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雑論TOP/雑論8/Eric ProstのTRPG論

  1. 8.15という日付よりも気になること 17.08.2006
  2. 真実…とは? 10.09.2006
  3. 傲慢な人に「傲慢」と言われる 06.11.2006−26.11.2006修正
  4. 昭和の日 30.04.2007

8.15という日付よりも気になること

 2006年8月15日,内閣総理大臣小泉純一郎が靖国神社に参拝しました。
 ここ数日の小泉談話を聞いていれば予測できたことで,昼に日本武道館にいなければならない(政府主催の慰霊祭)ことを考えれば,早朝(7時40分頃)の参拝も驚くようなことではありません(夕方や夜ならサプライズになるでしょうが)。よって,私は今回の参拝を「サプライズ」とは考えていないのです。
 さて,参拝後に記者団のインタビューに応じた小泉ですが,その発言を聞くに,やはりこの人は「他人の話を聞かない人」であります,自分勝手にしゃべり続けただけでした。

 中国(中華人民共和国:以下同じ)や韓国が政府首脳の靖国神社参拝(「首相による靖国神社参拝」を含めて以下「靖国神社参拝」)に文句を言っていることを批判していましたが,結局のところ,中国や韓国の意見は聞いていられないと言っただけです。
 さらに,中国が靖国神社参拝を理由に首脳会談を拒否していることについて,「1つ2つの意見の違いをもって拒否するのはよろしくない」と言っていますが,中国政府にとってはこの1つ2つの違いが大きいものであるということを考えていないのでしょうか。日中間には1つ2つしか意見の違いがないのではなく,意見の違いは多々あるのです。その中で違いが最も大きいものの1つが靖国神社参拝問題で,首脳会談拒否の原因とされているです。
 そう言えば「中国や韓国が反対するからと言って参拝を止めれば,外圧に屈することになるので,中国や韓国が反対すればするほど,その言葉に反抗するかの如く参拝を続けざるを得ない」とかいう意見があったように思われますが,これも,自分と異なる意見を排除するための方便にすぎません。この意見で述べられている「外圧」は,外国(政府)と意見が相違するときにしか現れません。後押ししてくれる力も「外圧」の一種なのですが,それは「外圧」とは呼ばれず「〜国も賛成」という言葉にすり替えられます。力の方向性によって力の呼び方が変わるというだけのことです。

 「8月15日を避けて参拝しても,やっぱり批判される。いつ参拝しても同じだから,8月15日が適切な日」という主張は,靖国神社参拝そのものを批判する勢力と,8月15日に靖国神社に参拝することを批判する勢力とを(おそらくは意図的に)混同していることを示しています。
 靖国神社参拝そのものを批判する人は,いつ参拝しようと批判する,これはその通りです。靖国神社に参拝すること自体を批判するのですから,時期などは最初から考慮の対象とされていないのです。
 8月15日を批判する勢力には,参拝そのものには反対しておらず,外交上の配慮等から8月15日を避けて欲しいという人もいるのですが,この人たちの意見も小泉の耳には届かないのです。

 A級戦犯が合祀されていることについて,「A級戦犯のために行っているのではなく,多くの戦没者のために行っているのである」と言いますが,靖国神社の主張によれば,祀られている神体はA級戦犯であろうと戦没者であろうと,全て一体となっているのではなかったかと思います。だとすると,「A級戦犯のためではない」という論理は小泉の心の中でしか通用しないもので,言葉面の辻褄合わせでしかないと言うことになります。
 また,心の問題にしてしまったことによって,形式上の問題を処理できなくなっています。このことからも,小泉は言葉遊びを続けていただけなのが分かります。小泉の説明は全て「場当たり的」なもので,小泉にとっては,思想や行動が先にあり,理由付けが後に来ているのではないかと思います。
 さて,なぜA級戦犯が問題となるかと言うことについて,小泉は言及していません(A級戦犯が問題となっていることには言及した)。しかし,中国政府の考え方からすると,A級戦犯に戦争責任をかぶせている以上,(中国政府から見て)彼らを称揚する言動を容認することはできないということも理解しておくべきでしょう。

