ラロンはヒンドゥーかムスリムか?

―バングラデシュの宗教詩人フォキル・ラロン・シャハの出自論争について:バングラデシュの聖者信仰(5)―

 

<目次>

はじめに

1 フォキル・ラロン・シャハ

2 『ヒトコリ』誌におけるラロンの生涯

3 タゴールとラロン・シャハ

3 伝記的事実の形成

4 フォキル・ラロン・シャハの生涯

5 異説の誕生

6 論争の時代

まとめ

 

 

はじめに

 フォキル・ラロン・シャハ(1774?-1890)は、ベンガルを代表する農村の宗教詩人として知られている。そのラロンを祀る聖者廟は、バングラデシュの西部、クシュティアの町の郊外に建てられている。1998年2月に、私はこのクシュティアのラロン・シャハの聖者廟を訪れる機会を得た。

 すらりと天に伸びた大きなドームを頂くラロンの墓廟は、清々しく清楚な佇まいを見せていた。ただこの聖者廟は、ベンガルで今もとても人気のある聖者の廟としては、こじんまりとした印象があった。がらんとした大きな境内の割には、その聖者廟は、何故か打ち捨てられた庵のように、不釣合いな姿を見せているのである。境内の奥のいくつかの付属施設を除くと、あとは芝生の植えられた吹きさらしの敷地が広がっていることも、何故か聖者廟の佇まいを、がらんどうのように見せていて、少々物悲しい雰囲気さえ醸し出していた。

 聖者廟の広場には、付近の村人たちがたむろしていた。芝生に座ると、しばらくその村人たちと、オシャベリをして過ごした。そのうちに村人のひとりが楽器を手にすると、ラロンの歌を聞かせてくれた。近所の村人が好きで歌っている姿は、伸び伸びと楽しそうで、歌声にも張りがあった。やがて次々と、車座になった村人が、ラロンの作った様々な歌を聞かせてくれた。皆一弦琴を爪弾きながら、楽しそうに歌声を上げる。歌ううちにお互いに打ち解けてきて、互いの身の上話をするようになった。

 四方山話に花を咲かせているうちに、気になったことをひとつ尋ねて見ることにした。聖者ラロン・シャハは、一体イスラーム教徒なのか、ヒンドゥー教徒なのかという問いかけである。インドのシャンティニケトンでも、ダッカの大学の先生にも、この問いかけを私は繰り返し尋ねてみた。だから、そもそもこのラロンの聖者廟の回りで暮すクシュティアの人々が、この問いかけにどう答えるのかはとても興味があったのである。

 

「ラロンはヒンドゥーの家に生まれたけれど、後でイスラームに改宗したという人がいる。でももう一方では、ラロンはヒンドゥーやイスラームといった既存の宗教にはとらわれない自由な宗教詩人だったと言う人もいる。実際には一体どうだったのだろう」

 

 すると、そこにいたひとりの若者が強い口調でこう話してくれた。「ラロンはイスラーム教徒として生まれてイスラーム教徒として生涯を終えた。だから、ヒンドゥーだったという俗説なんか、後から付け加えられたものなんだ。ラロンは、僕たちと同じ立派なムスリムだったのさ」

 すると隣にいた、もう1人の若者が、すぐに反論してこう答えてくれた。

「ラロンは、ヒンドゥー教徒であるともイスラーム教徒であるとも言わなかったじゃないか。そういう質問をする人が多かったから、ラロンも自分で歌を作って歌っているのさ」

 こういうと、若者はおもむろに手元の一弦琴を手に取ると、ラロンの有名な歌を歌ってくれるのであった。

 

     だれもが訊ねる、ラロンは一体どの家の生まれなんだい。

     ラロンは言う、「生まれ」って一体何んだい、

     この目でまだ眼にしたことなどないよ。

 

                割礼をすればムスリムになるという、

                そしたらムスリムの女は何をすればいいのさ。

                バラモンならば聖なる紐をぶらさげる、

                そしたらバラモンの女は、どうやって区別をつけるのかい。

 

                ある人の首にはヒンドゥーの数珠、

別な人にはムスリムのトズビー。

                それで、生まれが分かるっていうのかい。

                生まれて来たり死んだりするときに、

どこに生まれの印など、持つやつがいるのだろう。

 

                井戸の中ではただの水が、

                ガンジス河では聖なる水になる。

                何の違いも無いただの水が、

                器によって大違い。

 

        世界中が、生まれの話しで持ちきり。             

               誰もがその話しで、一喜一憂。

                ラロンはその生まれへの迷信を、

                とうに7つの市場に売り払ってしまったよ。

 

 その歌声は、けれど吹きさらしのがらんとした廟の境内に、こだまを返すものもなく通りすぎて行くようだった。

 

 

1 フォキル・ラロン・シャハ

 宗教詩人フォキル・ラロン・シャハ(1774?-1890)は、今日では詩人タゴールと並び称されることもあるベンガルを代表する村の民衆詩人として知られている。[1] ベンガルの人々にとってラロンの歌とは、そのクシュティア地方の繊細で優美な自然風土を情感を込めて美しく歌い上げるという、情緒豊かなバウルの詩的世界として鑑賞されるとともに、そのヒンドゥー・イスラームにとらわれない自由な宗教思想によっても知られ、今も人々を魅了して止まないものとなっている。その居所がバングラデシュのクシュティア地方に置かれていたため、今日ではインド西ベンガル州とバングラデシュとの両国の人々に親しまれ、歌い継がれる民俗音楽の伝統ともなっている。ラロン・シャハは、自ら作詞した歌を残すとともに、ベンガルの吟遊詩人の芸能集団として知られるバウルのひとりとして、実際にその宗教的な実践も行っていた。そのため本来は、名も無い民間の遊行者を指していたバウルの修行者の中では、例外的に広く名の知られた聖者のひとりとなっているのである。[2]

 ところで、このラロン・シャハが、ベンガルを代表する宗教詩人として広く認知されることになるのは、なによりも詩人タゴールの紹介によるところが大きかったと考えられる。村落の遊行者として名も知られずに諸所を歩くひとりのバウルが、詩人タゴールとの関わりをひとつの切っ掛けとして、広くその名が知られることになり、歴史的な資料も数多く残されるようになった。今日のバングラデシュにとどまらずインド側でも、特定のバウルの修行者がこのように注目されて、多くの研究者によって議論が試みられた例は他には見当たらないといえるだろう。

