デリーに戻る
ソナマルグからスリナガルに帰った翌日,デリーに戻ることになった。朝早く空港に行き,ひたすらキャンセル待ちをした。空港は混んでいた。その中で私たちはホテルが用意した弁当を広げた。まわりの暇な人たちが好奇の目で見ていた。ちょっと恥ずかしかった。
最初チケットが取れたのは八人だけだった。私はキャンセル待ち組に入った。しかし、最初の八人もだめになり、ひたすら待つしかなくなった。今日乗ることが分かっているのに、なぜチケットが用意されていないのだなどと愚痴も出た。 S女史は折り紙を取り出し、インドの幼児相手に鶴を折って遊び始めた。優雅な人である。 数時間待ってやっとチケットが取れた。しかし、ツアー全員が同じ飛行機には乗れず、二つに分かれた。私は何故か仙台組から離れて先の便に乗ることになった。 |
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ひたすらキャンセル待ち |
暴動中のせいか、ボディチェックは厳しかった。通常のチェックの後、手荷物には検査済みを証明するタッグが取り付けられた。他に滑走路に出るとき、タラップを上る前など計四回の検査があり、その都度タッグに係員のサインが書かれたり、スタンプが押されたりした。ようやくインディアン・エアラインのエアバスA-300の機内に入れたのは十一時半になっていた。 十一時四十三分に離陸。機内食はサンドイッチ、コーヒー、ケーキの軽食だった。五十分ほどでつつがなくデリーに到着し、三十分後には後続部隊と合流し、無事を祝い合った。 |
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乗り込むのにひどく手間がかかった思いでのチケット |
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デリーで案内されたホテルはメリディアンという最高級のホテルだった。ロビーに入って行くと、生のピアノとヴァイオリンが日本のメロディを流した。 ホテルの大きなビルディングの内側は完全に吹き抜けになっていた。私は映画「未知との遭遇」の最後に出てくる巨大母船の中を連想し、しばらくボケーと見上げてしまった。吹き抜けには外光は全く入らず、内側に照明で輝く二十階までの通路が並んでいる。その空間の端に4台の透明で輝くエレベーターが上下している。 さっそく、ランチとなった。スープが出た後、なんとビーフステーキが出た。ここはインドである。全く予想していなかったメニューだった。しかも、ウェイトレスはテーブルに置くときに、何やらフランス語らしいことを言った。こちらも 「メルシー。」 くらいは言うことができた。(これを書きながら初めてホテルの名前に”ル” が付いているのに気づいた。Le Meridienはフランス系のホテルだったのね。) |
メリディアンホテルの内部 |
ちなみに、ホテルで女性が働いている姿を見たのは初めてだった。それまでは、ホテルでもレストランでも男だけしか働く姿をみていない。カシミールの物産店の女性店員だけが唯一の第三次産業に従事する女性だった。
その後、パン、バター、アイスクリーム、ティーが出てビールを少し飲み昼食は終わった。ここで飲んだKALYANI
BLACK LABELというビールは、カシミールビールよりずっと旨かった。
食後、国立博物館に行った。学生時代に教科書で見たガンダーラ仏や、何世紀も前の彫刻など、見事だった。料金を払えば写真撮影もできるので、たくさん写真を撮った。一部工事中で入れないところがあったのが残念だった。
その後、コンノートプレイスの何とかと言うデパートに連れて行かれた。学生アルバイトとかいう男店員がいろいろとしつこく説明しながら付いて歩いた。大した物は買わなかった。白檀の数珠、しおり、ビヨョヨ〜〜ンとなる変な楽器、インド音楽のカセットテープなどなど。
この男子学生は近くに人がいなくなると、まじめな顔で
「日本語を教えて下さい。」
と日本語で言った。そして、
「日本語の辞書か欲しい。」
とも言った。
「ホワット カインド オブ デクショナリー ドゥ ユー ウォント?ジャパニーズジャパニーズ?ジャパニーズイングリッシュ?イングリッシュジャパニーズ?」
「ジャパニーズイングリシュです。私は払います。」
この、エリート大学生は、払います。と言った。私がインドで聞いた、ただ一つの「払います。」だった。それまで私が聞いてきたのはギブミー、Give
me.GIVE ME!の連続だったので、感動してしまった。
と言うわけで、わたしは日本に帰ってきてから彼に和英辞典を送った。彼からの返事は相当時間が経った今になっても何もない。
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