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すべての人間は自由である

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右 自由2001年 クレヨン

1.『規則から自由へ』『管理から自由へ』

O養護施設の報告会が10月末に行われた。
150名ほどの外部のお客様を迎えて園児たちは自然に振舞っていた。
昨年は半数近くの子ども達が恥ずかしがって出てこなかったが、今年は9割近い子ども達が出席していた。

園長先生のご挨拶、
「私どもは、1年半前に、新生のO養護施設を出発するにあたりまして、『規則から自由へ』『管理から自由へ』を指針として掲げ、今までやってまいりました。
子どもたちにとっても、職員にとっても、今までは規則や慣例で決まっていたことを自分の意志で決定して行うということは、大変な意志の力を要することでありまして、始めは、不登校になる子どもたちや不規則な生活になる子どもたちが続出しましたが、職員もひとりひとりのこどもたちの気持ちを聴いて一人一人の子どもたちが納得するのを待つという忍耐の作業を重ね、幼稚園、小学校、中学校の先生方との連絡とお互いの意志の疎通も重ねまして、現在にいたっているのです。
おかけさまで、不登校のこどもたちは現在はほとんどいない状態となりました。」

2.なぜ管理を生み出そうとするのか

昨年6月、私がO養護施設に通い始めた始めの頃に、『なぜ、この施設で暴力が起こったんだろうか?』という、新しい園長先生の問いに、
わたしは、
「他者を愛することができない子どもを許すことができなかったんですよ。
前の園長先生は自分ががんばって生きていらっしゃったから、自分のようにがんばれない子どもが許せなかったんでしょう。 だから、叩いちゃった。
この構造は、日本全国の教師の暴力が問題になるケースのほとんどに該当しますよ。
暴力をふるったとされている本人たちは、裁判でも自分が悪かったとは思っていないのではないでしょうか。
悪いのは子どもたちであって、今自分が叩いても直して上げなかったらこの子たちは悪くなるだけだと思っているのではないでしょうか。
子どもたちがけんかをするときも 、お互いに相手が悪いと思っているのですよ、
今、前頭葉に傷があるこどもたちのことが話題になっていますよね、ADHDのこどもたちのことです。
彼らは、小脳に起こる『〜が在って欲しい』と思う気持ちを前頭葉の思考で繰り返してしまうんです。
すると、激しい頭痛が起きてきたり、発熱とともに前頭葉に焼け付きができADHDとなったり、いらいらして他動になったりするんですね。
このこどもたちは、自分の思いと他者の思いが区別つかないために、他者を自分の思いで動かそうとしてしまうんです。
すると、他者はなかなか自分の思いどおりに動かないから、パニックを起こして地団太を踏んだり、ひっくり返ったり、頭の上から響くような声を出すんです。
この上に、叩く、蹴る、噛む、怒る、の行為障害がありますと、……まあ叩いちゃいますね。……
『大人であるから、思考力で自分を押さえることができるから、……前の園長先生がやってしまったことは考えられない。 とにかく、暴力行為をなくさなければならない。』
と言う発想ではこの問題は解決しないのです。
本質的な問題は、『人間が思考を繰り返している。思考を繰り返してしまうと、思い込み・罪が起こり、他者の思いが自分の意識に届かなくなる。自分の本当の思いも自分の意識に届かなくなってしまう。』ということにあるんです。
僕はこれをコミュニケーション障害と呼んでいますが、広義の自閉症や脳性麻痺や鬱病や神経症であると考えていいのです。
今の時点で、こういう精神障害の話をすると、ひとりひとりの子ども達の精神障害を決め付けていると捉えられ、反発する気持ちが起こる方が多いことは私もよく感じているんですが、もっと踏み込んで、
園長先生や僕自身や職員にあるコミュニケーション障害を見つめることが大切なのではないでしょうか。
ユング派の精神分析医達が自分自身の精神分析を受けることを大事にしていたり、シュタイナー派が自分の心の歪みを直視しようとしているような精神的態度が非常に大切だと思いますよ。彼らのこのような一面を僕は深く尊敬しています。
『子ども達の世話をしようという意志を持っているた私たち自身に、子ども達の心を歪んで聴いてしまったり、自分の本当の気持ちが聴こえなくなってしまったりする、経験が起こっている。』という認識ですよね。
『全体の生活の規律にとらわれていると、ある子どもがその規律の一面の道徳的価値観に反発していることが分からなくなる。』とかね、そのこがその規律が自分の生活のリズムでそのままでいいもんだと感じられれば、その子の感情が納得するんですがね。
先生の方の『全体の規律に自分を合わせなければならないと思う』痛風や神経症が治れば、こどもたちは非常に楽になりますから、そのこにあった『押し付けられる道徳が嫌い』という鬱病やADHD系の脳性麻痺の緊張が早く治ってきますよね。
先生方が子どもから反発を受けたときに、『僕はこの子を誤解しているんじゃないかな……」という反省が起こったり、子どもの気持ちを理解できていない場合に『まてよ、ゆっくり待っていればこの子の気持ちが分かるはずだ』と思えると、先生方の成長が早くなるんですよ。
先生方が『自分自身にコミュニケーション障害があるんだ。 でも、人生の経験の中で自分のコミュニケーション障害に気付きそれが治っていくのだ。』という認識をしっかり持てるようになれば、先生方自身が子どもたちのコミュニケーション障害をもっと専門的に治せるようになるんですよ。」
と、答えた。