 また同時に、このようなバウルの歌い手としてのラロンの知名度にも関わらず、その死後に、特に現在のバングラデシュの中では、その伝記的な事実をめぐる様々な論争の種を巻き起こしている存在もないといえる。とりわけラロンの出生をめぐる議論の中でも大きな論争となったのが、冒頭で触れた「ラロンはヒンドゥーかムスリムか」という問いかけであった。このラロンの宗教的な帰属をめぐる論争は、様々な分野の人々巻き込んだバングラデシュの言論界を二分する論争となっている。とりわけ今日のバングラデシュにおいては、そのベンガル人の「宗教的アイデンティティー」にも深く根ざした問題として、国民的な関心を集めるものとなっている。そして同時にこの問題は、バングラデシュの人々の宗教と国民統合の姿をめぐる課題として、国民的な論争の一部をも構成するものと考えられるのである。本稿では、このような今もなお続いているラロンの出自論争を整理することを通して、バングラデシュの人々の宗教意識を検討し、その行方を探ろうとするものである。

 

 

2 『ヒトコリ』誌におけるラロンの伝記

 ラロン・シャハは1890年に亡くなっている。しかし、ラロンの名前が広く知られるのは、その死後しばらく時間を経過してからであったため、生前のラロンについて、直接にそれを記録して伝えるものは非常に限られていた。フォキル・ラロン・シャハについて直接言及している、現在知られている最も古い伝記的な記録は、1872年8月に刊行された、『グラム・バルタ・プロカシカ』誌である。これは、ラロンの死の1890年よりも18年前の刊行であるが、生前に刊行されたラロンの記録としては、今のところこれが唯一のものと考えられている。そこには次のように記されている。

 

 ラロン・シャハという名前のひとりのカヤストは、ひとつの新しい宗教を生みだした。ヒンドゥー教徒もイスラーム教徒も、すべてこの宗教を信奉するようになった。3・4年前から、この宗派の人々の活動が非常に盛んになっている。彼らは、カーストの生まれや宗教の違いを認めず、そのことを盛んに強調しているのである。[3] 

 

 この記述から、ラロンがヒンドゥー教徒のカースト集団のひとつであるカヤストの生まれであること。しかし、ヒンドゥー・ムスリムにとらわれない、新たな宗教の唱導者であることが指摘されていることがわかる。この『グラム・バルタ・プロカシカ』誌の編集者は、当時のベンガルでは有名なジャーナリストである、ホリナート・モジュムダル(1833-1896)であった。ホリナートはクシュティアに住み、生前のラロンと非常に親しかったばかりではなく、「ホリナート・バウル」という異名を取ったように、後には自らもバウルを実践するようになった人物でもある。

 しかし、フォキル・ラロン・シャハについて、最も信憑性が高いとされ、後のラロンの通説となる伝記的事実に最も大きく影響を与えたものは、『ヒトコリ』誌に掲載された追悼記事であった。クシュティで発行されていた雑誌『ヒトコリ』は、ラロン・シャハの死後15日後に、ラロン・シャハの追悼特集記事を掲載している。[4]  そのため、ラロンの死の直後に地元雑誌に掲載された伝記的資料として、後に多くの論者がこれに基づいて、ラロンの伝記的事実を描くようになった。記述は、本にすれば2-3ページの分量であるが、手際良くまとめられた文章には、ラロンの伝記的事実に関わるその後の論点のほとんどが、すでに取り上げられていた。しかし、追悼記事が掲載されたその時点でさえ、ラロンの出生については伝聞が多く、確かなことが少ないことを筆者自らが認めていた。そのよく知られた、その後繰り返し取り上げられることになる『ヒトコリ』誌の一節を引用して見よう。

 

ラロンの生涯について知る手がかりを得ることは、非常に困難である。そもそもラロンは、自らの生涯について何も語らなかったのである。ラロンの弟子達も、特に禁じられていたという訳ではなく、実際そのような知識が無いために話すことが出来なかった。しかし、一般に知られているのは、ラロン・フォキルが、カヤストの生まれであるということである。ラロンは、クシュティアの町のそばの、チャプラ・ボウミックの一族の者であった。しかし、その親族の中に今も生存している者は居ない。ラロンは、聖地への巡礼に出た時に、帰路に疱瘡に罹り巡礼の同行者によって放棄されたと言われている。瀕死の状態に陥ったところを、あるムスリムに助けられ、その看病を得ることで命を取り留める。やがて、そのムスリムのもとでフォキルとなったのである。実際に、生前のラロンの顔には、疱瘡の病の跡が残されていた。

 

 自らの伝記的な事実を生前から公表することを潔しとしなかったのは、ラロンに限らず、ひとたび入門式を行い、出家の身となった修行者にとっては、むしろ自然なことだったと考えられる。実際、特定の村の一族に自分の出生があったとしても、それを敢えて語らずまた人に問われても否定も肯定もしなかったというのが、ラロンの出自に関わる数多くの歌からも伺えるラロンの基本的態度であったと推測される。ともかく、ここに描かれている伝記的事実を整理すると、特に次の3つの点が重要である。すなわち、

 

@ラロン・シャハは、ヒンドゥー教徒のカヤストの家の生まれであったと、一般に認められていた。

Aクシュティアの町の近郊にある、今日のクマリカリ・タナのチャプラ・ユニオンのボウミック一族の生まれであった。

B巡礼に出た後に疱瘡の病に倒れ、ムスリムの家に拾われ看病されることで、そこでフォキルになった。

 

 すなわち、ここにはラロンが、『グラム・バルタ・プロカシカ』誌と同様に、ヒンドゥー教徒の書記カーストを意味する、カヤスト出自として知られていたことが記されている。ヒンドゥー教徒のカヤストとしては最も一般的な、「ボウミック」姓を名乗る一族に属していたという記述もそれを裏付けている。また同時に、このような生まれとしてのヒンドゥーから、一般的にはムスリムになったことを意味するフォキルとなった経緯が、簡略に記されていることも注目される。この3つのポイントは、その後の初期のラロンの伝記的記述に踏襲された。個々の出来事の肉付には様々なヴァリエーションが見られるが、基本的ににはこの記述を大きく逸脱するものはなかったといえる。次に、このようなラロンの宗教生活に触れている、『ヒトコリ』誌の興味深い記述について見てみよう。

 

ラロンは、読み書きを知らなかった。しかし、彼が書き残した膨大な歌の歌詞を聞くと、ラロンは優れた学識を備えていたと思われるのである。ラロンは、特定の聖典を考究することは無かった。しかし、その宗教に対する幅広い理解においては、聖典学者といってもよいようである。…… ラロンは、自らは特定のいかなる宗派にも属することはなかった。それにも関わらず、あらゆる宗派の人々が、彼を自らの宗教に属する人物であると考えていたのである。イスラーム教徒たちは、彼らと生活を共にする分け隔てのない日ごろの振舞いから、ラロンをイスラーム教徒と見なすようになっていた。ヒンドゥー教徒の人々は、そのボイシュノブ派の教えを実践している姿を見て、ラロンをヒンドゥー教徒のボイシュノブ派であると考えたのである。

 

