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哀愁のアムステルダム
アンネ・フランクのいた家をたずねて |
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アムステルダム西教会
前のアンネ像 |
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アンネがいつも見ていた西教会の塔 |
アムステルダムの冬は暗い。午前9時だというのに,街灯が消えていない。どんよりと曇った空の下,強い風が運河沿いに街を走り抜け,コートの裾を巻き上げる。
私は,アムステルダム西教会の前に立っていた。教会の前には,少女の像が置いてあった。アンネ・フランクの像である。彼女がナチスの迫害から身を隠していた家はこの近くにある。
私は,教会の脇の運河沿いの道をアンネの隠れ家に向かった。相変わらず風が強い。北海から直接吹いてくる風だ。薄暗い空から冷たい雨粒が時々飛んでくる。 |
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アンネのいた家は間口が狭く、奥行きのある建物だった。中に入り、階段を上ると,本棚でうまく隠された秘密の階段がある。ここから先が隠れ家だ。
隠れ家の中は思ったよりも広かった。わたしがかつて住んでいた3LDKのマンションくらいはある。しかし、2家族と1人が外にでかけることなく長い間住むとなると話は違ってくる。ここで2年と数カ月アンネたちは恐怖と窮乏に耐えながら暮らしたのだ。
古ぼけた壁の色を見ていると、50年という時間の長さを感じた。
内部の写真撮影は遠慮してほしいとのことなので、窓から外を写した。アンネが見ていた同じ景色を撮影したかった。樹木が育っていること以外は,アンネが見たままの風景だろう。
下に降り、当時事務室だった部屋で隠れ家等の絵はがきを買った。つりはアンネ・フランク財団に寄付した。
部屋にはアウシュビッツの写真の展示もあった。黙って写真を眺め,私は外に出た。外は相変わらず,冷たい雨粒が飛んでいた。
以前にアンネの日記の完全版が出た。私はさっそく手に入れた。それを読んで、アンネは実際に生きていた普通の活発な女の子だったのだなと感じた。前の日記ではアンネは小説の主人公のようだった。作り物めいていた。
実際のアンネは思春期の女の子にふさわしく、いろいろなことに興味を持ち、考え、一生懸命生きていたのだ。戦争がなければ、広い空の下で思いきり様々な経験をして生きていったことだろう。しかし、その若いエネルギーを持ったアンネは狭い隠れ家に閉じ込められ、死に追いやられた。
戦争は個人の人生の可能性を破壊する。アンネだけではない。たくさんのユダヤ人、ドイツ人、アジアの人々,日本人、……私の身内にも戦争で人生を無くした人はいる。私には会ったことの無いおじが二人いる。理由の如何を問わず、とにかく戦争を起こすことには反対したい。
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また、わたしは、日本人はドイツの行為を知るより、日本人自身の行為を正しく知るべきだと思っている。当時,日本人が中国やアジアで何をしたかを知らなかったり,或いは良く考えようとしないまま、単にヨーロッパ観光の1コースとしてここに来る日本人はこれを機会に思い直してほしい。
私は現在,元気いっぱいな子供たちに囲まれて生活している。
ほとんどの子は、本当につらいことなど全く経験することなく、明るく、利発に育っている。今の日本の子供たちは自分の可能性を自由に伸ばす機会に恵まれている。私は、アンネ・フランクが今の日本に生まれていたら,どの子のようになっていたかな?などと思いながら、子供たちを見ていることもある。
今の日本という恵まれた環境に生まれた子供なのだから,自分の力を大きく伸ばし,賢い子になり、賢い大人になってほしい。
そして,地球の4分の3の子供たちは自分たちと大きく違う生活をしていることを真剣に見つめて生きる人間になってほしいと思う。 (自戒も込めながら記す)
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