絵本・詩 NO.0 文明を超えるもの
1991年の清水真砂子さんの郡山市での5回にわたる講演は、すばらしいものであった。
その講演の内容のほとんどは、今回彼女が書き下ろした「子どもの本のまなざし」に展開されている。
その講演会で、私は始めて清水さんにお会いしたのだが、清水さんは、私を「私のうなずいて欲しいところで反応してくれるすばらしい聴き手だわ」とほめて下さった。
彼女のカニグズバーグ、ピアス、I.B.シンガーに関する話には、私は、深い共感を持ち、殆どが真実であると思っているが、ヴァージニア・ハミルトンに関しては、一部共感するが、評価をしすぎていると思う。
このことを講演会の後、清水さんに話した。
そのとき話題になったのが、 I.B.シンガーをどう評価するかということと、日本における、さとうわきこ、片山健、中川利枝子、加古里子、等の絵本をどう評価するかということであった。
そのときは、時間がなくてお答えできなかったのだが、小論において清水さんの納得をいただければ、これほど幸せなことはないと思っている。カニグズバーグ・灰谷健次郎
灰谷健次郎
清水真砂子は、「子どもの本のまなざし」において、その二分の一の169ページをカニグズバーグ論に割いている。なぜ彼女がこれほどまでに執拗にカニグ゛ズバーグと格闘する必要があったのだろうか。
前著「子どもの本の現在」において、彼女は灰谷健次郎と同じように格闘していた。灰谷健次郎の不十分さとは、清水のいう、
人がカイロスの時間と呼ぶ垂直の時間とクロノスと四部水平に流れる時間。うつろわない時間とうつろう時間。トムはいまバーソロミューおばあさんを抱きしめながら、このふたつの時間を同時に抱きしめていた。おばあさんを抱きしめるということは、そのままそのふたつの時間を同時に受け入れ、抱きしめることだったのである。
まなざし197ページ トムは真夜中の庭でにふれて社会的に強い立場の人々によってたつ「物語」が支配的なのは当然だが、いわゆる「反」の立場をとる人々だって「物語」にがっちりと支えられていることに変わりはない、「物語」をこわすのは時に後者の方が遙かに困難でさえある。
「反」の立場に立つことで、すでにある支配的な「物語」をこわしたと思うから、その立場に立ったとたん、いわゆる「正」の「物語」に見合うだけの「反」の「物語」をうち立て始めたことに私たちはつい無自覚になってしまう。
まなざし44ページ カニグズバーグにふれて前者のフィリッパ・ピアスの観点が不十分であったことと、後者の「反」の「物語」をうち砕けなかったことにあるのだろうと思う。
「兎の目」において灰谷は、ごみ処理場の長屋に住む子ども達と彼らの先生を描いた。
確かに、「兎の目」に置いて灰谷は、小谷先生の成長を描いている。
小谷先生は始め鉄三がなぜカエルをひきさいたのか理由が分からなかった。クラスの子ども達が鉄三の大切に飼っていたハエをカエルのえさにしたからだと分かっていくが…。
「兎の目」において灰谷のすぐれている点は、小谷先生の目線の移動を描いているところである。
小谷先生は始め生徒を外側から見ていた。カエルをひきさいた理由も鉄三がカエルのえさを集めていてくれたからであろうと考え鉄三に謝るが、それは誤解であった。
彼女が真実に気づいて行くのは、子ども達の日常に接触し始めてからである。彼女はおずおずと子ども達に自分の心を開いてゆく。
小谷先生の成長とは、子ども達に心を開くことであったのである。しかし、灰谷は清水のいうとおり鉄三の心を描いていない。小谷先生の視点でしか鉄三を観察していない。清水のピアス論から引用すれば、小谷先生はまだ鉄三と水平の時間を交わらせることができていないのである。
一方足立先生が「兎の目」の最初から最後まで成長のあとを見せていないのはなぜであろうか、言い換えれば、小谷先生はなぜ足立先生のレベルまでしか成長しなかったのであろうか。
それは、灰谷がそのレベルまでしか生長していなかったからであろう。小谷、足立の両先生は、弱者を知りたいと願っている。しかし、弱者に寄り添おうとしてはいないし、弱者を知ってもいない。