 ここには、ラロンの宗教にとらわれない、自由な宗教家としての姿が描かれている。また同時に、イスラーム教徒の間ではムスリムとして、ヒンドゥー教徒にっとてはヒンドゥーとして、違和感の無い振舞いをし受け入れられていたことを伺わせる。そしてこのどちらにも解釈可能なラロンの存在自体が、後々まで続くラロンの出自論争の背景となってゆくのである。整理すればこの記述から伺えることは、次の2点である。

 

C     ラロンは自分が特定の宗教に属すると言った事は無く、宗派にとらわれずに信徒と接っしていた。

D     ヒンドゥーもムスリムも、それぞれラロンの振舞いから、ラロンが自分たちの宗教に属すると考えるようになっていた。

 

 この、ヒンドゥー教徒からはヒンドゥーとして、イスラーム教徒にはムスリムと見なされていたという振る舞いが、ラロンのその後の出自をめぐる論争の、火種となる部分であった。その記述が、すでにこの『ヒトコリ』誌の中にも見られることには注意が必要である。

 しかし、『ヒトコリ』誌の編者は、ラロン自身が自分の出自を語らなかったため、ラロンの伝記を正確に描くことの難しさを認めている。例えば、当時の言い伝えに従って、『ヒトコリ』誌は、ラロンの年齢を116歳であったとしている。そのため、後代の多くの研究者もこの記述に従い、ラロンの生年を1774年としている。このことは、実際のところは、今日のバングラデシュの平均寿命を考えても、事実として認めるのは微妙なところである。逆に、このような宗教的な修行(サドナ;sadhana)を行う聖者の年齢に関しては、高齢であることを強調することが一般的である。例えば、バロディの聖者ロークナトー・ブラフマチャリは、公式の伝記では160歳で亡くなったとされている。したがって、ラロンの生年に関しては、聖者の神秘性に引き寄せた伝承である可能性を考慮する必要がありそうである。

 しかしこのことは、ラロンの宗教的信条や生前の活動に関わることがらになると、微妙な問題になると言えるだろう。そのことは、出生証明のような何か証拠になるようなものが少ないからというよりも、生まれたときのカーストや宗教といった、俗世間の人々が拘泥する「生まれ」について、ラロン自身が関心を示そうとしなかったことによると言える。すなわち、歴史的な事実としてはそれを確かめることは出来ても、また身近に接していた弟子たちもある程度その事実を認識していても、敢えてそのことを問題にすることに、ラロン自身が、それほど意味を感じていなかったとも考えられるのである。

 

 

3 タゴールとラロン・シャハ

 『ヒトコリ』誌に続いて、宗教詩人としてのラロンの名前が、ベンガルの知識人の間で広く知られる切っ掛けとなったのは、『バロティ』誌上に掲載されたショロラ・デビの記事によってである。これは、ラロンの死の5年後の1895年に刊行されている。ショロラ・デビはラロンの出自について、次のように簡単に述べている。

 

 ラロンの宗教についての考えは、とても素朴で自由なものであった。ラロンは、カーストの生まれの違いなどを認めていなかった。ヒンドゥーにもムスリムにも分け隔てすることなく接していた。弟子たちに対しても、ヒンドゥー・ムスリムの区別をすることなく、どのような生まれであっても同じように扱った。実際、「ラロン」という名前はヒンドゥーの名前であるが、「シャハ」という姓は、ムスリムのものである。それだから、当時から多くの人がラロンに彼の出生について興味を持って質問をした。ラロンはいつもそういう質問には直接に答えをしないで、自ら作詞した次の歌を歌って聞かせたものだった。

  

   だれもが訊ねる、ラロンは一体どの家の生まれなんだい。

   ラロンは言う、「生まれ」って一体何んだい、

   この目でまだ眼にしたことなどないよ。[5]

 

 このショロラ・デビの記述から、ラロンの出自については、その生前から多くの人が関心を持ち、またかまびすしい問いかけが繰り返されていたことが伺える。そしてラロン自身は、その問い掛けをした者に、決して満足する回答を与えることは無かった。むしろ、人間の生まれに対するとらわれの無い信条を込めた歌を投げかけることで、そんな問いに拘泥する質問者に、問いを投げ返していたと言えるのかもしれない。

 ところで、このショロラ・デビは、詩人のラビンドラナート・タゴール(ロビンドロナト・タクル)の姪である。ノーベル文学賞を得ることで世界的に知られるようになった詩人タゴールと、農村の素朴な自然と宗教を歌う詩人ラロン・シャハとは、タゴールの所領であった風光明媚なクシュティア地方にラロンが庵を構えることによって、深い結びつきが生まれるのである。

 そもそも、クシュティアの町外れにある、ラロンが修業道場を構えていたセライドホの村は、タゴール家のザミンダール領であった。タゴールは、1876年に初めてセライドホを訪れて以来この土地を気に入り、度々訪れるようになった。29歳になった1890年からは、父親デベンドロナトからこのセライドホ含む広大な所領の管理を任されて、家族を連れて赴任するようになっていた。有名なポッダ河の岸にあるタゴール家の別邸として知られるクティバリに居を構えると、カルカッタの優雅な都市生活とはまったくかけ離れた、ベンガルの素朴な農村生活を目の当たりにすることになる。まさに、詩人タゴールが、ベンガル人の琴線に触れる情感豊かな詩情を育んでゆくのが、この青年期のクシュティア地方での農村生活であった。その中でも、とりわけ若きタゴールの心を躍らせたのは、ラロン・シャハなどの遊行者たちが伝承する素朴なバウルの歌との出会いであった。ラロン・フォキルの歌の編纂者として知られるモンシュル・ウッディンの編纂になる『ハラモニ』誌上で、1927年にタゴールは次のように述べている。

 

私の書き物を読んだ人は、ご存知のことと思います。バウルの歌に対する深い敬愛を、私は数多くの書物に記して来ました。セライドホに私が住んでいた時に、バウルの集団と私はいつも身近に接し、様々な事を話し合ったものでした。そして、私の詩の多くに、私はバウルの歌の旋律さえ付けたのです。[6]

 

  ラロン・シャハとタゴールとが直接に会見を持ったということを示す資料は、今のところ見つかっていない。しかし、その結びつきをしめすエピソードとしては、ラロン・シャハの死を弟子から聞いたタゴールが、ラロン・シャハの聖者廟の建立を申し出たことが知られている。[7]  また、タゴールの実兄であるジョティリンドロナト・タゴールは、ラロンの死の前年に、セライドホでラロンと会い、その肖像画を描いたことで知られている。この肖像画が、今日では生前のラロンの姿を直接伝える、唯一のものとなっているのである。したがって、その弟子達や家族を通した交流によって、タゴールが生前のラロン・シャハについて、十分な知見を有していたことが伺えるのである。