3.治療教育の実践

4.17 5.23 8.21 9.15
9.20 10.16 10.27 11.20

今年の4月から、2才から年中児までの生活の面倒を見ているO養護施設の幼児部とチームを組んで生活と保育の指導をしてきた。
上の写真は、LD・視床の微細障害があると思われる子どもの3才4ヶ月から3才11ヶ月までの表情の変化を私が記録したものである。
4月の段階では、『どうして……』『いやだ……』 と叫ぶと頭を床にがんがん打ち付ける自傷行為があり、高いところが好きで、目が細く、肩車を要求すると同じコースをぐるぐる回る様に命令する反復の行為があり、他の子どもたちと遊ぶことができなく、絵本にもわらべうたにも興味を示さず。……
これらはLD・視床の微細障害が在ることを示していたのである。
8月に動物のミニ積み木を美しく並べて遊ぶ姿が始めて見られた。
9月に幼児部では職員がおんぶに取り組んだが、おんぶをすることにより急速に職員に身を預けることができるようになった。
10月にはじめて絵本を読んでもらうことを楽しみにできるようになった。
11月にはじめて他の子と手をつないでわらべうた「いちばちとまった」を行った。
現在彼は、自傷行為をすることがまったく見られなくなった。また、目じりが引っ張られたような細い目をすることが無くなり、目はまん丸になっている。

私が2週間に1回のペースでO養護施設に通い、こどもたちに静的フォルム治療(整体)と動的フォルム治療(治療オィリュトミー)でかかわる一方で、O養護施設の幼児部の職員と私は、
まず、『子どもたちの体に心臓のリズムで働きかけ、自分の体がうれしいと言う気持ちを伝える』ことから始めた。
「ここはてっくび てのひら」
「おでこさんをまいて めぐろさんをまいて」
「おふねはぎっちらこ」
「せんぞうやまんぞう おふねはぎっちらこ」
「いちばちとまった にばちとまった」
「たんぽぽたんぽぽ むこうやまにとんでけ」
「ずくぼんじょずくぼんじょ ずっきんかぶってでてこらさい」
「おやゆびねむれ さしゆびも」
少ない数のわらべうたの素材で、子どもたちの体を触りながら繰り返し歌ったのである。
すると、こどもたちがにこにこする時間が増え、こどもたちと職員の1対1の信頼関係が確立してきた。
顕著な変化は、これまで幼児たちはO養護施設に来た外部の見学者などにだれかまうことなく「だっこして」と言っていたのだが、9月頃から外部の見学者には「抱っこして」と言わなくなったのである。
幼児たちは、自分が信頼している人にしか身を預けなくなった、いや、信頼して身を預けることの喜びを意識できるようになったために、「抱っこという形が起これば自分はうれしいはずだ」と言う思い込み・罪がなくなったからなのである。