弱者に寄り添う者とは、弱者と水平の時間を共有する意志を持つ者であるからだ。後に述べるバージニア・ハミルトンには弱者と水平の時間を共有する意志がある。
小谷、足立の両先生は、自分のあるべき姿を思考で考えてしまうために、弱者に寄り添う段階までも行き着けていない(鉄三の目からみた像が書けていない)のである。
弱者を知る者とは、自分の垂直の時間で「弱者」と「強者?」を支えきる者である。
「他者との折り合いをどうつけるか」 とか「自分でいつづけるためにどうするか」などと考えているのは、 本人は他者を知っているつもりなのだが、水平の時間を共有する意志の欠如であり、自分の垂直の時間の無駄遣いである。
灰谷にはこのカニグズバーグの傲慢さはない。灰谷は弱者を知りたいと願っている、日本の読者の殆ども、弱者を知りたいと願っている段階にある。だから、これほどまでに灰谷が日本で受け入れられているのである。灰谷のもうひとつの弱点は、彼が「反」の「物語」に振り回されていることである。
灰谷は鉄三の心から「物語」を描くことが出来ていない。小谷さんの視点から観察しているだけである。
すると、「兎の目」の背景として描かれているごみ処理場移転にかかわる弱者達に対する灰谷や「反」の立場の人々の思いこみが、小谷さんの鉄三像をゆがめてしまうのである。
「ハエ」を飼っている鉄三には、「ハエ」の、「人間のそばにいたいが、人間から嫌われてしまう側面」、を鉄三自身と同一視する心の働きが起こっている。
同じ心の働きは、おじいさんやごみ処理場に住み込んだ人々にも起こっている。だから、自分たちをごみ処理場の一角に隔離してしまったのである。
この、「弱者」と思われている人々の心の歪み・コミュニケーション障害を灰谷は描けていないのである。灰谷は「兎の目」をごみ処理場の移転にかかわる弱者たちを舞台背景として描いている。この背景は必要であったろうか。
小谷さんの成長を描くことがこの小説の目的であるのならば、鉄三とハエのテーマだけで十分である。私は小谷さんに子供たちと無心に遊べるようになって欲しかった。
そうしたら、鉄三の心もあるいは描けたかもしれないと思うからである。
カニグズハーグ
カニグズバーグは灰谷より大人である。「正」の「物語」を崩せば「反」の「物語を」崩してしまう。
しかし、清水は、「カニグズバーグの本は「実用の書」との思いをいっそう強くしている」と口ごもってしまうのである。
「まなざしの」半分をカニグズバーグに割きながら、清水はカニグズバーグに共感できていないのである。カニグズバーグについて清水は次のように言っている。
カニグズバーグの関心は徹頭徹尾人間に、もっといえば、人間の間を生きぬくことにあった。日常つき合っていかざるをえない人々、逃げかくれできない人々との関係をどう考え、人々とどう折り合いをつけていくか、グループの一部でありながら自分でいつづけるにはどうしたらよいか、にあった。 まなざし160ページカニグズバーグは、少なくともこれまで、世にいう「子どもの目をとおして世界を見」る人であったことは一度もなかった。書くとき、子どもは いつも彼女の外にあり、そこに大人である自分との共通項はいくつか見いだし得たにしても、子どもの持つ「子ども性」を自らのそれと分かち合って楽しむ人ではなかった。大人のカニグズバーグが子どもに抱いていた共感があったとしたら、それはすでに言った同志としての共感であったろう。これから大人になって人生を生きていこうとする同志としての子どもに彼女の関心はあった。この作家の中の「子ども」が外にいる子どもの「子ども」性と共鳴しあったのではない。そうてではなくて、むしろ作家がまるごと生活者として、外にいる、これまた生活者としての子どもと共鳴しあったのである。 まなざし162ページ
「子供の目」という言葉を「他者の目」という言葉とおきかえてみたならばどうなるであろうか。
