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かわらぬ言葉  

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 お手紙をいただきとても喜んでいます。
 シュタイナーの中でも一番重要な認識を引用なさっておられ、うれしく思います。

 ひとつの方法とは、他の人々との関係で起こったできごとを人生を通して検証し ながら、今の人生を何回も振り返ってみる、ということです。
このことに正直であれば、 ほとんどの人は次のように言うでしょう。
多くの人々が我々の人生に関わってくるのを見 る今日的な方法とは、我々が我々自身を、つまり我々自身の個性をその中心に据えて見 る、というようなものだ、と。
自分の人生に関わりを持ったあの人やこの人から自分は何 を得たのだろうか?
 これが私たちの自然な感じ方です。私たちが戦わなければならない のは正にこのことに対してです。
私たちは先生や友達のような他の人々、私たちを助けた り、私たちを傷つけたりした人々のことを(ある観点から言うと、私たちのために役立っ た人たちよりも、私たちを傷つけた人たちに対して、私たちはしばしばより多くのものを 負っています)、私たちの魂において考えてみなければなりません。
それぞれの人が何を したのかを見るために、それらの場面をできるだけ生き生きと魂の前に思い描くようにし てみるのです。
 この方法で先に進むならば、私たちは、自分を徐々に忘れるというこ、つまり、本当 は、もし私たちの人生に影響を及ぼしたあの人やこの人が私たちをずっと助けてくれた り、何かを教えてくれるということがなかったとしたら、そもそも私たちのそれぞれの部 分を構成するほとんどすべてのものはそこにはなかったのだ、ということを理解するよう になります。
もし、私たちが昔の人々を、つまり、もはや接触がなく、客観的に眺めるこ とがより容易な人々を振り返ってみるならば、私たちの人生の魂的な実質がいかに過去の 人々や状況によって創り出されてきたか、ということを理解するでしょう
そのとき、私 たちの視線は時間の経過の中で知ることになった多くの人々にまで広がっていきます。

R.シュタイナー「社会的な力と反社会的な力」より

 私は、シュタイナーの「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」を読んだときに、Sさんが引用なさったこのシュタイナーの基本的態度に深く感動したのです。
 シュタイナーは「霊学で1歩進むためには、道徳で3歩進まなければならない」と言っていますが、Sさんの引用なさった部分は、まさに、いかに道徳(人間関係における基本認識)を認識するかを述べているのです。
 「私たちの人生の魂的な実質がいかに過去の人々や状況によって創り出されてきたか、ということを理解するでしょう」 とシュタイナーが述べている部分は、私が経験と呼んでいる部分です。
 「内観法」では、「自分が過去に他者からお世話になったこと、自分が他者に自然にしてあげたこと」を、現在からさかのぼって記録していきます。
 すると、他者が自分を愛してくれたことと、自分が他者を愛していることを自覚できるようになるのですね。
 「内観法」は日本で始まったものですが、今引用しているシュタイナーの基本的態度とまったく同じものだと思います。
 私は、1989年に徹底して「
他の人々との関係で起こったできごとを人生を通して検証し ながら、今の人生を何回も振り返ってみる、」ことを実施しました。

 私がお世話になったこと、妻との関係、子どもたちとの関係、会社の上司との関係、会社の他の部門の方々との関係(私は勤労とか研修とか福祉を担当していましたから、技術者、営業関係者、現場の作業者の方々と3000人ほどの方々とのお付き合いがあったのです)。
 何でもないこと、いっしょに食事をして、食事を作ってもらって、〜をしてもらって、〜をして、ということがお世話になっていることだし、お世話していることなのですね。
 そして、いろいろ心配してくださる。私は会社勤めのあいだじゅう深い鬱病の中にいましたから、ある上司は深く心配してくれました。
 世話してもらっている、心配してくださっていることは、私が深く愛されていることを現しているのですね。
 私の方も、深い鬱病で体も心も動きが鈍くなっているのですけれども、皆さんといっしょにいようとしているのです。その私を、そのままで受け止めていてくれている方々もいるのですね。
 それは、私が皆さんを愛しているからなのですよね。