 タゴールが自ら書いているように、クシュティアにおけるタゴールは、日常的にバウル達と接し、その素朴な歌詞から多くのものを学んでいた。最も良く知られた例は、タゴールが作詞し、現在ではバングラデシュの国歌となっている「黄金のベンガル」という歌は、バウルの歌を下敷きにしたものであった。ゴゴン・ホルコラの歌う「お前を何処に捜そう、私の心の中の人よ」に、新たにタゴールが歌詞を与えて完成させたものと考えられている。[8]  また、タゴールが直接ラロンの歌を取り上げたことで知られるのは、1907年に発表された長編小説『ゴーラ』においてであった。この冒頭でタゴールは、有名な「籠の中の名も知らぬ鳥」を引用するのである。またタゴールは、ラロン・シャハ廟の弟子たちによって保管されていた詩の口述ノートを借り受けると、筆写を試みている。そのノートをタゴールは、シャンティニケトンの邸宅に所蔵し、手元に携えていた。ラロン廟の弟子達の間では、ラロンの歌はもっぱら口頭で伝承されていた。ラロンの歌を直接に書きとめたオリジナルの詩稿が聖者廟には現存しないため、そのまま返却されずにシャンティニケトンのビッショバロティ大学に所蔵されているこのノートが、今日では当時のラロンの歌詞を伝える数少ない一次資料となっているのである。またこのような経緯から、今日のバウルの中には、詩聖タゴールはバウルの歌からその詩の多くを学んだのだという俗説が、流布されるようにもなっている。

 しかしもう一方で、歴史の皮肉な事態は、タゴールがこのバウルやラロンの歌を取り上げて、欧米の知識人の間にも広めることによって、今日のようなバウルやラロン・フォキルが、初めてベンガルやインドを代表する民俗音楽の様式やその歌い手として、認知されるに到ったと思われることである。タゴールによる紹介が無ければ、ラロンはもとより、ベンガルのバウルという芸能集団の存在さえも、今日のように広く世界的に認知されるものであったか疑問に思われるのである。そのタゴールによる、最も良く知られたバウルへの言及は、欧米の各地で行った講演をまとめた有名な英文論集『創造的統一(Creative Unity)』(1922)や、オックスフォード大学での連続講演をまとめた『人間の宗教(Religion of Man)』(1930)である。この中でタゴールは、ベンガルの片田舎の名も無い吟遊詩人として、様々なバウルの歌を情緒豊かに紹介するのである。

 

 

3 伝記的事実の形成

 フォキル・ラロン・シャハの伝記的事実について論じるときに、もうひとつの重要な論文がある。ラロンの死の8年後に書かれた、モウロビ・アブドゥル・ワリが人類学協会で行った報告をまとめた論考がそれである。この人類学協会は、1898年11月30日にボンベイで開催され、その内容が後に雑誌『人類学協会雑誌』に、「ベンガルのあるフォキルのコミュニティにおける興味深い特質と実践」と題した論文として掲載される。この中のラロン・シャハの出自に関する記述には、前記の『ヒトコリ』誌などと一部異なる記述が現れているのである。

 

         ラロン・シャハは、シラジ・サンイの弟子であった。そして二人とも、ジョソ

ル県ジナイドホ地区ホリシュプル村の出身であった。ラロンは長い巡礼の旅に出て、ジャガンナート寺院やその他の寺院を詣で、様々な宗教者に出会い、最後にクシュティア県のセウリヤ村に居を構えるのである。この地で彼は修行をなし、歌を歌い、神を祀ったのである。彼はカヤストの生まれとして知られており、この地でおよそ10年ほど前に亡くなっている。[9] 

 

 この記述で重要なポイントは2つである。ひとつは、フォキル・ラロン・シャハとその師であるシラジ・サンイの出生地を、二人ともジョソル県のホリシュプル村と述べていること。ふたつ目は、ラロンの出自をカヤストであると紹介している点である。出生地の点では、前記の『ヒトコリ』誌などの記述と異なる見解が示されている。しかしもう一方で、『ヒトコリ』誌などの記述に従った、カヤスト出自説がここでは踏襲されているのである。

 アブドゥル・ワリは、ジョソル県の官吏(Sub Registrar)であった。そのため、バウル修行者が多く輩出したホリシュプル村について、一定の知識が在ったものと思われる。そもそもこのホリシュプル村には、ラロンの導師であったシラジ・サンイが住んでいた。また、ラロンの次世代のバウルとして名前の知られた導師のひとりである、パンジュ・シャハの村でもある。したがって、もともと地域のバウル遊行者にとっては、馴染み深い村であったと考えられる。ともかく、このパンジュ・シャハの息子であるコンドカル・ロフィウッディンや、有名なバウルの歌い手であるドゥドゥ・シャハによって、後述のようにラロンのホリシュプル村出身説が唱えられるようになる。つまり、後の人々がラロンのホリシュプル村出身説を取るのは、このワリの見解に端を発しているということができる。一方、ワリよりも時代が下る1930年代に、クシュティアの地区行政官(Sub-Divisonal Officer)を務めていたオンノダ・ションコル・ラエは、後に作家として有名になり、ラロン研究の第一人者としても知られるようになった。このオンノダ・ションコルは、「ラロンはヒンドゥーの家に生まれ、シラジ・サンイのもとに入門して後にフォキルになった」という立場をとっている。[10]

 ともかく、このようなラロンの死後10年ほどの間に、ラロンの生涯に関する当時の人々の知識が記録され、同時にそのような宗派にとらわれないラロンの宗教詩人としてのイメージが確立する。前述の、『グラム・バルタ・プロカシカ』誌、『ヒトコリ』誌、及び『バロティ』誌の記述に、このアブドゥル・ワリの記述を加えることで、ほぼ今日の定説となるラロンの出自の伝記が形成されたと考えることができる。したがって、この4つの文献を、ラロンの伝記的資料に関する、初期資料としてまとめることが出来る。以後、ラロンに関する記述や論考は、飛躍的に数を増して行くことになる。しかし、20世紀に入ると、もはやラロンの死から歳月も経過し、生前のラロンに直接接していた人から話し聞くなどして伝記を再構成すると言う、二次的研究に移行するのである。

 このような、ラロンについての伝記的記述の再構成としては、ボショント・クマル・パルの試みが最も知られている。ボショントは、1928年には『プロバシ』誌上に論考を。さらに、1955年には『偉大なる魂ラロン・フォキル』という単行本の形で出版している。ボショント・パルの記述の信憑性が買われているのは、上記のラロンに関する文献に留まらず、ラロンの死後間もなくして、自らクシュティアのラロンの廟を訪れて、残されたラロンの弟子たちなどから話し集め、ラロンの伝記の再構成を試みていることにもよる。例えば、ラロンの伝記的事実として最も多くの論者が依拠する『ヒトコリ』誌の記述に関して、晩年のラロンの元で過ごしていた弟子、ボライ・シャハとシトル・シャハが、次のように述べていると記している。「ボライ・シャハとシトル・シャハから直接聞いたところによると、『ヒトコリ』誌に掲載されている追悼記事のラロンに関して書いてあることは、すべて事実だということであった」