カニグズハーグは、少なくともこれまで、「他者の目を通して世界を見」る人であったことは一度もなかった。書くとき、他者はいつも彼女の外にあり、自分との共通項はいくつか見いだし得たとしても、他者の持つ「他者性」を自らのそれと分かち合って楽しむ人ではなかった。 となる。
カニグズバーグの真の問題点は、彼女が他者との共感の時を持とうとしていないところにあるのである。
カニグズバーグはよく人生を知っている。人生を経験している。彼女はカイロス・垂直の時間を豊富に持っているかに見える。しかし、彼女は 彼女の宝を自分のためだけにしか使おうとしていないのである。
したがって、彼女の小説は「日常つき合っていかざるをえない人々、逃げかくれできない人々との関係をどう考え、人々とどう折り合いをつけていくか、グループの一部でありながら自分自身でいつづけるためにはどうしたらいいか」、の域をでることはない 。
従って、清水はカニグズバーグの本を「実用の書」と呼んで嘆息してしまうのである。
バージニア・ハミルトン
清水のカニグズバーグへの反感は、バージニア・ハミルトンへの過度の評価へつながっているように、私には思われる。
カニグズバーグはクロノス・水平の時間を共有することができていない。しかし、バージニア・ハミルトンには、水平の時間を共有することへの希求がある。「ジュニアブラウンの惑星」においてバージニア・ハミルトンは、バディ・クラークという魅力的な少年を造形している。
バディ・クラークはジュニア・ブラウンやプールさんやミス・ピープスなどの傷つき歪んだ意識を支え共感し、彼らを担って歩こうとしている。
バージニア・ハミルトンは、バディ・クラークをクロノス・水平の時間を共有しようとする弱者の共同意志として描いている。
しかし、そこには「いわゆる強者」 との水平の時間を共有しようとする余裕が見あたらないのである。「わたしは女王をみたのか」のジーリーにしても、「わたしはアリラ」のアリラにしても、民族の歴史を背負い誇り高く自分のアイデンティティを生きようとする。
しかし、民族の歴史を背負うということは、他の民族を差別することではないだろうか。
バディ・クラークは、弱者という新しい民族を作り出そうとしているのではないか。
新しいゲットゥを作りだしても、それは文明を変える力にはなるまい。アリラは、そしてM.Cも、自分さがしの過程で、この類にいきあたる。それはせまい意味での血のつながりである先祖を越えて、黒人につながり、また一方でアメリンドにつながる。いずれもアメリカ社会で敗北を余儀なくされてきた、いわば歴史の敗者ともいうべき人々であるアリラは自分がどういう人々につらなるのか、どういう人々によって支えられて今に至るのかを知る。アリラのこの確立は人々とのつながりを確認することを通してなされるのであって、クローディアや利恵が体験したたぐいの孤立や緊張はここにはない。しかもM.Cもアリラも、自身の黒人に、そしてアメリンドにつながる類的存在を確認するにとどまらず、それを止揚していくことで、より広い人類につながろうとする。アリラの個の確立への歩みは、類的存在を確認し、それにむかって歩くことと、けっして矛盾するものではない。 まなざし273ページ
広い類とは人類のことであろう。黒人、アメリンド、弱者という類的存在・民族をハミルトンは強く意識しているのである。しかし、類的存在・民族を強く意識することだけでは、民族相互の対立を呼びこそすれ、民族の止揚にはつながらない。
確かに、清水は生活者たる女を強調している。しかし、民族を形成する力は、むしろ女であって男ではなかったといえるのだ。
なぜならば、民族を形成する力は、クロノス・水平の時間を共有しようとする意志であり、それは本質的には女の持つ生命力に依拠しているからである。民族を止揚する力は、他民族を受け入れ許すことから生まれてくる。そして、この世の悪をすべて許すことから生まれてくるのである。
そのためには、強大なカイロス・垂直の時間が必要である。
ハミルトンにはまだこの力が不足している。しかし、彼女はこのことを認識していない。だから、自らの力で新しい民族を造りだそうとしてしまうのである。