次に、言葉の絵本を繰り返し読んだ。
「ころころころ」元永定正 福音館書店
「まるまる」中辻悦子 福音館書店
「がちゃがちゃどんどん」元永定正 福音館書店
「もこもこもこ」谷川俊太郎・元永定正 文研出版
「ひまわり」和歌山静子 福音館書店
「まどからおくりもの」五味太郎 偕成社
子ども達は外の環境に対して怯え、恐怖を持っている。
怯え、恐怖を持っているから、外の環境に対して命令し動かそうとしたり、外の環境が命令しても動かないと言う現実のまえに絶望してしまうのである。
外から聞こえて来る、音や、色や、形や、においや、ざらざら・ぬめぬめ、さらさら、すべすべ・という触覚がそのままですてきじゃない……
晴れればお外で遊び、雨が降ればお部屋で職員と折り紙を折ったりお絵かきしたり、粘土遊びをしたりお歌を歌ったり、わらべうた遊びをしたり。
子どもたちの栄養となる絵本とその言葉は、自分たちの感覚していることを言葉として生き生きと肯定してくれるのだ。

6月から、絵画の指導を始めた。
水彩画 「たくさんのいろづくり」
     「にんじん」
     「いか」
     「おりづるらん」
     「ざりがに」
     「かきのき」
クレヨン 「にじ」
@すべての色は、赤と黄色と青と白と藍色の微妙なバランスでできていること。
A生命の育つ方向に筆を走らせると生命を描くことができること。
この二つの体験を積み重ねることによって、『 他者から自分に響いてくる感覚を、他者の生命が存在しているままに自分の意識の中で再構成し表象する』ことができるようになるのである。

7月から、わらべうたで
「えんやらもものき ももがなったらだれにやろう」
「ももやももや ながれははやい せんたくすれば きものがぬれる」
「ゆうびんやさん えっさっさ」
「おちゃをのみにきてください」
などの、お互いの関係(あげる、もらう、かたずける、してあげる等)を歌ったものを取り上げるようになった。
すると、子どもたちの一部が喜んで遊ぶようになり、ついで側で見ていたこどもたちが少しずつ輪の中に入るようになったのである。

絵本等の言語においては、
パネルシアター「こぶたのぽんくん」増田裕子作
かみしばい「ごきげんのわるいこっくさん」まついのりこさく 童心社
「ノアのはこぶね」ルーシーカズンズ 偕成社
など、自分自身を肯定するストーリーや他者の気持ちの変化を肯定するストーリーを持つ絵本を読み込んだ。

4.コミュニケーション障害

神経症を持っている子ども達は、他者の怒り苦しみなどの緊張を強調して感覚してしまう。
LD・視床の微細障害を持っていたり視床に緊張のあるる子ども達は、他者と出会うと他者の感情の一部に過剰に反応し自分の感覚の一部を閉じてしまう。
ADHD・前頭葉の微細障害を持っていたり前頭葉に緊張のある子ども達は、他者を動かそうとしたり、環境を動かそうとしたりし、外側の世界が動かないことで苛立ち、絶望する。
てんかん・脳梁の微細障害を持っている子ども達は、自分の体や意識を無意識から作ろうとする緊張を持っている。
脳性麻痺・小脳もしくは脳梁の微細障害を持っている子ども達は、自分の体や意識を自分の意識で動かそうとする緊張を持っている。
リューマチ・リンパ液、脾臓系の循環障害を持っている子ども達は、他者の意識を共感しようとする緊張を持ち、他者の意識を自分の意識や体で代行してしまう。
分裂病・神経系統の循環障害を持っている子ども達は、意識の中で循環を起こし深い思い込みが起こったり、体の形成で循環を起こし知恵遅れや霊媒体質を起こしやすい。
鬱病を持っている子ども達は、自分の認識を他者や環境に在って欲しいと思う。すると、なかなか自分の思いが実現しない現実の前に苦しむ。そして、他者の悲しみや苦しみ、怒り、さびしさ、わびしさを強調して感覚してしまう。

