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不安について思うこと 千葉 啓 
                    愛 1997年3月 クレヨン 千葉義行

なぜ、たかが教習所に行くだけなのにこんなに苦しいのか。甘えからなのか、それとも不登校の再現のようなものか。

いろいろと散々考えて一つわかったことは、「行くこと」が変わることではなくて、「行かないこと」が変わること、ということだった。

今までは「行くこと」が…つまりは「克服」や「(外面的な)前進」が変化だと思っていた。社会通念的に認められる成長路線に必死で乗っかろうとしていたのだと思う。だから無理が生じ、鬱と躁を繰り返し、不安定でいた。自分のペースでなかったとか、心体のバランスが崩れたままだとか、その状態を表す表現はいろいろとある。

だけど「行かないこと」もまた変化だった。行かなくても時間軸に沿って心体は変わっていく。「行く」以上に、必要な“向き合い”を「行かない」状態は提供することが多々ある。

 

けれど結局はどちらも必要なんだと思う。時期によって動き方が違うというだけなんだろう。今の俺は「行かない」を徹底して体験するしかないのだと思う。そこにはいろんな意味があるんだろう。まず、どうしようもなく弱い自分を再度認める作業に取り掛かれ、と言われているみたいだ。…「行くこと」をしていた自分も弱さを抱えながらの挑戦であったし、行く前の「行かない」自分もまた弱かったし。「弱さを認めない無理した行動を振り返って反省しろ。」

でも、それって結局どの人もある意味ある程度無理をしている、ということなのではないか?それを観ろと?まだよくわからないけど、そういう作業なのかな。

多分そうなんだろう。何の保証もないが、勘でそう思う。

「行かないこと」が、ものすごく重大な意味を持っているような気がしてきた。

てか、そういうことはもうすでに言語化してるはずなんだけどなあ。今の時期にもっと体験しろということなのか。もっと深く理解しろと。

 

俺の感覚、間違ってるかな?

2005年12月8日

「行くこと」が変わることではなくて、「行かないこと」が変わること、

そのとおり!

まず、どうしようもなく弱い自分を再度認める作業に取り掛かれ、と言われているみたいだ。

そのとおり!

「行かないこと」が、ものすごく重大な意味を持っているような気がしてきた。

てか、そういうことはもうすでに言語化してるはずなんだけどなあ。今の時期にもっと体験しろということなのか。もっと深く理解しろと。

君はよく理解しているよ。!!

自分の中に起こっている努力の要素に対して自分の体が過剰反応を起こしているんだね。

本当は自分に自然に起こっていることでも、ものすごい回り道をしなければ通り抜けられない。

でも、この回り道をしている自分を理解できなければ自分の肉体のこわばりが取れない。

これは、時間の経過とともにおこることだから、自分は自分の経験をじっと視つづけているしかない。すると、認識が起こり、次に、体のこわばりが取れる。

たかが、自動車教習所へ行くこと、されど、自動車教習所へ行くこと。

昨日は、おばあちゃんのこと、ご苦労さん。

このメールのやり取りもホームページに公開していいかい?

2005年12月7日

いいですよ。

…ばあちゃんはまだ何度でもとらわれると思うけれど、その度に自己認識がしっかりしてきてるみたいだし。言い方はおかしいけれど「生をまっとうしている」感じがする。まあそれは俺にしても、うちの家族全体にしても同じか。

この前父さんが紹介した「項羽と劉邦」と、唯識についての文献を今読んでいます。「項羽と劉邦」はとても読みやすくておもしろい。けれど俺が書きたいものとは一線を画している。村上春樹の小説も理解できるんだけど、俺が表したい事柄と違うものを扱っている。今のところ、一番近い感性はやっぱり遠藤さんかも。

唯識思想はまだ読み途中だけれど、これは読まなければならないらしい。どうも西洋哲学の認識論は、時代的に仏教の後追いの感が拭えない。どちらも結局同じこと考えていたんだね。…西洋の方がぐるぐる思考の傾向が強い、てことなのだろうか。あるいはそうかもしれない。科学という絶対的客観的視点(と思われているもの)が西洋で先鋭的に発達したことも関係している気がする。生をそれでいいと思えない思考の温床…客観視点の礼賛…自我意識の確立…裁判制度の余剰ともいえる支配。頼るべきものとしての外在。まるで自我を強めたように見せて逆に自我を弱めているようだ。