 「憲法違反と言う声がありますが,私は伊勢神宮にも参拝している。それを憲法違反という声はない」という小泉の反論は,靖国参拝憲法違反論に対する反論として一理あるように思われています。「首相による靖国神社参拝」を憲法違反と主張するなら,「首相による伊勢神宮参拝」も憲法違反でなければおかしいという反論は当然出てくるものです。しかし,「靖国神社参拝は憲法違反」論者はこの点についても一応の見解を出しているようです。それを踏まえた見解を出さなければ,反論にはならないでしょう。

 小泉は憲法19条と20条を持ち出しましたが,これは,宗教を押しつけようとする人がよく使う手なのです。「思想・信条の自由」と「信教の自由」は,本来思想・信条や信教に関してpower(「権力」などの訳が当てはまりますが,あえて訳さない)をかけられる側が主張するべきことであって,powerをかける側がこの言葉を使うとき,憲法19条と20条は容易に抑圧の手段となります。
 小泉自身は「首相が参拝する」ことの重要性を全く考慮に入れていないので,ある意味政治家として失格です。自らがpowerを行使する側であるということに対して,首相という身分が構成するpowerの一般的な同意に対して,余りにも無自覚です。これは「個人の問題」として片付けようとした全ての人に当てはまることでもありますが。

 それにしても気になるのは,小泉は「公約を守る」と言うことで8月15日の靖国神社参拝を実行したわけですが,以前「(国債発行30兆という)約束を守らなかったことは,(改革という大きな目的の前では)大したことではない」と言ってのけた人の発言とは思えませぬ。やっぱり,小泉のやっていることは,単なる言葉遊びなのです。自分に都合の良いものだけを選び取って主張を練り上げているのです(まあ,これとて小泉に限ったことではないのですが)。

 さらに,「靖国神社参拝批判は3つにまとめられる」と分析していますが,これ自体小泉自身の勝手な解釈であることにどれくらいの人が気付いているのでしょうか。マスコミもこの「3つの反論」を垂れ流しにしましたが,そもそも,靖国神社参拝批判論を3つの側面にまとめることが,この問題を解析するのに有効なものであるかどうかさえ検討されていないのではないでしょうか。一部マスコミ人は小泉の「マスコミは批判ばかりしている」という言葉に反応したようですが,マスコミが「権力批判」を謳うのなら,このような小泉の解釈の形式面(この上で論議が行われる限り,それが小泉によるものにすぎないことを理解するべき)に関しても批判を加えるべきで,内容だけを批判するべきではありません。「小泉」が靖国神社参拝批判論を3つの側面からまとめ上げること自体に大きなpowerが存在し,この問題の解析の方向性すら決めていることにマスコミは気付いているのでしょうか?

 私自身の観点からすると,小泉の反論には5つの側面があり,基本的には全て二項対立の図式を用いています。二項対立にすることにより「敵か味方か」という単純な構造ができ,答えが簡単に出てくると言うわけです。…これってただの個人的な好き嫌いじゃないですか。

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真実…とは?

この文章は作成時に文体が「だ・である」調だったので,他の雑論の文体とは異なる点がありますがご了承の程を。

 「真実は,いつも1つ」という名文句(?)がある。確かに,(定義によっては)真実は1つかも知れない。だが,もしそうだとしても,我々の元に届く「真実」は1つではない。ここを取り違えると,容易に論理の罠にはまることになる。
 それはどういうことか,例え真実が1つであったとしても,それを説明するときには,説明する人の主観が入る。主観が入ると,真実はその人の色に多少であっても染められる。それ故に我々はただ1つの真実には巡り会えない。少なくとも我々は真実を括弧付きでしか受け取ることはできないのである。