 また、クシュティア地方の出身であるウペンドロナト・バッタチャルヤは、より広くラロンを当時のバウル修行者の中に位置付けて、ショホジヤの導師としてのラロンの姿を具体的に抽出しようと試みたことで注目される。その著書『ベンガルのバウルとバウルの歌』(1957)の中でウペンドロナトは、ラロンに留まらずパンジュ・シャハなどの当時の有名なバウルを網羅的に取り上げて、これらの修行者としてのバウルの中に位置付けることで、宗教者としてのラロンの再評価を試みている。また、当時の言論界をリードしたキティモホン・センのバウル観を批判することで、バウルの実像を描き出した点でも注目される論議を展開した。

 このような初期資料の検討を通して、ほぼ今日のラロン・シャハをめぐる伝記的事実の通説的なイメージが形成されたといえる。その中では、ワリの記述のように、その細部の認識に多少の相違が認められるものもある。しかし、それらは相互の批判的な検証を行うことで、ほぼひとつのまとまったラロンの生涯を描き出すことが可能であった。すなわち、論者によってそれぞれの見方を反映した差異は認められるが、しかし基本的には、初期資料以降の画期的な資料の発掘と言うことは見られなかったのである。そのため、その基本的な伝記的枠組みは、先に挙げた『ヒトコリ』誌に見られるラロンの伝記に関する5つの観点を逸脱するものではなかった。すなわち、この5つの観点については、ほぼすべての論者が一致して認めており、これに基づくことで今日のラロン・シャハの通説的イメージが確立されるということができるだろう。

 このような二次的研究の代表的なものとしては、先述のバショント・パルとウペンドロナトの他に、ラロンの詩を編集したムハンマド・モンシュル・ウッディンや、カルカッタ大学のモティラル・ダスなどを挙げることができる。重要なことは、この自由な宗教詩人としてのラロンの姿が、東西のベンガルで、ほぼ1930年代まではなんの異論も無く受け入れられてきたことである。さらに、このような伝記的研究を元にすることで、ラロンの生涯を題材とした様々な小説や戯曲も作られるようになった。一般の人々の間では、もっぱらこのような伝記的資料に依拠した小説や戯曲を通して、その通説的なラロン伝が受け入れられ、親しまれるようになっているのである。そのラロン伝は、少なくとも西ベンガル側では、様々な戯曲や小説による脚色を伴いながらも、ほぼ確立した定説として、今日までも変わらずに受け入れられているのである。次に、このような広く認知された、通説的なイメージとしてのラロンの生涯を概観する。

 

 

4 フォキル・ラロン・シャハの生涯

 ラロン・シャハは、当時の英領インドのノディア県、今日のバングラデシュの地方都市クシュティアの近郊にある、クマリカリ・タナ、チャプラ・ユニオンのバラル村のヒンドゥー教徒のカヤストの家に生を受けた。このゴライ川の岸にあるバラル村は、チャプラ村に隣接していた。両親の名前は、マドブ・コルとポッドボディ。母方の親戚は、チャプラ村のボウミック家であった。家は貧しく、また父親を早くに亡くしてしまったため、ラロンは学校に通うことは無く、正式な教育を受けたことはなかった。しかし、このチャプラ村近郊は、吟遊詩人のバウルや対話即興形式の歌であるコビ・ガン(kabi-gan)、クリシュナの御名を唱えるキールトン(kirtan)など、様々なベンガルの民俗音楽が、盛んに行われていた所であった。そのためラロンも、幼少の頃からこのような民俗芸能に親しみ、また様々な宗教行事に興味を持ち参加するようになっていた。

 早くに亡くした父親に代わり、ラロンは若くして家長としての責務を負う事になる。この村で結婚もするが、周囲の親戚との関係は良好とは言えず、間もなくバラル村の中のダスの集落に移り住むことになる。ダスというのは、一般にベンガルの皮革カーストなどの低カーストを指す姓である。このダスの集落の人々とともに、ラロンはムルシダバードのボハランプル、あるいはノボディープへの沐浴と巡礼の旅(ゴンガ・スナン;ganga-snan)に出るのである。[11] そして、この旅の帰路に、ラロンは疱瘡の病に罹り、倒れてしまう。ラロンの容態は急変して重態になり、最後に意識を失ってしまう。それを見た同行の者たちは、ラロンは死んでしまったと考えて、簡単な葬儀を行うと、川にその遺体を流して帰ってしまう。一説に拠れば、これはオントルジョリ(antar-jali)と呼ばれる遺体の半分をガンジス河の水に浸たす簡略化された埋葬法であったともいう。ともかく遺族の者たちは、バラル村に引き揚げると、ラロンが死んだことを親戚や村の者たちに告げるのである。

 一方、意識を失った状態のラロンは、やがて川岸に流れ着く。川に水を汲みに来たムスリムの機織職人の女がそれを見つけると、ラロンを引き揚げて自分の家に運び、介抱するのである。このムスリムの機織女の献身的な看病のお陰で、ラロンは病から奇跡的に回復する。しかし、この疱瘡の病のせいで、ラロンの片目は潰れてしまい、顔にもその痣が残された。ともかく病から回復したラロンは、やがて家族のいるバラル村に帰ってきた。ラロンの奇跡的な生還に家族は喜ぶのだが、しかし他の親戚や村人たちは、ラロンが村に戻ることを拒否するのである。その理由は、儀礼的にはラロンの葬儀が行われその死がすでに宣告されていること。そして一度ムスリムの家で水や食事を摂った者は、儀礼的に汚れてしまっているというものであった。ラロンは村社会のこのような頑迷固陋な仕打にすっかり失望して、世捨て人となることを決意するのである。[12]

 こうしてラロンは、家族とも離れ、ひとり世捨て人となり、宗教的な修行の道に入る。特にラロンが帰依したのは、吟遊詩人のバウルのグル、シラジ・サンイであった。ラロンはやがて、この導師(グル;guru)の元に弟子入り(デッィカ;diksha)を受ける。[13] このようなバウルのグルへの弟子入りを通して、その後ラロンは、権威的な既成の宗教には関心を払わなくなった。やがて導師の指示に従い、ラロンはクシュティアの町の近くのセウリア村に庵(アクラ;akhra)を構えることになる。「セウリヤ村の奥には深い森があった。その森の一本のマンゴー樹の根元に座を構えると、ラロンは修行を始めるようになった。」[14]  これが。クシュティアの町の郊外の、今日のラロン・シャハの聖者廟のある場所である。

