存在認識目次へ戻る

自分の悪・鬱病の本質

親鸞の人生をかけた認識の中心課題は、「自分の悪」の認識にあったと思うのです。
「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや」 の言葉の中には、「自分が悪人である」という深い自覚があります。
世の中や弟子たちや自分の子どもが「こう在ったらいいのにな」という自分の思いはなかなか実現することができません。
自分が強く思えば思うほど、弟子たちや自分の子どもから裏切られてしまいます。そして、自分の思いは世の中に受け入れられません。
自分が権威になって弟子や子どもや世の中を引っ張ろうとすれば、 弟子や子どもや世の中はそれぞれの思考で考えてしまい、お互いを思考であらせようとし、争いあってしまいます。
「なぜ自分の思いは裏切られ、人々は争いあってしまうのか」
この理由は自分が、 「こう在ったらいいのにな」という思いを持ったから、ということ以外にはないのです。
これはまた、主・イエスの苦しみでありました。
イエスは全人類の母でありますから、この苦しみは主・イエスの全転生において繰り返されたのです。

「こう在ったらいいのにな」という思いは、人間なら誰でも持っています。
しかし、この思いが繰り返されますと、家族や友達の苦しみや悲しみや寂しさが自分の心に流入して止まらなくなり、深い鬱病やリューマチが起こってくるのです。
深い鬱病の体験をしてみますと、 「こう在ったらいいのにな」という思いは、私の中で常に繰り返されていました。
会社をやめてこどもの本屋を始め、保育所や障害児の訓練施設などを回り始めてから、「うん、そのままでいいのさ。みんな一所懸命に自分の道を生きているんだなあ」という思いがしっかり起こりました。すると、うれしくなって腹の底からの笑いが起こるようになりました。
すると、私の体からしびれや重苦しい鬱が短期間でなくなっていきました。

「こう在ったらいいのにな」という思いが、また、「悪」の本体なのです。
「こう在ったらいいのにな」と思えば、他者をそのようにさせようとしてしまいます。すると、他者は自由を奪われます。
「悪」とは「他者の自由を奪うこと」なのです。
「他者の自由を奪うこと」が起こりますと、他者は思考や論理で考え始め、他者本来の認識を意識できなくなってしまいます。
すると、他者はどんどん利己的になって争い始めるのです。

「他者の自由を奪わずに生きる」生き方は、「世の中はこのままでよいのだ」ということを悟り認識することによってしか実現できません。
大乗仏教の中観派の大切な認識に「世間安立」(世の中はそのままで安らかに立っているのだ)があります。
主・イエスから中観派を通し浄土真宗へ流れる人類の大きな認識形成の流れを私は感じるのです。

悪とは、「他者の自由を奪うこと」なのです。
この意味では、「自分と他者に愛することをもとめる」キリスト教はまさしく悪の固まりなのです。
自分と他者の生き方の自由を奪っているのですから。
「愛すること」を大切に思う気持ちがいけないことであると私がいっているのではないことはよく確認してください。ですから、キリスト教をいけないものであるとは私は言っていません。私はむしろキリスト教の信仰のもとにある人々を深く愛しているのです 。
「自分と他者に愛することをもとめる」ことが必要なのではなく、「それぞれの人間がそれぞれの仕方で愛していることを意識し認識できればそれでいいのだ。」といっているのです。

キリスト教の悪は、もちろん主・イエス自身の悪から起こったのです。
主・イエスがエリアであったときに、「ひとりひとりの人間がお互いに愛し合って欲しい。そして愛することを意識して欲しい」という鬱病・悪が起こりました。
そして、自分の思いを叶えようとする当時の予言者たちを怒り、殺してしまいました。
主・イエスは自分の子どもを殺したカルマを背負って生き、そのカルマを清算するために自らを十字架にかけたのです。

イエスであったときの主は、エリアであったときに自分の子どもたちの一部を殺害したカルマを解消するために自分自身を十字架に架けたのですが、イエスの人生自体はとても楽しいものでした。一人一人の自分の子どもたちとの出会いと変化をイエスは楽しむことが出来たからです。
そして、子どもたちがそのままで愛し合っていることをイエスは肯定することが出来たのです。
すると、主・イエスに「この世の中はそのままでよいのだ。そのことを子どもたちが意識して欲しい」という鬱病・悪が起こりました。
これにより、主・イエスの生の500年後に大乗仏教が起こったのです。
大乗仏教の中観派の中心の認識は「世間安立・世間はそのままで安らかに成り立っている」ということにあります。
主・イエスの行為体である存在は、エリシャ、使徒ヤコブ、無着(中観派をまとめた人)、親鸞、として転生しました。

シュタイナー派とイエスとの出会いは、クムラン修道院で起こりました。
シュタイナーは、イエスとクムラン修道院との出会いを、「クムラン修道院の門は悪魔が外から入ってくるのを拒んでいた。また中が清かった」「イエスはクムラン修道院が清すぎると思った」と霊視しています。
今の私も、シュタイナー派に対しては、全く同じ印象を持っています。
中が清いのは、そのままで良い認識がそこにあるからです。
しかし、そのままで良い認識でも、それを自分と他者の意識にあらせようとすれば、それは「悪」を作り出してしまいます。
「この「悪」が、シュタイナー派においては、ルツィフェルの方向に引っ張られる現象となって現れてきます。

シュタイナー派の緊張は、
「自分の意識を在らせようとする鬱病」
「自分の肉体を在らせようとする鬱病」
「自分の意識への過度の神経症」
「自分の肉体への過度の神経症」
にあるように思います。
そして、 「自分の肉体を在らせようとする鬱病」は、はげしい「世間や他者の意志への共感と代行(リューマチ)」をもたらしていると感じるのです。

シュタイナー派のルーツには、死海文書派の他に儒教があります。
現在のシュタイナー派の方々の転生をたどるとこの系譜が見えてきます。
孔子は主・イエスの超行為体です。
主の行為体である親鸞は自分の認識を経験を通して開いていくという姿勢を貫いている訳ですが、 主の超行為体である孔子は、「自分の意識を在らせようとする鬱病」「自分の意識への過度の神経症」「自分の肉体への過度の神経症」があるために、現実の世界に緊張しその世界を在らせようとしてしまうのです。
すると、道徳や倫理で人間の思考を起こそうとしてしまうのですね。
「論語」を丹念に読みますと、「そうだ、そうだ」と思うことは多いのですが、「それを、自分とみんなにさせようとしている」態度に出会うと、私は情けなく思ってしまうのです。
シュタイナー派の霊学は主の超行為体の緊張から深い影響を受けてしまっているのです。

私は、シュタイナーを勉強なさっておられる方々に出会う機会が多くあります。
皆さんの真摯な態度と認識の深さと純粋さを感じそれを深く愛しています。
しかし、皆さんの認識はそのままで良いものであり、自分が他者と世間の成長を「待つ」ことができれば、自然に実現してくることなのです。

音楽

バッハ
平均律クラウィア曲集U]]V
フーガロ長調

2001年8月28日

千葉義行

ページ先頭へ戻る