 いや,それどころか,我々は,その伝えられる「真実」を自分色に染めて受け取っている,あるいは,自分色に染めて受け取ることしかできない。つまり,送信する側も受信する側も伝達の対象となる情報を自分色に染めてしまうのである。

 こうなると,スチュアート・ホールの「エンコーディング・デコーディング」に通じるものがあるかと思われる。ホールの理論はメディアを念頭に置いたものであるが,私がこれに影響されていると考えてもらえれば分かりやすくなるか。

 ここから何が言えるか,「真実が1つ」と言ってみたところで,現実には,それを表現するのに何通りもの言葉遣いがあることになる(「言語の違い」を無視するとしても)。そして,「ただ1つの真実」として認められるのは,その中で最も社会的同意を得られるものでしかない。その時,他のものは「真実」ではなくなってしまう(あるいは「歪曲された真実」とされる)のであるが。
 さらに悪いことに,「ただ1つの真実」につながるただ1つの道が「真理」と呼ばれ,「ただ1つの真実」に結び付く行動は全て同じ方向性を持つという考えにつながってしまう。

 真実や「真理」に同一性を求めるのは,かなり危険であると私には思える。「同一性への思考」は容易に「狂気の排除」を生み出す。狂気の排除とは,「同一性への思考」に適合しない要素を全て「狂気」として排除されるべきものとし,その要素を排除することによって同一性を保障しようとすることである。

 「同一性への思考」は「ただ1つの真実」にとっては非常に有益であるが,真実にとっては有害である。先にも述べているように,真実は何通りにも表現され得るものなので同一性を持たない。同一性を持つのは括弧付きの真実であり,それに結び付く「真理」である。
 真実は同一性を持たないが故に何通りもの解釈で説明されるが,それらはどれも括弧付きである。また,我々もその説明を解釈する際に我々の色に染めることになるので,我々が手に入れる「真実」は真実ではない。あくまでも我々の直面している真実は括弧付きであることを理解しておかないと,他人の解釈を「狂気」として排除する事態が発生してしまう。

 世の中のあらゆる「真実」は,所詮説明する者,解釈する者によって何通りにも解釈されると言うことである。意味するところのものが同じであっても,解釈は異なってくる原因はここにある。
 ただし,ここで言う「解釈の異なり」には,「真実」の中に織り込まれる虚偽は含まれない。この解釈も「真実」であるという建前の下に,真実から得たのではない情報を織り込み,「真実」を巧みに虚偽あるものに作り替える技法が存在する。そして,我々はそれをよく目にしている。「メディア・リテラシー」に代表される「リテラシー」では,こういった虚偽を見抜くことも視野に入れなければならないが,それはまた別の問題である。

「狂気」について特に説明しなかったが,「狂気」とは「正常」、「普通」等の逆であり,社会を管理する上では邪魔になるものである。故に,為政者(支配する側)にとって,「狂気」(を持つ者)は排除の対象となる。そして,為政者でなくても,管理する立場のとき,管理者にとってそれは排除の対象となるのである。

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傲慢な人に「傲慢」と言われる

この文章も作成時に文体が「だ・である」調だったので,他の雑論の文体とは異なる点がありますがご了承の程を。

 ある事柄を述べるのに「〜である」と述べるのと「私は〜であると思う」と述べる(あと「〜ではないか」と述べることもあるが,ここでは省略する)のとの間に,実は大した差はない
 なぜなら,人間が述べることは,当人がそうだと思っていることを述べるものである以上,「いかに客観的なこと」であろうと「主観的」の域を出ることはできないのであり,「客観的」とは「自分の主観をできる限り取り除いた」指標として評価されるものでしかないからである。そして「客観的」かどうかは,表現の差によって出てくるのではなく,内容によって評価されるべきものであることは言うまでもあるまい。

