね? 教科書によっては,Xavierのスペルを見て「シャヴィエル」と書いてくれているものもあります。
 しかし,スペイン語でXavierの現在の形Javier,およその発音は「ハビエル」です。jaはのどの奥から出すハ行,viは唇を噛まない(biと同じ両唇閉鎖音)バ行となります。
 "x"の話に行きましょう。現在のスペイン語での"x"は“ス、クス”の音を表しますが,まれに"j"と同じ発音を表すことがあります。Méxicoという単語(英語ではMexico)があります。これを単純に現在のスペイン語の発音法則に当てはめると「メクシコ」となります。しかし,これは「メヒコ[mexiko]」と発音されます。確かに,Méxicoの現在の形としてMéjicoと言うのがありますが,Méxicoが主流です。これはMéxicoのできた時期に起因するもの,つまり,Méxicoが固有名詞として有名になり過ぎたため,Méjicoが流布し損ねたと考えるのが妥当でしょう。
 ところが,スペイン語辞書でMéxicoを引き,説明を見ると,古スペイン語の発音記号は[me∫iko]「メシコ」([∫i]は日本語の「シ」とほぼ同じ)となっています。と言うことは,古スペイン語から現在のスペイン語への過程で,[∫]が[x](のどの奥から出すハ行)に変わったとすれば,Xavierのxaは[∫a]と考えられ,「シャ」と発音されるでしょう。
 そして,viは現在のスペイン語ではbiと同じですが,スペイン語以外では有声唇歯摩擦音となっていることを考えれば,「ヴィ」とカタカナ表記するのも問題ないと言えるでしょう。
 以上のことから,Xavierは現在のスペイン語でこそ「ハビエル」ですが,当時は「シャヴィエル」に近い発音で呼ばれていたと考えることができます(私は,逆に当時「ハビエル」と呼ばれていた可能性は低いと考えます)。
 蛇足となりますが,…じゃあ,「ザビエル」ってのは一体どこから出てきたんだ? 歴史のテストで「フランシスコ・ハビエル」と書いたらどうなるんだ?

 ちなみに,イタリア語では,XavierはSaverio,MéxicoはMessicoとなります。SaverioやMessicoができた時期にもよりますが,Xavierが当時どう呼ばれていたかの手がかりになるでしょう。
 まあ,私たちが「ザビエル」と呼ぶ人が,今母国スペインでは「ハビエル」と呼ばれる。これは「言語は変化して行くものである」ということを如実に表していると言えるでしょう。
 …あなたの覚えた人名,今その読み方で通じますか?

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-ire動詞のミステリー?

 イタリア語の動詞には-are動詞,-ere動詞,-ire動詞の3つがあり,さらにその中でも-ire動詞には直説法現在形が-o,-i,-e,-iamo,-ite,-onoと活用するもの(普通型と呼ばれることが多いです)と-isco,-isci,-isce,-iamo,-ite,-isconoと活用するもの(イスコ型と呼ばれることが多いです)に分けられます。
 で,-are動詞や-ere動詞の直説法現在活用形が-o,-i,-a,-iamo,-ate,-ano(-are動詞)や-o,-i,-e,-iamo,-ete,-ono(-ere動詞)となることから,後者(イスコ型と呼ばれるもの)が-iscを加える特殊なものと考えがちです。

 しかし,本当にそうなのかという疑問が湧き上がってきたのです。まずは-ire動詞の現在形に関する以下の英語文を見て下さい。

Note that for verbs ending in -ire there are two possibilities. One group of verbs adds -isc- before the verb ending in the first, second, and third person singular, and in the third person plural. A smaller group of -ire verbs does not do this: they include avvertire, bollire, cucire, divertire, dormire, fuggire, partire, seguire, sentire, servire, soffrire, and vestire.
(The Oxford Italian-Grammar and Verbs:Oxford University Press 2002)

 簡単に訳すと,「-ire動詞の語尾には2つの可能性(型ですね)がある。1つのグループは1人称,2人称,3人称単数と3人称複数の語尾の前に-isc-を加える。(もう1つの)小さいグループの-ire動詞はこれをしない。それ(-isc-を加えない-ire動詞)にはavvertire,bollire,cucire,…,servire,soffrire,vestireが含まれる」となります。
 この文では,-isc-を加えない動詞(普通型)を"smaller group"としています。…と言うことは,-ire動詞はイスコ型活用の方が多く,私たちが普通型と呼んでいる方が少ないってことですか?
 まあ,それはそれで構わないんですが,今のイタリア語の教え方からすると,-ire動詞は-o,-i,-e,-iamo,-ite,-onoと活用するのが普通で,イスコ型は特殊で数が少ないものだと考えてしまう人が多いのではないかと思うのです。
 …こうなったら,全数検索でもして,どっちが多いか検証してみますか?

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