それは、非常に危険なことである。 ……ハミルトンはまだ未熟なのである。
フィリパ・ピアス
ピアス論において、清水はいかに共感に満ちていることであろうか。私はピアスこそ灰谷、カニグズバーグ、ハミルトンを越え明日の文明に近い人であろうと思う。
ピアスの文学の本質は、
人がカイロスの時間と呼ぶ垂直の時間とクロノスと呼ぶ水平に流れる時間。うつろわない時間とうつろう時間。トムはいまバーソロミュウおばあさんを抱きしめながら、このふたつの時間を同時に抱きしめていた。おばあさんを抱きしめると云うことは、そのままそのふたつの時間を同時に受け入れ、抱きしめることだったのである。 まなざし
という言葉に尽くされている。
「サテン入江のなぞ」のナンおばあちゃんは、なんと深いカイロス・垂直の時間とクロノス・水平の時間を持っていることであろうか。
だからこそ、ナンおばあちゃんは、自分の長男を死に至らしめたのがアーノルド・ウェストだと知りながら、彼の世話をするのではなく、彼の世話になることによって、深すぎる痛手を負ったこの男を生かし続けてきたのである。 まなざし181ページ
ピアスはさらに幼いケートにアーノルド・ウェストを担わせてしまう。
それは、ケートがそれを担うにたる深いカイロス・垂直の時間とクロノス・水平の時間を持って生まれてきていたからである。「許す」ということの本質的意味をピアスは知っている。
アーノルド・ウェストはひきょうでちいさい男である。しかし、彼はかれなりに罪と罰を背負って生きようとしている。
それを感じ、彼の行為を受け入れることが、「許す」という行為である。
「許される」ことによって、アーノルド・ウェストには彼の罪を彼自身が許すための生命力が注ぎ込まれたのである……と私は思う。
…彼の罪を彼自身が許す…ということは、彼の罪を彼自身が止揚するということである。ピアスの「物語」には人が人生の中で出会う範囲しか登場してこない。彼女の作品には、いわゆる「社会問題」を描いたものはない。
確かに人は社会の中で生きている。しかし、人はひととしか出会わない。
人の人生を描くのであるならば、ひととの出会いのみを描けばよいのである。
だから、ピアスは自分のおるべき領域を越えることはしないのである。(ユダの手紙6節)
マリー・ホール・エッツ
ピアスの作品には常に深い悲しみが流れている。
私は、ピアスと同質の深い悲しみを、絵本作家であるマリー・ホール・エッツに感じている。
私は、エッツの「わたしとあそんで」を涙なしには読むことができない。わたしとあそんで
あさひがのぼって、くさにはつゆがひかりました。わたしははらっぱへあそびにいきました。
ばったが一びき、くさのはにとまって、むちゅうであさごはんをたべていました。
「ばったさんあそびましょ。」わたしがつかまえようとすると、ばったはぴょんととんでいってしまいました。かえるが一ぴきとびだしてきて、いけのちかくでじっとしています。かをつかまえようとしてまちぶせしているのだなと、わたしはおもいました。
「かえるさんあそびましょ。」わたしがつかまえようとすると、かえるもぴょんぴょんはねていってしまいました。かめが一ぴき、まるたんぼうのさきでひなたぼっこをしていました。
「かめさんあそびましょ。」わたしがつかまえようとすると、かめもぷくりとみずのなかにもぐってしまいました。∫
だあれもだあれもあそんでくれないので、わたしはちちくさをとって、たねをぷっとふきとばしました。それからいけのそばのいしにこしかけて、みずすましがみずにすじをひくのをみていました。
わたしがおとをたてずにこしかけていると、ばったがもどってきて、くさのはにとまりました。かえるがもどってきて、くさむらにしゃがみました。のろまのかめももとのまるたんぼうにはいあがってきました。りすももどってきてわたしをみつめ、おしゃべりをはじめました。あたまのうえのかしのきのえだに、かけすももどってきました。うさぎももどってきて、わたしのそばでぴょんぴょんはねました。へびもあなからするするでてきました。