 つまり,上記の2つの間にある差は,述べる側の自信の度合いの差に過ぎず,「思い込み」と「客観的事実」を分けているのではないのだ。

 そもそもこういう事を書く理由となったエピソードがある。
 あるweblogで,記事の内容について「〜は間違いです」とコメントした*1ところ,個人的感想レベルで断言できるものかは甚だ疑問と思っております」と返され,そこで「論理が通らないから間違い」と述べると,一個人レベルでの「論理」で、論理が通らないから「間違い」というのは、大変傲慢なことだと思います」と返ってきた*2
 …さて,「甚だ疑問」で「大変傲慢」なのはどちらだろうかと「甚だ疑問」に感じたのである。
 管理者は「ちなみに、これは私の個人的な表現であり、断定するものではありません」とか「〜と思う」とかいう表現を多用する。しかし,先に述べたように,「断定する」とか「〜と思う」とか言う表現上の違いは,内容に影響するものではないのである。
 それを理解しないと,「〜である」と述べたものを「傲慢」と評しながら,「個人的見解」の下に「傲慢」な物言いをすることになる。

 蛇足だが「私は〜と思う」と述べることは自由で,それを否定・批判するのは「思想・信条の自由」や「表現の自由」に反すると思う向きがあるかも知れないが,問題があるのは「述べる行為」を否定・批判することであり,「述べた内容」を否定・批判する限り問題はない。内容を否定・批判するのであれば,「〜である」と断定的に述べたところで,その行為を批判される筋合いはない。
 要は断定的に述べようとどうしようと,その内容を問題にしなければならないのであって,「言い方」(これにも幾つもの意味があると思うが,ここで問題にしているのは「〜である」とするか「私は〜と思う」とするか)を,しかも結局のところ内容に差があるわけでもないものを問題にするのは,それこそ「重要な問題」ではないのである*3

 だから,「〜である」と述べたのに対して「個人的感想レベルで断言できるものかは甚だ疑問と思っております」などと言うのは,的外れも甚だしい。「〜と思う」と言ったところで,表現上断言しているように見えないだけである。「個人的感想レベルで断言できるものかは甚だ疑問」などと言うと,あらゆる議論が意味をなさなくなる(もし「社会的にコンセンサスを受けているものなら断言できる」と反論するのならば,「受けているかどうかの判断も主観の産物でしかない」と返しておこう)。
 所詮は「主観的」の呪縛から逃れることはできないのである。「客観性」を求める努力を怠るのは不誠実であるが,自分が「客観的」になれると思うのは,それこそ傲慢でしかない。
 だから,「主観的」だとかそれに類する表現は,本来自分の言動について謙遜の意味合いで用いるものであって,他人の言動に対してそう言うのはそれこそ「傲慢」である。そしてそのような「傲慢」が許されるのは,明らかに上下関係のあるときに限られる(その妥当性はともかく)。
 私とこのweblogの管理者との間には当然そのような上下関係はない。だから私は管理者に対して「主観的である」と言ったことはない。やはりそのように言うのは失礼に当たるからだ。
 しかし,この管理者は私の発言を「個人的感想レベル」とか「一個人レベル」と臆面もなく言ってのけた。ならば言わせてもらおう,「個人的感想レベル」とか「一個人レベル」と判断するその行為こそが「主観的」なものであり,私のことを「傲慢」と言ったこの管理者こそ傲慢である。

 なおも食い下がった私に,管理者は「理解できない人に無理に理解してもらおうとは思わないので、ご自由にご解釈ください」と捨て台詞を書いた。これは面白い。
 結局のところ「原始的」な「ことば」を用いてしかコミュニケーションが取れないくせに,さらに自分が「ことば」の意味を相手に伝えようとする努力を怠ったくせに,この捨て台詞である。「ことば」というものを理解しているとは到底思えない。
 下でも述べるが,私はこの管理者が「ことば」の機能について十分理解していると思い込んでいた。しかし,このweblog本文やコメントを見ている限り,この管理者が「ことば」というものについて全く理解していないことが分かってきた。結局私は,「気の利いた」言語学の基本書に書いてあるようなことすら理解していない(くせに「ことば」を分かった気になっている)「原始的」な人を相手に論争しようとしていたのである。これでは私の方が愚かである,話にならない。