 しかし、他者に自分が傷つけられたと思ってしまった自分が思ったことも起こっているし、自分が他者を傷つけてしまったことも起こってしまっているのですね。
 ある上司は私にさせようとするのですね、寮生の生活のある管理なのですが、私はその理不尽さを感じやりきれなさを感じ仕事の面では何もしない・サボタージュしてしまうのです。
 私は当時その上司が嫌でした。
 しかし、たんねんになぜその上司がそうしたのか、私がなぜ嫌でたまらなかったのか、を思っていると、
 まず、私自身が「人間は自由であるべきだ、寮生の自治は寮生自身で行うべきだ、」と理想で考え、上司にその理想を実現してもらいたいと思い、それを上司にさせようとしているからなのですね。これは、私の鬱病と脳性麻痺からおこっているのです。
 その上司は、私に関心を持っているのですね、そしてちょっかいをだしてくる。そのちょっかいが上司と部下との関係を動かしてくると部下の方が苦しむのです。
 その上司は部下の心を理解する能力に少しかけていました。そして、私も彼の本当の衝動を理解しそれをじっと待つにはまだ幼かったのです。
 1989年の作業では、会社の中でその上司のこだわっていることが、私がこだわっていることに一番近かったのだなあ。だから、彼が嫌いだったのだ。という結論に至りました。
 その上司はある面で私の鏡像でした。
 私は、けっこう人を引っ張る立場にたちたがるのです。そして、他者を動かそうとしてしまうのです。これを治す為に、深い挫折と鬱病の経験が起こったのです。
 私は会社で起こった嫌な出来事をたんねんに思い返していきました。
 すると、三角や四角の関係でそれぞれに誤解が起こっていることに気付き始めました。
 それぞれの方の誤解・コミュニケーション障害の起こり方にはパターンがあるのですね。
 その誤解・コミュニケーション障害が組み合わさってくると誤解の振幅がだんだん激しくなるのです。

 このようにして、「他の人々との関係で起こったできごとを人生を通して検証し ながら、今の人生を何回も振り返ってみる、」ことだけで、出会った方のこだわりがよく分かるようになりました。
 そして、出会った方の体を触るとどこに緊張があるか分かるようになり、どのように触ったらその方の緊張が取れてくるかが分かるようになったのです。

  私たちはさまざまな経験をします。
  それは、喜びに満ちた経験だけではなく、苦しみや、悲しみの経験も起こります。
  この経験は、自分という個人にとってみれば、必ず外の世界から自分に対して起こってくるのですね。
  物質的な外界がなければ自分の経験は起こらないのです。
  他者にとってみても、他者の経験は他者の外界から他者に向かって起こるのですね。
  物質的な外界がなければ他者の経験は起こらないのです。
  物質的な外界とは、私と他者が経験を共有するための場であり、私の言葉であり、他者の言葉であり、私と他者を生んだ主の言葉なのです。

  「他の人々との関係で起こったできごとを人生を通して検証し ながら、今の人生を何回も振り返ってみる、」ことが、「自分の経験を自分の意識に表象しそれをまとめる作業」の中身です。
 これを行いますと、 「自分の経験を自分の意識に表象しそれをまとめる作業」を行った人同士が共通の言葉で会話をすることができるようになるのですね。
 すると、 「自分の経験を自分の意識に表象しそれをまとめる作業」を行った人同士には、誤解が起こることが少なくなるのです。

 「 「悪」(の可能性)が人間に「自由」を付与したのだ」とおっしゃるSさんの言葉にはさまざまな意味があると思います。
 「悪」(の可能性) とは、「自分が世界を創造することに緊張すること」ですから……

 「自分が世界を創造すること」 は、自然に絶えず起こっているのです。
 どんな人間でもこの世に生まれてうれしい経験は起こっているのです。その人が喜べばその人を生んだ母親は喜んだでしょう(それが無意識の中であったとしても)。ですから、その人は、その人を生んだ母親を創造しているのです。
 保育や教育の現場にいる方々ならば、自分が子どもたちといっしょにいることによって子どもたちに喜びが起こった経験は必ず持っていらっしゃるでしょう。そのとき、その方は、子どもたちを創造しているのです。そして、子どもたちはその方を創造しているのです。
 しかし、一般の人々はそうは思いません。自分に起こった喜びも、さなざまな思いでかき消されてしまいます。
 しかし、この喜びがその人の栄養となって絶えず成長が続くのです。

 「自分が世界を創造することに緊張」しますと、自分の認識を他者や世間に実現しようとします。
 すると、民族や国家が分かれ、宗教が起こるのですね。科学技術の暴走もここから起こったのです。

2001年9月3日

千葉義行

音楽

或る風に寄せて    立原道造作詞・三善晃作曲

おまへのことでいっぱいだった 西風よ
たるんだ唄のうたひやまない 雨のひるに
とざしたまどのうすあかりに
さびしい思ひをかみながら
おまへのうたった とほい調べだ―
誰がそれを引き出すのだろう 誰が
それを忘れるのだろう……さうして
おぼえていた をののきも ふるへも
あれは見知らないものたちだ……
夕ぐれごとに かがやいた方から 吹いて来て
あれはもう たたまれて 心にかかっている
夕ぐれが夜にかはるたび 雲は死に
たそがれて来るうすやみのなかに
おまへは 西風よ みんななくしてしまった と

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