 ラロン・シャハは、セウリヤ村の人々の敬愛を集め、やがてこのラロンの庵は、村人の世話や寄進によって、修行道場として発展することになる。このセウリヤ村は、「カリコル(karikar)」と呼ばれるコミュニティの人々であった。これはベンガルにおいては、一般に「ジョラ(jola)」、あるいは「ジョラハ(jolaha)」と呼ばれるムスリムの機織職人の集団であり、一種のムスリムのカースト集団を構成するものである。ともかく、このようにしてバウルの導師となった当時のラロン・シャハの様子を、ウペンドロナト・バッタチャルヤは次のように伝えている。

 

ラロンは初め、セウリヤに定住していた訳ではなかった。その周辺一帯、パブナ、ラジシャヒ、ジョソル、フォリドプルなどの地域一帯を、弟子たちを連れて巡り歩いていた。そしてバウルの教えを広めていた。当時、沢山の人々がラロンの弟子となった。その中では、ムスリムの数が多かった。何人かのヒンドゥー教徒の中では、いわゆる低カーストの者が弟子となっていた。… 40-50年前には、この地方にはムスリムの内約1割の人々は、このバウル・ショホジヤの教えを受け継ぐ弟子となっていたと考えられる。ラロンの同時代、あるいはそれに続く時代にも、何人かの有名な導師が現われた。しかし、ラロン・シャハは当時から、この教えを伝える最も有名な、そして元祖となる導師であった。[15]

 

 ここに描かれているのは、宗教詩人として詩を作り一弦琴を手にそれを歌うという、村の宗教詩人としてラロンとは少し異なるイメージである。すなわち、当時のベンガルの民間信仰として広く浸透していたバウルやショホジヤ(易乗教;sahajiya)の修行を実践し、その教えを伝える導師(グル)としてのラロン・シャハの姿である。その教えは、ヒンドゥー・イスラームという経典的宗教とは異なり、民俗宗教に根ざすものであった。これは、基本的に文献には記述されず、師弟関係を通して直接に伝承される、独特の民間信仰と修行の体系と言えるものであった。一般には象徴的な隠喩に満ちた詩句によってのみ、その儀礼の内容が提示されるため、神秘的な言葉に彩られた詩句が、その教義を理解する数少ない手がかりともなるのである。ここには、村の宗教詩人としてラロン・シャハのもうひとつの姿である、バウルの導師としてのラロン像が示されていると言える。しかし、この問題は別の機会に譲ることとして、ラロンのその後の生涯について、話しを進めることにしたい。

 ラロンはこのセウリアに庵を構えることで、多くの弟子達を育てて行った。また、このセウリアの集落は、大きな機織職人のコミュニティであり、このムスリムの機織の人々からも、ラロンは非常に親しまれ、導師として信望を集めて行く。このように、ラロンの晩年は、弟子たちを集めてセウリアの庵で暮す、修行者の姿であった。また各地の弟子たちに教えを授けるために、出かけることも多かった。そのため、体力が落ちてからは、馬に乗って諸所に出かける姿が知られていた。

 やがてラロンは、その死のひと月ほど前から、お腹の不調と手足の関節の痛みを感じるようになった。食事が出来ず、牛乳などしか受け付けない状態となる。体調が非常に弱ってきても、創造主の御名を唱え、変わらずに修行を続けた。歌を歌い出すと、それに夢中になったという。1890年10月17日の早朝。フォキル・ラロン・シャハはこの世を去った。その最後の夜にも、庵で沢山の弟子たちに囲まれながら、弟子たちととにも自ら作った歌を歌い明かしたという。やがて、庵の中に一条の朝の光が部屋に射し込んだ。弟子たちの姿が、その光の中に浮かび上がると、ラロンは歌を止めた。静まり返った部屋の中で、ラロンは弟子たちの名前を呼ぶ。そして最後に、「私は逝くよ」と言った。これが、ラロンの最後の言葉であった。

 ラロンの死後、自らの葬儀に関して、ラロンは何の指示もしていなかった。そのため、その葬儀に際しても、ヒンドゥー教徒の司祭であるバラモン司祭が来たわけでも、『コーラン』を朗唱するためにモウロビが呼ばれたわけでもなかった。ただ弟子たちによって、盛大な追悼会が開かれ、ベンガルの宗教歌の集会であるキールタンが行われただけである。また、自分の遺体については、ラロンは、墓廟に安置するように指示していた。そのため、遺体はラロンが日ごろ修道の場としていた道場の小屋の中に葬られ、墓廟(ショマディ;samadhi)が築かれた。すなわち、ヒンドゥー教徒のように、荼毘にふして遺灰をガンジスに流すのではなく、またムスリムのように墓(コボル;kabar)に埋めるというものでもなかった。どちらかと言うとそれは、ボイシュノブ流の墓廟(ショマディ)、あるいは弟子たちによって埋葬されたスーフィー聖者の廟(マジャル;majar)に近いものであった。そして、それをより正確に言えば、ボイシュノボ・バウルの導師(グル)、あるいはイスラームのスーフィーの影響を受けたバウルたちが行う、当時のベンガルの、最も一般的な埋葬法(samahit)と言って良いものであった。

 

 

5 異説の誕生

 ラロンの出自をめぐるこのような定式化された伝記は、およそ1930年代までは、東西のベンガル社会において共有された認識となっていた。しかし、英領インドの分離独立へと向う1940年代のパキスターン運動を境として、このラロンの宗教的出自をめぐる議論が、当時の東ベンガルでは、次第にカルカッタ側の知識人とは異なる方向に向かって行くのである。それはとりわけ、1947年から1971年までの東パキスターン時代において、シャリーア的イスラームへの強い希求と非イスラーム文化とイスラーム文化とを峻別して行こうとする動きを通して、顕著なものとなって行くのであった。[16] ラロンの詩を編纂したモンシュル・ウッディンは、1964年に刊行された『ハラモニ・第7巻』誌上で、当惑を込めて次のように述べている。

 

 今日、ラロン・シャハを生まれたときからイスラーム教徒であり、また、その出生地がジョソル県であったとする主張が、にわかに非常な熱心さで試みられるようになっているのを見ることができる。しかし、驚くべきことに、これらの主張を始めた人々はみな、これまで優に40年もの間は、まったく沈黙を守ってきたのであった。[17] 

 

 このような新たな主張は、1941年のA.K.S.ヌル・ムハンマドによる、『月刊ムハンマディ』誌に掲載された論文、「ラロン・フォキルはヒンドゥーかムスリムか?」という題名の論文に遡ることが出来る。以下では、このような東ベンガルを中心とした、ラロンに関する新たな異説の形成を検討して見たい。