 笑わせてもらったのは,横槍(管理者以外のコメントにコメントする人のことを私はこう呼ぶ)が「(管理者が)怒っているのは、「ただ一つ」の論理展開で矛盾があるからと言って、「それは間違いだ」と断定することに対して」であり,しかもそれが「記事の重要な点」ではないからだと言ったのに対して管理者が「はい、そのとおりでございます。もう、何も言うことはございません」(改行省略)としたことである。
 言っておくが,重要であろうがなかろうが間違いは間違いなのだ。しかも,「ただ1つ」でも論理展開に矛盾があれば,その論理展開は命題として意味をなさない(私はそれを「間違い」と言った)のである。横槍は管理者が怒った理由を十分説明できたかも知れない。しかし,それを了とした管理者は,結局自分の言いたいことを説明することができず,単に己が感情的になっていることしか示せなかったのである。

 ちなみに私が批判したのは

  1. 管理者が「ことば」が持つ機能をランガージュのレベルにおいて否定しておきながら,それに変わる伝達手段の機能は結局ランガージュの焼き直しでしかないこと
  2. 「誤解」が生まれないように「ことば」の意味を徹底的に確認しなければならないのに,「テレパシーやインスピレーション」によるコミュニケーションでは「誤解」が生まれずに「変幻自在」になるとしていること。それは,意味が変幻自在になるのではなく,伝達の回路が複雑になると言うことでしかなく,意味の部分では(「誤解」が生まれないのだから)画一的なものになってしまう。ところが管理者は「定義づけ」が「狭義な意味」を生み「つまらない」と言い,「変幻自在になればいい」としている。つまり,意味が変幻自在になり,「誤解」が生まれないと言っているのである。これは「論理矛盾」か「個人の画一化」*4であり,いずれにしても容認できないものであること

であるが,weblog本文のその他の部分もひどくて読むに耐えないものであった。
 挙げ句の果て,「テレパシー」を「本当は私たちにもそういう能力が備わっていたりするのだろうと思っています」と言い,「能力を発揮することができる」のは「制限だとか、規制だとか、そういう枠組みからはずれて、宇宙エネルギーと同化することができたとき」だと言う。ここまでくるともはや救いがたい。
 以前の「選択」や「真理」などもそうだが,存在しないものに仮託するのなら,想定可能な説明を付すべきである。メルヘン共同体を作って楽しんでいる姿は見るに堪えない。

(附記)
 本文で述べた「横槍」は私の発言を明らかに取り違えている。私が嫌いと言ったのは「ある物事には理想型が存在し,その理想型とどのくらい近いか遠いかということを議論する」ことであって,「理想型の存在を議論すること」ではない。「理想型」が既存のものとして扱われていることを嫌っているのである。
さらに,私の発言を「論理的な流れになっていない」と言っているが,例えそうだとしても,それは「管理者の発言が論理的な流れに則していること」を保証しない。私の発言を整理している(かも知れない)が,私の指摘には答えていない。
そして「誤解の生じるコミュニケーションとは「ユーモア」のことでしょうか」と言っているが,何が根拠となって「ユーモア」に限られてしまうのだろうか,疑問である。
まあ,私の「「誤解」の生じないコミュニケーションこそつまらなく,面白くもないもの」という発言を「コミュニケーションに「誤解」が生じるから面白い」と解釈した「論理学のいろはも理解できない管理者」の問題点に目を向けようとせず,その保護に終始するような人だから,メルヘン共同体と言われることに異論はあるまい。
 私の姉に当たる人物はこの管理者のことを「独善的」と言った。言い得て妙である。ちなみに,「メルヘン共同体」の出自もこの方である。
 本来はweblogにトラックバックなどするべきなのかも知れないが,管理者に捨て台詞を吐かれた以上,こちらとしても管理者に届くようにメッセージを発する気などない。また,自分の記事として挙げて,当てつけるのも手ではあるが,それも面倒である。さらに,この管理者の発言を全て取り上げたわけではないが,全てに答えているとこちらが疲れてしまう。要点を絞らせてもらった。