これらのコミュニケーション障害に共通して言えることは、
@感覚しようとする意志に緊張があると、自分の体に響く感覚を肯定できなくなる。すなわち、自分を肯定できなくなる。
A意識を纏めようとする行為に緊張があると、他者の意識と自分の意識そして他者の集合としての世間の意識の区別が付かなくなり、他者と世間の意識を自分の意識で判断するために、他者と世間・環境を肯定できなくなる。
この2点なのである。
@は、神経症の特徴を顕著に現し、Aは、鬱病の特徴を顕著に現し、他のコミュニケーション障害は@とAの複合として起こっている。

5.自分の肯定と他者の肯定と世間の肯定

「どうしてー」「だめだー」 この二つの言葉が、はじめの頃、養護施設の子どもたちの口から繰り返された。
同じ言葉は、不登校のこどもたちからも繰り返し聞こえてきた。
また、この子どもたちの親たちからも繰り返し聞こえて来たのである。
10年以上不登校をやっている子どもたちやその子と付き合ってきた親の一部からは、このごろやっと「不登校の経験をして良かったね」 ということばがではじめている。
「不登校の経験をして良かったね」 という認識が起こったときに、体と意識の緊張がとけ、「どうしてー」「だめだー」と言う思いが消えるのである。

私はO養護施設の職員に、
@子どもたちの気持ちを正面から聴きつづけること。
Aひとりひとりの子どもを正面から尊敬すること。どんなに自分勝手に見える子にもその子なりの理由がある。その理由は多くの場合それでいいものなのだ。その子の役割がそこにあるから、その子がそれにこだわるのだ。
Bひとりひとりの子どものリズムを聴きそれに自分が乗ること。
C全体の子供たちが作るリズムを聴きそれに自分が乗ること。
D自分が「なぜその子がそのような行為や行動をするのか」や、「じぶんが何をやったらよいか」が分からなくなったら、無理して考えないこと。ノートに書き留めておくなりして、『あっこういうことだったんだ』『私はこれをやろう』とはっと気付くまで待つこと。
この五つを繰り返し話した。

子どもたちの体と意識が元気になり楽になってきたことは、いまやどの職員も自覚している。
ひとりひとりの職員が自分の役割を楽しんで行っている。それは、自分の役割を行うことでこどもたちがしっかりと元気に変化してきたことを自覚できているからだ。これは、自分の肯定である。
職員にとって、ひとりひとりのこどもたちを尊敬することは、他者の肯定である。また、同僚のやる仕事をじっと見守り尊敬しそのリズムを聴き自分がそっと手助けしていくのは他者の肯定である。
職員にとって学校幼稚園との関係、父兄との関係、病院やその他の施設との関係がうまく流れるようになって来たのは、O養護施設という自分たちの世間を肯定し、その外に広がる人間の営みから起こってきた世間を肯定しているからである。

6.すべての人間は自由である。

そもそも、すべての人間は自由なのである。
「どうしてー」「だめだー」と思うと自分に自由がないように思うのだ。
@感覚しようとする意志に緊張があると、自分の体に響く感覚を肯定できなくなる。すなわち、自分を肯定できなくなる。
A意識を纏めようとする行為に緊張があると、他者の意識と自分の意識そして他者の集合としての世間の意識の区別が付かなくなり、他者と世間の意識を自分の意識で判断するために、他者と世間・環境を肯定できなくなる。
この2つが原因で自分と他者と世間・環境が肯定できなくなると、自分と他者に自由がないと考えてしまうのだ。

自分が生きていることで他者の緊張がほぐれ楽になるのを経験できることは幸せなことだ。
この経験があれば、自分と他者を肯定できる。
そのとき、人類の中で自分の創造が起こったことを自覚できる。
そのとき、そのひとは自由であるのだ。

音楽

シューマン リーダークライスより
Wehmuth・悲嘆

メリー・クリスマス  すべての人々が平和と自由を自覚できる時代がそこまできていることを祝って

2001年11月27日

千葉義行

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