 ヌル・ムハンマドは、この論考の中で、ラロンがジョソル県フルバリ村の出身であり、機織を行うムスリムの家の生まれであったと述べている。ここで、「機織の家」と言及しているのは「タンティバイ(tanti-bhai)」という機織カーストのことである。そして、ラロンが42歳の時にフォキル・シラジ・サンイと出会い、その後の人生が変わったとする。ヌル・ムハンマドはラロンがフルバリ村出身であることを結論的に述べているが、その根拠は何も示していない。そのためこの記述から、少なくともジョソル県のフルバリ村近郊に「ラロン」という名前を持つ修行者がいた可能性は排除できないが、それがラロン・シャハ自身であったという根拠は示されてはいないといえるだろう。むしろ、ヌル・ムハンマドの議論で興味深いのは、通説で語られているラロンがヒンドゥー教徒だったという議論に対して果敢に反論を挑み、ムスリムであったと強調している点にあると思われる。ヌル・ムハンマドは、その根拠として次の3つの点を挙げている。

 

@ラロンが亡くなった際に、弟子たちは「ショマディ(墓廟)」を作って、埋葬した。墓を作るのは、ムスリムの慣行であり、ヒンドゥーに対しては火葬を行う。したがって、ラロンはムスリムであったと言うことが出来る。

Aヒンドゥーには、歌を歌って乞食をする「ボイラギ」や「ボイシュノブ」がいるが、ムスリムにはそのような集団は存在しない。ラロンは、しばしば「サンイ・ジ」と呼ばれていたが、これは森などに住むムスリムの修行者を指している。また、ラロンの呼称には常に、「フォキル(fakir)」を用いるが、これはムスリムを指す言葉である。したがって、ラロンはムスリムであった。

Bラロンは、ヒンドゥーもムスリムも区別無く接していた。そして、どちらの人々とも、食事を共にしていた。ところで、ムスリムは、ヒンドゥーの手から食事を受け取ることに躊躇しないが、ヒンドゥーは決してムスリムの皿で、食事をしようとはしない。それ故、ラロンがムスリムであったことは明らかなのである。

 

 このヌル・ムハンマドの議論の中には、後に述べるような一般的な村落の宗教的慣習についての誤解がある。それにも関わらず、このラロンをムスリムであるとする議論には、非常に興味深い指摘が含まれていると考えられる。なによりも、議論の前提として、ラロンがヒンドゥー・カヤストの家の生まれであったという『ヒトコリ』誌以後の通説に関する理解には、注意が必要であろう。すなわち、『ヒトコリ』誌からボショントクマル・パルの所説まで、ラロンの初期の伝記的研究においては、必ずしも「ラロンが、自らをヒンドゥー教徒と名乗っていた」と述べている訳ではないことである。ラロンの両親や親族がヒンドゥーであり、したがって系譜的な出自がヒンドゥーの家であったと指摘するに過ぎないのである。同時に、これらの論者は、概ね共通して、ラロンのヒンドゥー・ムスリムにとらわれない超宗教的な態度を強調している。あるいは、『ヒトコリ』誌が適切に指摘しているように、ラロンは多くのムスリムの弟子に囲まれて過ごすことで、彼らからはムスリムとして認知されていたのである。そして興味深い点は、ヌル・ムハンマド自身もまた、この点については、実は通説とまったく同様の見解を表明していることである。ヌル・ムハンマド自身の記述を引用すると、次のようになる。

 

ラロン自身の書いたものから、ラロンの宗教について知ることは、とても困難なことである。自らの出自について、ラロンは一切触れることは無かったからである。実際、ラロンが書いているものから推察すると、事の次第は一層複雑なものとなるのである。すなわち、ラロンは次のように歌っているからである。

 

誰もが問いかける、ラロンはヒンドゥーかムスリムかと。

ラロンは言う、私がどうしてその答えを知っているだろう。[18]

 

 このようにヌル・ムハンマドは、ラロンがヒンドゥーやムスリムといった特定の宗教への帰依を表明せず、むしろそれに拘泥しなかったことを認めている。その上で敢えて、その宗教的帰属にこだわろうとしているのである。すなわち、このヌル・ムハンマドの問いかけは、ラロンの超宗教的な宗教信条とは別に、その生活文化や行動体系、あるいは出生や親族関係に基づくことで、最終的には人口統計上の「ムスリム」か「ヒンドゥー」かの、いずれかのカテゴリーに峻別されるという前提に立つものとなっている。このような、いわば近代のコミュナルナな観点に立つことで、たとえラロンがそう明言しなくとも、宗教的な帰属を統計的には判別することが可能になると考えられている。おりしも1940年に、ムスリム連盟のジンナーは、ラホール大会で有名な2民族論(Two Nation Theory)を展開した。これは、英領インドの「ヒンドゥー」と「イスラーム」は、本質的に異なる二つの「民族」であるという主張を強く打ち出したものであった。この大会で採決されたパキスターン決議が、最終的には1947年のインド・パキスターンの分離独立を大きく決定付けることになる。ここでは、ラロンの独自の宗教的境地とは別に、国民国家を形成する個人として、ラロンもまたヒンドゥーかムスリムのどちらかであることが求められているのである。次に、上記のヌル・ムハンマドの3つの論点を簡単に検討して見よう。

 第1は、ムスリムとして埋葬されたのだから、ラロンはムスリムであったという主張である。しかし、ムスリムの墓は通常「コボル」と呼ばれている。「ショマディ」というのは、ヒンドゥーのボイシュノボ派の行う墓廟を指す。ボイシュノボ派の人々は、遺体を火葬せず、この「ショマディ」に埋葬するのである。したがって、ヒンドゥーも「墓」を作るのであり、ラロンの墓の存在が、必ずしもムスリムを示唆するものとはいえないだろう。

 第2は、呼称に関するものである。現在、「バウル」と総称される遊行芸能集団には、ヒンドゥーもムスリムも含まれている。そのため、ここではヒンドゥー側が「ボイラギ」と呼び、ムスリムが「フォキル」と呼んでいるとする方が実情に即していると考えられる。また、「サンイ・ジ」という呼称は、入門式(ディッカ)を与える導師を指すムスリム側の一般的な呼称である。すると、遊行者の呼称から、その出自を推測することは極めて困難といえる。むしろ誰が呼ぶのかということが、このような呼称を左右すると考えるべきであろう。少なくとも、ムスリムには歌を歌う集団が存在しないという主張は事実に反しているといえる。

