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     生かされていること

千葉さん 今まで私のメールを本当に辛抱強く読んで下さって感謝します。
 最後に 千葉さん、一つだけ質問があります。
 聖書マタイ16の24中『自分を捨てる』と『従う』はおぼろ気ながら分かり始めたように思うのですが『自分の十字架を背負う』が私分からない。
  私自身がしなければならない重荷?苦しんでいるならば格好何か付けないでイイからありのまま裸の自分のままでイイんだよ、という意味かな?
 千葉さん 分かっていたら教えて下さい。ヨロシク。
 本当に私は自分にギブアップ。情けない。
 でも、やっと息を吐ける様になったのかな?


マタイ16-24
だれでもわたしについてきたいと思うならば、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい。


 「自分の十字架を背負う」ということは、自分の現生での生涯で、自分の役割を果たし、カルマ(業)を認識するということです。
 どの人間にも、人類と宇宙の形成にかけがえのない役割があります。
 しかし、自分のその役割を意識できないために、五里霧中の中さ迷っているのが現在の人間の姿です。
  人間の意識をこのように混濁させてしまったのは、人間が自分の部分的な認識を繰り返し思考してしまったからです。
 「鬱病」という病気がこの構造を作り出した原因になりました。
 「鬱病」の、「〜があってほしいな」「〜があるべきだな」という思いが繰り返されると、この思いがアルコン・天使・悪魔をつくりだし、アルコン・天使・悪魔が自分と他の人間の意識に外から働きかけてしまうのです。

  主・エリアが「人間が互いに愛し合って欲しい」と願って祈ったときに、キリストと精霊が大量に生まれました。
 主・イエスが「人間は互いに愛し合っているのだ。そのことを人間は意識して欲しい。」と願って祈ったときに、阿弥陀仏が大量に生まれました。
 キリスト教の歴史と仏教の歴史は関係し合い、一人ひとりの人間の歴史に出会いや悲しみや苦しみを刻んできました。
  これは、主のカルマから起こった出来事です。

 主自身、エリアとしての生涯の中でバールに使える預言者(とエリアが思った者たち)を殺しました。このことを清算するためにイエスは自分自身を十字架にかけました。

 主がカルマから逃れられていないように、一人ひとりの人間にカルマがあります。
 前生、前前生、で認識し解決できなかった事柄が、自分の体をつくり、他者を動かし、自分の経験の前に現象を起こしてきます。
 このカルマを、自分だけで解決しようとすることは、自我のなせる業です。
 自分の前におこることを、経験し、味わい、認識することです。
 それが、点としての認識をもたらし、それが線になり、面になり、立体になります。
 点としての認識が、人類史全体を見通すアーカシャ意識にまで育ちます。


  だれでもわたしについてきたいと思うならば、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい。


2005年3月19日   千葉義行


音楽
バッハ カンタータ147番コラール
<心と口と行いと生命もて>から
主よ、人の望みの喜びよ