わたしがそのままおとをたてずにじっとしていると、だあれもだあれももうこわがってにげたりしませんでした。
そのとき、しかのあかちゃんが一ぴきしげみのなかからかおをだして、わたしをみつめました。
いきをとめていると、しかのあかちゃんは、わたしがさわれるくらいちかくによってきました。それでもうごかずにだまっていると、しかのあかちゃんはもっとちかよってきて、わたしのほっぺたをなめました。ああわたしはいま、とってもうれしいの。とびきりうれしいの。
なぜって、みんながわたしとあそんでくれるんですもの。マリー・ホール・エッツ よだ・じゅんいち訳
エッツもピアスもクロノス・水平の時間を求めて出会いを希求したことがあったのだ。たくさんの人々を抱きしめようとするあまり、その人々を傷つけ疎まれてしまった深い経験を持っているのだ。……と、私は思う。
エッツもピアスもかつては現在のハミルトンと同じ思いをいだいていたのであろう。
しかし、エッツとピアスは今、現在彼女たちの存在をとおして触れあうことのできる他者に、自分の体が自然と動いてしまうこと、つまり、真の心の命じるままに自分の体をゆだねようとしている。このことこそ、「私は、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける」(ゼパニア書3章12節)という予言が成就しつつあるしるしなのだと、私は思う。
レヴィアタン・ベルゼブブ・ベヘモット 竜をうちやぶるものクロノスと呼ばれる水平の時間とは、人が他者と出会うこと、人が他者と共感することである。しかし、私たちの出会いには、いかにすれ違いの出会いが多いことか。
それは、その人々に共感する意志が希薄であったからではなかろうか。その人々が自分のためだけに、「自分の家のために走り回っていたから」(ハガイ書1章9節) ではないだろうか。
他者と共感する意志を、「愛」と呼んでいい。水平の時間を共有するためには、水平の時間を共有する意志を持たねばならぬ。その意志は、生命を育てる力となる。
しかし、その意志は、また民族を分かち、民族相互の憎しみを育てる力にもなってしまうのはなぜだろう。
私は、この負の力がレヴィアタンと呼ばれてきたことを知った。カイロスと呼ばれる垂直の時間とは、人間の過去の経験の総体である。それは、人の他者と共感できる能力であると言い換えることができる。
しかし、他者と共感できる能力を持っていたとしても、他者と共感する意志を持たぬかぎり、生命は描けない。
言い換えれば、愛しないかぎり生命を描けない。しかし、愛すれば愛するほど民族を分かち、民族相互の憎しみを育てる。
人類はこのような歴史を螺旋のように経過してきたのではないだろうか。
私たちはこのレヴィアタンと呼ばれる負の力をどのようにしたら越えることができるのだろうか。……
それは、やはり、カイロスと呼ばれる垂直の時間の力であるだろう。
人は、クロノスと呼ばれる水平の時間を共有することを繰り返すことにより、カイロスと呼ばれる垂直の時間を積み上げる。また、自分の行為の結果を自分に引き受けることによっても、 カイロスと呼ばれる垂直の時間を積み上げるのである。
自分の行為の結果を自分に引き受けるとき、人は深い悲しみを体験する。そこで人は悟る。「自分の自我で世界を描こうとしたために自分自身を引き裂いてしまったのだ ……」と。
これが、カルマ・業の真の意味である。ピアスの描くナンおばあちゃんに私たちは自我の影を見つけることができるだろうか。
ナンおばあちゃんは自分の自我を捨てている。それを無我と呼ぶのだ。
この世の悪についてナンおばあちゃんはなんと言うだろうか。
「それはしかたのないことだよ。誰だって悪いことを実現しようなんて考えたことはないさ。自分のために自分の宝を使ってなぜ悪いと思ったり、逆によいことをしようと考えすぎたりしているだけだよ。でもそれがこの世の悪を造りだすのさ。悪を造らないようにしようと思うならば、出会った人の本当にやりたいと願っていることをそっと手伝ってあげるのさ。……それだけでいいのさ。」カイロス・垂直の時間は、智の源泉である。しかし、それが己のために使われるときに知に落ちてしまう。