*1 もちろん,文章を挙げたその人(通常は管理者となる)に対してのコメントである。
*2 本来「と思います」まで引く必要など無いのだが,相手は「〜と思います」と書けば許される思っているようなので,その誤りを指摘することも含めて引くこととする。
*3 もちろん言語学などで,「表現の違いによる相手の受け止め方の違い」や「メンタルスペース上の位置付けの違いによる表現の違い」といったものを研究する分野においては,この違いは重要なものとなる。しかし,ただ単なる「議論の場」において,内容的差異を含まない表現の違いを取り上げる必要があるのかどうかは疑問である。
*4 コミュニケーションにおいて,受け手(receiver)としての個人がバックグラウンドを同じくする(べき)と考えていることを指す。何と同じくするかといえば送り手(sender−すなわち管理者のことだ!)のバックグラウンドである。weblog本文を読むと分かるが,決して送り手が受け手に合わせるということを指さないし,管理者が受け手になる状況は想定されていない(その場合は「送り手が受け手に合わせること」を想定するのだろうが)。

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昭和の日

 祝日法の改正により,今年から4月29日は「昭和の日」に,「みどりの日」は5月4日に移動となりました。4月29日を「昭和の日」にしたいというのは,昭和の時代の天皇誕生日として60年あまり休日だったという観点からも,まあ理解できるものなのでしょうが,押し出される形となるみどりの日をなぜ5月4日にしなければならなかったのか,というのは疑問として残るところです。

 国会会議録検索システムというありがたいものを利用し,平成17年5月12日の参議院内閣委員会の中から,発議者である(ので衆院議員だが参議院に赴いた)長勢甚遠が言ってのけた馬鹿発言(と言ってしまっても良いだろう)を拾ってみます(カットしている部分があります)。

 みどりの日の趣旨は「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。」とされておるわけでありまして、緑豊かな我が国にとりまして極めて有意義であり、また国民の間にも定着をしている祝日でございます。
 こうしたみどりの日の意義にかんがみ、しかも祝日の増加による影響にも配慮しつつ、青葉若葉の時節でありゴールデンウイークの一日である五月四日をみどりの日とすることとしたものでございます。
 なお、五月四日は労働時間の短縮やゴールデンウイークにおけるいわゆる谷間出勤の非効率性への配慮等の観点から休日とされているところでございますが、みどりの日をこの五月四日とし休日とするということは、こうした当初の趣旨にも合致するものと考えておるところであります。(発言9)
 五月四日は従来からも休日とされてきたところでありますので、したがって、みどりの日を五月四日として祝日というふうに名称を変えたといたしましても、我が国における経済活動や国民生活等への支障は特に生じないものと考えております。(発言11)

 …なるほど,5月4日はこれまでの祝日法でも休日扱いとなっているから,わざわざ祝日にしてしまっても影響が少ないと言いやがった。これでは,4月29日を「昭和の日」とすることが非常に拙速だという批判につながるのは当たり前だ。「この時期」にみどりの日を残したいのなら,5月4日などという「当たり障りのない日」に移す必要はない。
 いっそのこと,5月1日にしてくれれば,1週間丸々休みになって万々歳じゃないかなんて意見もあろうものを,どうせ国会議員はこの時期会議がないからなのか,5月4日にすることで「経済活動や国民生活等への支障」が特に生じないから良いのだと言いやがる。
 平成元年2月10日の衆議院内閣委員会で,当時官房長官の小渕恵三が「証券市場があまりにも長く休むことになるのは良くない」なんて言っているが,GWというのに3日の中抜けがあるが故に連休が短くなり,観光・旅行系の経済活動に支障を来している部分もあるということには全く触れもしない。
 長勢甚遠もこの流れを継いでいて,基本的には「昭和の日は欲しいけれども,この時期の祝日をいじることによって生じる変化の責任は取りたくない」という何とも姑息な考えが透けて見えるわけだ。…結局のところ御都合の如く現れた5月4日に全ての負債を押し付けてでも,とっとと「昭和の日」を作りたいという考えが見え見えだ,馬鹿馬鹿しい。

