日本語と韓国語   大野敏明著/20.03.2002/文春新書

ハングルのことは「韓国語」と言うべき?「朝鮮語」と言うべき? それとも? …どう言ったらいいのか分からないけど,この書評の中では著者が使っている「韓国語」で統一することにします。

 「日本語は孤立した言語と言われているが,日本語と韓国語には似たようなニュアンスや言い回しが驚くほど多い。日本語は決して孤立した言語ではない」というのが基本コンセプトのように感じられる本ですね。

 本の中には,日本語と韓国語の類似する点,共通点,相違点などが挙げられ,日本語と韓国語が語彙の点から非常に近いと言うことが述べられています。
 しかし,それはあくまで語彙の点であって,発音の点で似ているとか言うことは述べられていないわけですな。そうなると,長い歴史の中で文化交流があったから語彙が似てきたと言うことは十分考えられるわけで,基となる言語が同じかどうかは全く問題外のこととなるのです。

 私はこの本を読んでも「日本語は孤立した言語である」という事を否定する気には全くなれません。いや,確かに「孤立した言語」ではないかも知れませんが,「韓国語が兄弟言語である」と言うことにはこれを読んだ限りでは全く賛成できないですね。

 こじつけたような言い方が結構多いんですよね。「藤原鎌足」の「鎌」も「足」も韓国語起源になると著者は言っていますが,根底に「どうしても韓国語と結びつけてしまいたくなる」というのがあるようです。それならなぜ「韓国語を勉強することで鎌足の足元を見ることができる」とまで言えるのでしょう?
 私は,著者が日本語と韓国語を無理矢理にでも結びつけて兄弟にしてしまおうと思っているように見えてなりません。

 私は,日本語と韓国語とは似ていない言語だと思っています。日本語の発音から韓国語を類推できない(逆もまた然り)からです。同じような言葉の使い方をしているからと言って言語が似ている(源が同じ)と言ってしまってはお話にならないと思っているからでもありますが,フランス語、イタリア語、スペイン語のロマンス3兄弟を見たせいかもしれません。
 と言うのも,私はフランス語で1〜100を言うことができないのに,フランス語の1〜100の粒読みをイタリア語から類推して聞き取ることができるからです(あ,スペイン語の1〜100も大体聞き取る自信はありますよ)。これは,兄弟言語だからできることではないでしょうか? 中国語を知らない時には1〜100の中国語を聞き取ることができませんでしたし,現在知らない韓国語の1〜100は見当もつきません。
 私は「文化と言語は別物」と言う立場から,「文化的に兄弟だから言語的にも兄弟だろう」というのはナンセンスだと思っていますし,それを前提条件にして似たもの探しをするなんてのは論外でしょう。
 また,他言語から取り入れた語を言語学の比較対照にするのも奇妙な話です。源となる言語が似ていない限り,この操作は混乱を招く結果となるのが明らかだからです。

 この本には「日本語はリエゾンがない言語と言われていますが,どっこいそうでもありません。結構身近にリエゾンがあります」と書かれていますが,こんな事言われると,私は目玉が飛び出るほど驚きますね。リエゾンという発音規則はZGで紹介しているように「通常(単独で発音した時、後の語が子音で始まる時)発音されない語尾子音が後の語の語頭母音と結びついて発音される」現象のことで,日本語には発音されない子音が存在しないのでリエゾンはあり得ません。
 この本で著者がリエゾンと勘違いしているのは「アンシェヌマン」と呼ばれるものです。アンシェヌマンは「通常で発音される語尾子音が後の語の語頭母音と結びついて発音される」現象のことで,例えば,"J'habite au Japon."は粒読みにすると“ジャビトゥ オー ジャポン”となりますが,実際には"(J'habi)te"と"au"がアンシェヌマンして一気に発音され,“ジャビトー ジャポン”と発音されます。

 まあ,著者が指摘するように,日本語にアンシェヌマン的なものは結構あるのです。ただ,単語間にまたがらないものが多いので,これを「アンシェヌマン」と呼んで良いのかどうか疑問が残ります。
 例えば,観音は「観(kan)」+「音(on)」→「観音(kannon)」(前の単語の"n"を残すのが日本語流でしょうか?)となっていますが,これは単語内での変化です。ここにさらに母音で始まる語を足しても,観音の最後の"n"と次の語の語頭母音が結びつくことはまずないですね。つまり,日本語では単語間のアンシェヌマンはまず起こらないのです。となると,日本語はアンシェヌマンするとは言えず,著者が言う所の「日本語がリエゾンする」とは言いすぎだと思います。
 さらに言えば,世にある言語は結構アンシェヌマンするわけで(英語で苦労したことのある人も結構いるのでは?),もし日本語がアンシェヌマンするとしても,アンシェヌマンを以て日本語と韓国語が似ているというのはナンセンスでしょう。

 ちなみに私は,「日本語と韓国語が兄弟であっては困る」とはこれっぽっちも思っていません。ただ,「何が何でも兄弟」にしようとするような(そう取られかねない)書き方に疑問を持っているのです。確かに,日本と韓国の文化は似ています。兄弟と言っても差し支えないでしょう。ただね…,やりすぎでしょう,ここまで来ると。

 以上,言語面だけを攻めてみましたが,この本に唯一価値があるとすれば,日本語と韓国語とを対照させてある部分が多いことと,雑学がそこら中にちりばめてあることでしょう。でも…,「だったらこんな題名付けるなよな」と言う感じがします。「ここまで似てる! 日本と韓国」とでもしてみたらいいんじゃないでしょうかね!
 参考文献を見たら…,ああ,言語学の本あまり無いじゃないですか! …題名の割には本の価値…推して知るべし。

評価:7点;結局何なのかよく分からない本。「古本屋に行ったときに安かったら…」と言いたい。
 趣旨がはずれている本だと思う。少なくとも「日本語と韓国語」という題名に見合った内容ではない。話の脱線が多く,雑学の本として受け入れるのが筋であろう。となれば,題名がおかしいと言うことになる。その堂々巡りを繰り返すと,評価を下げざるを得ない。
 文章の書き方にもかなりの疑問がある。何か含みがあるように感じられるのである。
 「日本語と韓国語(引いては日本と韓国)には似たようなところがこんなにもありますよ」と言いたかったのだろう,と思う。
 ま,こういう本が1冊位あっても良いのかな,とも思うけどね。
(2+2+2+1=7)

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