いわゆる文明は、一方でこの父の罪によって築かれた。
クロノス・水平の時間は、生命の源泉である。しかし、それが父の罪に怒り我が子を引き寄せようとしたときに、社会制度が現れ、民族が別れた。
他方の文明として現在私たちを縛り付けているかに見える外在的社会は、母の罪によって築かれたのである。父の罪をそそのかす力をベルゼブブと呼ぶ、母の罪を犯してしまう力をレヴィアタンと呼ぶ。
人は始めベルゼブブにたよって文明への道を歩き始めた。人がばらばらに自分のことだけを考え始めたときに、ベルゼブブを否定するためにレヴィアタンが生み出された。
レヴィアタンは、他者または自分への怒りであったのだが、その怒りが思考となり人間の外在する制度と人間の体を支配するようになったとき、その支配の機構がベヘモットと呼ばれるようになったのである。
ベヘモットは、外在的には、民族や社会制度を支配する。そして、体の機能としては、交感神経系を支配し潜在的思考意識で人間の体をコントロールしていたのである。レヴィアタンは絶えず他者と自分自身を怒り告発している。
私たちは、私たちを圧迫する社会制度に対し常に怒っているものだ。また、他者が私たちの非常識と感じることを無意識的に行為してくるとき、他者に対し怒りを感じるものだ。
そして、私自身が他者を傷つけてしまったとき、私自身を許せないものだ。
レヴィアタンは人を絶望させ、人を冥府・ねはんへ追い落とす力となる。人は自分のレヴィアタンに打ち勝つことはできないだろうか。……
社会制度が圧迫するのは私であっても、他者はそれを必要としているから彼らのために社会制度が形成される。私が社会制度を怒り新しい社会制度を作り出しても、新しい悪を造りだすだけだ。
他者の常識が私の常識の一部である場合もあるし、私の常識が他者の常識の一部であることもあるのだ。
他者は他者なりにせいいっぱい人生を生きている。
私は完全ではない。私は人生を歩むことによって少しずつ完成されていく存在だ。
私は怒った、しかし、私自身が私が怒ったことを知って私を責めているということは、私が人生を歩む中で怒りを克服できるようになるしるしである。……
私は私自身の、私自身への怒りと、他者への怒りを鎮めることはできるのだ。……
日本・日常・け
日本人は、なんとなく他人の心が分かる民族である。だから、明確な言葉をしゃべらなくても日常の触れあいができる。それゆえ日本人は、地球上で最もカイロス・垂直の時間を持っている民族なのだと思う。
都会に住んでいた人が、いなかの中で生活しようとし始めるのはとても苦しいことだ。いつも見張られていて、自分の心の中に入り込まれるような気持ちになって耐えきれなくなる。それは、田舎の農民や職人の方が都会のインテリより垂直の時間を豊富に持っているからだ。
だから、日本人の特にいなかのなんでもない人々こそ、地球上で最もカイロス・垂直の時間を持っている人々であるのだ、と私は思う。
しかし、彼らは自分がそれだけの力を持っていることを自覚していない。……
あたりまえだと思っているからだ。清水とならんで児童書の評論者として深いカイロス・垂直の時間を持っている松居友は、「わたしの絵本体験」という本を書いているが、その中で絵本を初級絵本と上級絵本にわれている。
私たちの無意識に強く働きかけてくる絵本を上級絵本と呼びたい彼の気持ちもよく分かるが、加子里子の「だるまちゃんとてんぐちゃん」や中川利枝子の「ぐりとぐら」が初級絵本と呼ばれるべきかといえば、疑問に思う。
「だるまちゃんとてんぐちゃん」や「ぐりとぐら」ほど子供たちを元気にしてくれる絵本はそうないいからである。
子供たちを元気にしてくれると言うことは、子供たちの無意識に強く働きかけ、子供たちの生命力を強めているからである。
これこそ上級絵本と呼ぶべきであると、私は思っている。この意味で私が上級絵本であると思うのは、さらに、さとうわきこの「ばばばあちゃんシリーズ」や片山健の「コッコさんシリーズ」等である。
