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北の国から・かさじぞう

 

音楽

ニコラス・ヴァレー 1618
テーマと変奏

右の絵にカーソルを合わせますとミディで音楽が流れます。

夕べ、「北の国から98」のテレビ放送を見た。
わたしはこのことろ、ドラマを見ることができないでいた。
ドラマを見ると、作者や演出家の大脳の中の思考が見える、それがたまらなく嫌だったからだ。
「北の国から」も、わたしは目をそむけ続けていた。

五郎や純や正吉は、常に耐えながらいき続けている。
自分の愛情を注いでも、注いでも、愛する対象が幸せにならない。
五郎の亡くなった妻にしても、蛍にしても、妹にしても、そうたにしても、かんたにしても、
自分の大脳の思考が起こると自分の本当の感情を否定してしまう。
蛍が真に愛しているのは正吉なのか、分かれた恋人であるのか?
結婚という事実が蛍が本当に愛しているのは正吉だということを示しているが、蛍の大脳の意識はそれを納得していないであろう。
蛍が自分は幸せであると納得(自覚)できないと、正吉や五郎の愛情は『注いでも、注いでも、愛する対象が幸せにならない』ということの繰り返しになるのである。

これまで私は、作者である倉本さんの思考に絶望の影を感じていた。
オーム真理教や、さかきばらせいと事件、神戸の事件、長崎の事件に共通する、人間が存在すること自体に対する絶望。
愛することが報われないと思う絶望。
しかし、昨夜は通してみることができた。絶望が癒されたことを感じた。
愛は待つことである。

2003年12月19日

1月には、子供たちの前で「かさじぞう」を演じようと人形作りを続けていたがやっと完成した。
「かさじぞう」をつくりながら、おじいさんとおばあさんそして宝に実在感があるのだが、おじぞうさんには実在感がないことに気がついた。
おじいさんとおばあさんは、つつましく自分たちのできるだけの生活を繰り返し続けているのだが、自分たちの思いがなかなか世間に実現しない。(まちにかさをうりに行くが売れない)
帰り道、道ばたに雪をかぶった六地蔵を見つける。
六地蔵は、人間の断片的認識を表している。人間は、生活し経験すると「あっ、〜は〜ということなんだ」という認識が生まれるが、それを自分の生き方として努力しようとしたり、他者にその生き方を押し付けたりする。すると、それは思考となりルールとなって人間の集団(宗教、国家、民族)を支配するようになる。
思考は、断片的認識であるから、そのものでは全体的認識にはいたれない。
それゆえ、ヘラクレイトスが嘆息するように、時代とともに、思考が作る文化や民族や宗教や国家は生成流転する。
「ああ、むごいことよのう」というおじいさんの言葉は、生成流転する人間の思考に向かっての憐れみの言葉であるのだ。
しかし、待つことによって、経験することによって、それぞれの人間の認識の断片は、それでよい人間関係を物質的この世界にもたらしてくる。
それが、宝なのだ。

北の国から最終章において、五郎に幸せがおとづれる。
純が現実から目をそむけることをやめようと決意し、結との結婚を決意し、麓郷に帰ってきたこと、蛍が山奥の工事現場にいる夫のそばにいようと決意したこと。
「これからは、純も蛍も一人で歩くことができるであろう」。このことが、五郎の幸せであり、宝であるのだ。

「2000年期とは何であろうか」、「ハルマゲドンとは何だったのであろうか」。
「ハルマゲドン」とは、オーム真理教の事件や原理主義の宗教活動に典型的に見られるように、「人間が存在すること自体に対する絶望。愛することが報われないと思う絶望。」から、人間が自己否定を起こし、自分の生きる基盤である地球を破壊してしまうことに対する恐怖であったのだ。
「北の国から」の20年の歴史は、「人間が存在すること自体に対する絶望。愛することが報われないと思う絶望。」の中にいて、自分の切ない思いが実現できないと思い続けていた五郎が、自分の思いが他者の中に生きていることを発見し、自分を肯定する歴史であった。
2000年という人類の大切な節目を通り越したがゆえに、倉本さんはこの最終章を描けたのだと思う。

2003年12月23日

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