 まあ,大喪の礼や天皇誕生日を休日にすることにも反対する共産党のようなことを言うつもりはないけれども,何でもかんでも天皇に結びつけようというアホな考え方には到底同調できない。所詮この世は「鼓腹撃壌」であり,普段の生活の中で天皇の存在など,それほど大きいものであるはずがないのだ。その存在が深く大きく意識されるということは,統治が乱れているということに他ならない(あくまでも「統治」であって「治安」ではない)。だから,むしろ天皇の存在が意識されないことを喜ぶべきである。
 大体,普段「天皇制反対!」なんて小気味のいいことを言っているような奴だって,「勲章あげるよ〜」とか「天皇主宰行事にいらっしゃ〜い」とか言われた日には,途端に尻尾振ってホイホイと赴いちゃうじゃない。「権威は嫌い」みたいなことを言ってる奴でも,世界的に有名な賞だと見るや,しっかりもらって(悦に入って…るかどうかは分からないけど,少なくとも平気な顔して)やがる。そんなもんさ,どうせ。

 まあ私としては,過去は乗り越えるものであって偲ぶものではないと考えるところから,「昭和の日」などという何とも過去回帰的な祝日の名前は嫌いです。「明治の日」(11月3日→明治天皇の誕生日:新暦換算)なんていうのを作れという人もいて,勘弁して欲しいですね。まあ,「文化の日」という何とも訳の分からない祝日も,気持ち悪いものですが。
 悪い面だけ見て悪い思い出を忌避したがるが故の反対論もあまり好きにはなれんが,良い面だけ見て良い思い出に耽溺したがる賛成論も馬鹿馬鹿しいこと限りなし。後ろ向きの奴らに用はないぞ! まあどうせ,後ろ向きのくせに「前向き」だと強弁するのだろうが,過去を「お手本」にしようというその姿勢そのものが,私には気に入らない!

 結局のところ,「昭和の日」だ「みどりの日」だと言ってみたところで,思想性などかけらもないのだ。所詮祝日で休んでたって,その祝日が何であるのか分からないままに休んでいる人が多いのだから,思想性など必要ないのかも知れないが,祝日の名前をホイホイ変えて悦に入るようなお馬鹿な真似を,少なくとも国会議員がするべきではないな。国会議員こそが,祝日に「正当な思想性」を持たせられる唯一の存在なのだから。
 さあ長勢甚遠よ,「みどりの日と5月4日との関連性」について,由来から理解できるように,分かりやすく説明して見やがれ。…できるわけ無いよな,「昭和の日と4月29日との関連性」の為に勿体付けただけのものだって分かりきっているのだから。条件が異なれば,別に5月4日でなくたって良かったんだろ,「みどりの日」なんてどうでも良いと思ってたんだな。東アジア黙示録(2007年4月29日)で「植物学に造詣深く、海洋生物学の権威であられた先帝陛下の面影を伝える「みどりの日」」なんて言われている祝日も,これじゃあ形無しだ。

 でも,「昭和の日」にちなんで昭和町で昭和に関するイベントがあったらしい,これはこれで面白そうなイベントがあったみたいで,「昭和の日」も別に悪いことずくめになっているわけではないのだなと感じた訳だ。昭和の時代を知るということは重要だ,その意味において重要なイベントが行われたと思うが,…やっぱり耽溺するものではないな。

 最後になりましたが,「です・ます」調の所(引用は除く)だけ読めば,大体言いたいことが分かると思います。後は全部おまけです(最後に書くな!)。

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