松居友は、なぜこれらの絵本を初級絵本であると書いてしまったのであろうか。
それは、彼が、これらの絵本の内容を「あたりまえ」だと感じていたからであろう。彼は、これらの絵本の内容を「あたりまえ」だと感じる感性・カイロス・垂直の時間を持っている。しかし、あたりまえすぎて、表の意識では評価できなかったのではあるまいか。I.Bシンガーについて清水はまとまった評論を書いていない。おそらく書けなかったのではあるまいか。
I.B.シンガーは、ピアスを越えるカイロス・垂直の時間を持っている人であると、私は思う。
しかし、 I.B.シンガーは、エッツやピアスの持っている以上の深い原罪意識を持っている。そして、人生を諦めようとしているのである。
「よろこびの日」に納められている「よろこびの日」や「乳製品屋のレブ・アシェル」「レブ・イチェーレとシュプリンツァ」「サラエボの銃声」等は、
I.B.シンガーの甘えられないが故の、一人ですべてを背負おうとするが故の、自分に対する絶望としての、諦観を描いていると思う。
しかし、諦めることは、レヴィアタンに屈することであるし、冥府・ねはんへの道につうじることであると、私には思える。中川、加子、さとう、片山には、エッツやピアスやI.B.シンガーの持っているような原罪意識がない、そして、人生をありのままに楽しもうとしている。
彼らの作品こそ、人類の新しい文明につながるのだと、私は思うのである。
母・教育・保育・育てること
清水は、灰谷、カニグズバーグ、ハミルトン、ピアスと苦闘した。
それは、清水が乗り越えねばならぬ里程標であったとともに 、教育、保育にあたる者の乗り越えねばならぬ里程標であると、私は思う。
教育、保育にあたる者にとって、教育・保育とはその子どもが真にありたいと願う状態に 、その子どもを到達させてあげる手助けをすることであるからだ。
教育、保育にあたる者が、その子はこうあるはずであると計画するとき、子どもは苦痛を感じる。
教育、保育にあたる者が計画することを放棄し、自我を捨て、その子の意志を感じ自分の行為をその子にたれ流すとき、その子は、その子の真にありたいと願う状態に成長できるのである。
そのためには、私たちはその子どもの日常に接触し、その子どもとクロノス・水平の時間を共有できなければならない。またその子どもと水平の時間を共有しても揺るがないカイロス・垂直の時間を身につけなければならないのである。
このことは、私たちが出会うすべての存在を育てることについても同様である。私たちは、赤ちゃんを育てるとき、あかちゃんの機嫌を観察するものだ。
赤ちゃんの機嫌がよければ、泣いていても、おなかがすいたのか、おしめが濡れているのか、眠たいのか、さびしくてだれかにそばにいて欲しいのか何となく分かる。
機嫌が悪ければ、私たちはとても心配して、熱はないか、うんちの様子はどうか、おしっこの色はどうかなど、おろおろし、自分の母や姑や子供を持っている友達に相談し、その繰り返しが経験となって、少々のことでは病院に駆け込むことなどはなくなるものだ。
機嫌のわるい原因が何となく分かるようになり、どのようにしたら赤ちゃんを気持ちよくしてあげられるか分かるようになるからだ。
私たちは、自分の子どもが喜んでいるのを感じると、自分も嬉しくなるものだ。だから、子どもが喜ぶのを感じ続けていけば、私たちは、子どもと一緒にいるだけで子供の心が開いてしまう存在になれるだろう。
権威のある考え方や、言葉よりも、自分の経験の方が真実に一番近いのだ。……
それを積み上げればよいのだ。人が自分を育てていくということは、簡単なことだ。……
人生の中で出会ったことを自分の時間として積み上げていけばよいのだから。……
そうすれば、他者の喜びを感覚することができるようになり、他者を育てることができるようになるのだから。……
音楽 シューマン Des Abends 夕べに 幻想小曲集Op.12より
絵 愛を語る 愛の言語 未来 クレヨン
1992年3月17日
2000年3月14日 加筆
千葉義行