まあ、まだそのくらいしかわからないけれど。

2005年12月8日

…ばあちゃんはまだ何度でもとらわれると思うけれど、その度に自己認識がしっかりしてきてるみたいだし。言い方はおかしいけれど「生をまっとうしている」感じがする。

そのとおりだね。おばあちゃんは少しずつ進化しているよ。

生をそれでいいと思えない思考の温床…客観視点の礼賛…自我意識の確立…裁判制度の余剰ともいえる支配。頼るべきものとしての外在。まるで自我を強めたように見せて逆に自我を弱めているようだ。

そのとおりだ。

2005年12月8日

「生をまっとうしている」いい言葉だね。お母さんもそういう視点で、おばあちゃんを見ていこうと思います。

2005年12月9日

またひとつわかったことは、ひょっとしたら自我が孤立させられたのではないか、ということ。

だから強くならなければならなかった。

いや、だからこそ自我意識というものが芽生えた。一個の存在として自分を認識し始めたから。

そうなると見せかけは強いかもしれない。でも実は脆弱。人とのつながりの中で紡いだ伸縮するゴムのような力強さを呈しない。

母親としての意識、父親としての意識の低下の原因はここにあるのかもしれない。

けれど一個体としての自分の力を認識できたということにおいて自我意識の発展は貢献している。ただ力といっても、強さ弱さ両方含んでいるけれど。

 

だから「ピエロの麗人」か。あれってこういうことだったのか。…なぜあの詩が気に入っているのか今更わかった。ああ回りくどい。

んで、これに気付くための「不安」か。勘弁してくれ。こんな当たり前のことを知るためになぜ命がけなんだ。嬉しくもなんともない。

でも嫌いでもない。だから困る。しかもまだ「不安」であり続けようとしている。まだ見なければならないものがある。

2005年12月10日

この前のメールで、「頼るべきものとしての外在」という言葉をつかっていたね。

「頼るべきものとしての外在」とは「神」のことだよね。

生をそれでいいと思えない思考の温床、まるで自我を強めたように見せて逆に弱めている。

「自我が孤立させられている」のではなく、「自我が孤立してある」と罪(思い込み)しているわけだ。

それで、「頼るべきものとしての外在」・「神」があると罪(思い込み)してしまうのだ。

君の言うとおり、「一個体としての自分の力を認識できた」ということで、自我意識の発達は人類史に貢献している。

ひとりひとりの、全ての人間がかけがえのない役割を持って人類をそして人類が愛してやまない地球という場、そして全宇宙を、支え、維持し、創造しているのだ。

「神」は人間の思考が作り出した罪(思い込み)であるという納得(認識)が、人類の鬱病・悪・罪の連鎖を断つキーポイントとなる。

12月10日

「自我が孤立させられている」のではなく、「自我が孤立してある」と罪(思い込み)しているわけだ。

それで、「頼るべきものとしての外在」・「神」があると罪(思い込み)してしまうのだ。

 

だけど俺はそうした罪すらも「生」の一部だと思う。
「孤立されられている」という感覚も、確かに現前していて(それを罪や思い込みという観点から幻であると説明することもできるが)、その経験を経ることが大事なのだと思う。

実践問題としては相手にいきなりそれが君の悪だと言っても思い込みだと指摘しても、相手がそれを聞ける時期でないとその言葉は素通りしてしまう。(それでも経験の一部にはなるのだから無意味とはいえない。)
そこら辺の配慮が父さんには足らん(断言)。
人は盲目で歩いていても最終的に同じ目的地にたどり着くものだと思う。まあ、結局はどちらでもいいのだが。

「生をまっとうする」なんて当たり前のこと。哲学なんてトートロジーを発見するだけの意味のない学問だ、てヴィトゲンシュタインは言っていたけれど、少なくとも見方として備えれば双方の心は少しだけ軽くなると思う。
論理だけじゃなく浮動する感情も有意味の範疇に入れてしまえば、言葉の本質はとても広く深くなる。…何が言いたかったんだっけ?まあいいや。

ただ神という存在は、まだ必要な時代なんだろう。それでいいじゃん。小説の中で五月だって中学終わるまでとりあえず髪留めが必要なんだから。

12月11日