「三国志」の迷宮  儒教への反抗 有徳の仮面  山口久和著/20.06.1999/文春新書

 ひとまず見て,「誰これ?」と思われる方が多いのではないだろうか。筆者が三国志関連で書物を出すのはおそらくこれが始めてであろう。
 もともとこの人物は明清思想史が本専攻で,『章学誠の知識論』といった著書がある。その筆者が何故三国志研究に手を染めたのかは定かではない。しかし,三国志関係で中国をジープで旅したことを自慢にしている人物だから,三国志歴が短いと言うことでもないようだ。

 さて,一読してすぐに分かることがある。「とりあえず難しい」のだ。普通の三国志関係の書物は初心者に分かりやすいことを念頭に置いているが,この書物にはそのような要素は全然見受けられない。時代背景の説明にしたって,全然くだけていない。読み解くことが必要になるし,予備知識は大量に必要。それもそのはずで,この本は「三国志の研究書」という名目があるものの,その目標は「『三国志』を切り口に,中国思想史の一端を具体的に表示する」ことにある。だから,『三国志』を説明するのは,手段であって目的ではない。でも,我ら読者としては,「三国志」の迷宮というタイトルがある以上,三国志に関する見解を見ることに重点を置いてしまうのではないか?
 さて,この本を読むには少なくとも三国志の基礎は押さえておかなければならない。曹操・劉備・関羽・張飛はもちろん,陳寿・裴松之・羅貫中,それくらいは知っておかなければ読んでもチンプンカンプンになりかねないので忠告申し上げる。
 また,三国志やその時代を説明するのに引いてくる資料の種類に,筆者ならではの感性があると思う。引用文章は明清思想史関連の書物からガンガン引いてくるのだ。「清朝の地理学者顧祖禹」とか,「清初の思想家黄宗羲」など,およそ『三国志』だけを追うマニアにとって,見たことも聞いたこともないような本や人の発言を取りそろえられては,反論のしようがない。何せ私ら知らんのだから。
 この本は4章立てになっている。
    1.名教と偽善
    2.三国志のゲオポリティーク
    3.誠実のマキャベリズム
    4.ミネルヴァの梟
 タイトルだけでも訳が分からないが,読んでみると余計訳分からなくなること請け合い。ちなみに,ゲオポリティーク(Geopolitik)とは,ドイツ語のようであるが,「地政学」のことである(英語ではgeopolitics)。つまり,三国志において,地理がどのように群雄のパワーバランスや政治に影響したかと言うことを解析しようとしたものである。いわゆる「天下三分の計」がいかにして起こったかや,諸葛亮の北伐に込められた意味などを解析しているのである。
 「誠実のマキャベリズム」は,筆者が諸葛亮の政治思想について使う言葉である。マキャベリズム(Machiavellism)は「権謀術数主義」と訳され,「情に流されて国を滅ぼすのは最大の悪である」という考えがある。ここでは,諸葛亮についてじっくりと考察を加えている。
 ミネルヴァ(Minerva)はギリシアではアテナ(Athena)に相当し,知恵を司る面がある。つまり,ここでは,『三国志』時代の思想やそれによる実際の政治への影響,果ては後世の正閏論についても解析している。
 全体的に見て思うのは,「まさに研究者の研究書」ということである。飾りやてらいを徹底的に排除して,必要な部分だけを残した,それでいて内容は論理崩壊を起こさずに,説得力を保っている。この構成力は「さすが研究者」である。
 しかし,研究者なりの弱点もある。「とにかく難解」なのである。「見事『三国志』の迷宮をくぐり抜け,読者が中国文化の広大な森に入っていかれることになれば幸いである」と筆者は書いているが,「三国志」の迷宮,この本がすでに迷宮である。「三国志」の迷宮をくぐり抜ける前に,「三国志の迷宮」という迷宮をくぐり抜けなければならなくなってしまっている!
 迷宮ガイドが迷宮だとは,これは読者に大きな知識と理解力を要求したものである。とかく研究者は「自分が知っていることを放出するのは良いけれども,1からは言ってくれないから初心者には付いていきにくい」ものである。三国志のみならず,中国思想に造詣の深い読者ならば,この本を筆者の意図通りに読破できるのだろうが,私には無理である。引用文の出自や説明に出てくる人についてどうしても分からない。

 評価:15点;定価で買う価値は十分,でも難解。まあ,迷宮を抜け出した暁には,この本がいかに安い本であるかが分かることでしょう。

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