 第3は、ラロンの周りの人達が、ラロンをどう見ていたかという問題である。当時の弟子たちは、ラロンのことを、ムスリムの呼称を用いて呼んでいた。ラロンが晩年を過ごしたのは、セウリアのムスリムの機織の村の庵であり、ムスリムの信徒たちに囲まれていた。そして、日常的に生活や食事を共にしていたのはムスリムでああった。したがって、ラロンがムスリムの慣習の中で暮らしていたことは、間違いのないことであろう。この場合、ラロン自身がムスリムであったと明言していたかどうかは別として、少なくともラロンが、ムスリムにとって違和感の無い生活をしていたという事実を指摘することが可能である。しかし、既に述べたように、この事実はこれまで取り上げた通説と何ら矛盾するものとはいえないだろう。すなわち、『ヒトコリ』誌を始め多くの論者は、ムスリムからはイスラーム教徒と見なされていたということが、繰り返し述べられているのである。[19] むしろそれを敢えて取り上げようとするのは、宗教的な帰属には拘泥しなかったあるベンガルの優れた宗教者のひとりを、東パキスターンを構成する国民のひとりとして位置付けようとする、近代の間尺に直面した者の苦慮とも戸惑いのともつかぬ試みのひとつともいえるのかもしれない。

 

 

6 論争の時代

 ところが、このラロンの出自に関する論争は、次第に熱を帯びて語られるようになってゆく。1947年のインド・パキスターンの分離独立によって、ベンガルは、パキスターンの一翼を担う東パキスターンとインド側の西ベンガル州とに分割された。それによって、カルカッタを中心とした西ベンガルの知識層と、ダッカを拠点とする東パキスターンの言論界には、それまでに無かった言説の亀裂を見せ初めるのである。このような当時の東パキスターンの学会において、最も強い影響力を持ったのがムハンマド・アブ・タリブ(1928-)の論説であった。アブ・タリブは、ラジシャヒ大学のベンガル語学科教授であり、その後、長年に渡ってラロン・シャハの出自論争を繰り広げている。ラロンに関する著作の量から見れば、最も多くの著述を行ってきた学者であるとも言われている。[20] 次にこのアブ・タリブによるラロンの出自についての議論を検討して見よう。

 アブ・タリブが、ラロンの出自について最初の見解を表明したのは、1953年のことである。月刊誌『マヘ・ナオ』に掲載された論文、「修行者・詩人のラロン・シャハ」は、その後の論争の発端になる主張として重要である。すなわちアブ・タリブは、ここでラロン・シャハの生まれた村を、通説のクシュティア近郊のバラル村説を否定し、ジョソル県のホリナクンドゥ・タナのホリシュプル村(クルベレ・ホリシュプル村)の出身であると主張したこと。そして、この村のコンカル(ムスリムの機織)の家に生を受けたとする主張である。その根拠としてアブ・タリブは、2つの新たな事実を提示している。ひとつは、ラロン廟の管理人(カデム)をしている、イスマイル・シャハの、「ラロンがヒンドゥーの生まれだとは聞いたことはなかった」という証言である。もうひとつは、ラロンの歌の中に、ラロンが自らの出自を述べているという、後に議論を呼んだ見解であった。 

 このような、アブ・タリブの主張で重要なポイントは、ラロンが生まれながらにしてムスリムであったという点である。すなわち、機織のムスリムの両親のもとに生まれたのだから、ラロンの系譜的出自がそもそもムスリムであったという主張を、新たに開始するのである。そのため、ラロンの出生地をクシュティア県のバラル村とする従来の通説に対して、さらに南に50マイル離れたジョソル県のホリシュプル村を、その新たな出生地として主張することは、その根拠として非常に大きな意味を持つことになった。すなわちそれ以後は、ラロンの生れがジョソル県のホリシュプル村なのか、通説通りバラル村なのかという出生地論争が派生して行くことになる。バラル村の生まれであれば、ラロンはヒンドゥー教徒のカヤストの生まれとなり、ホリシュプル村であればムスリムの生まれとなる。すなわち、アブ・タリブの提示した論点は、ラロンの宗教的アイデンティティーを巡る社会的通念を問題にするものから、さらに1歩踏み込んで、歴史的な事実としての従来のラロンの伝記的生涯に異議を唱えるものとなっていたのである。

 その後、ムハンマド・アブ・タリブは、ラロンのムスリム出自説をより体系的に発展させることで、先行研究との突き合せを試みた包括的な考証を行った。1968年に刊行された『ラロン紹介』は、特にこのようなラロンのムスリム出自を主張する、最も影響力を持った著作のひとつとなっている。この本の中で、アブ・タリの依拠する根拠がさらに付け加えられ、その主張が補強されている。具体的には、次の5点である。[21] 最初の2つは、既に述べた廟の管理人の話しと、ラロンの詩句の引用である。第3は、ラロンの弟子の1人であるドゥドゥ・シャハの書き残したとされる、『ラロンの行伝』と題された手書きの韻文の存在。第4は、初めに検討したアブドゥル・ワリの人類学協会に報告された記述。第5は、ラロンのひと世代後のホリシュプル村のバウルの導師、パンジュ・シャハとその息子のロフィウッディンの証言である。これらの事実を提示することで、アブ・タリブは次のように述べるのである。

 

 著者(ムハンマド・アブ・タリブ)こそが、ラロンの真の伝記についての正しい学問的な視点からの研究を行った、一番最初の人間であった。そして、著者こそが、ラロンの出生地がジョソル県のホリシュプル村であり、生まれたときからムスリムであったという主張を行った、一番最初の人物なのである。[22]

 

 次に簡単に、上記の5つの論点を整理して見たい。第1の廟管理人(カデム)の証言に就いては、生前のラロンに直接接していた1代目の弟子である、ボライ・シャハやシトル・シャハの証言と、この後代の弟子の見解とが異なっていることが指摘される。また、少なくとも2000年2月に行った筆者の聞き取り調査でも、ボライ・シャハの系統を引く4代目の弟子たちの間では、このホリシュプル説は否定されている。また、ラロンの死後、弟子の間には廟の管理を巡って二つの派閥が形成されたことが知られている。[23]  したがって、このイスマイル・シャハの証言は、弟子たちの間の異論の存在を示すものであるといえるが、すべての弟子の間で共有される伝承とは言えないだろう。この証言で注意すべきなのは、「ヒンドゥーであると聞いたことはなかった」という点であろう。繰り返すように、ラロンは自らの出生について、誰もが満足するような答えをしたことはなかった。一番弟子のボライ・シャハなどが『ヒトコリ』誌のヒンドゥー・カヤスト出自説を支持しているのだから、この弟子の証言だけでは、それを覆す根拠とは成り得ないだろう。

 第2のラロンの詩句については、特にラロンの詩の中に現れた、ムスリムであることを意味する「割礼をする生まれ(katnar jat)」という言葉が問題にされた。この句がラロンの作った詩に含まれているので、ラロンは自らの出自をムスリムだと表明していると、アブ・タリブは主張するのである。しかし、この点については、後にショノット・クマル・ミットロが、かなり詳しくアブ・タリブの詩の引用の経過を検証しており、この部分がアブ・タリブによる後の脚色であることを指摘している。[24] しかし、それにも関わらず、この詩の中の言葉は、ラロンのムスリム出自を物語る有力な根拠とされてゆくのである。そのことは、後の1968年に刊行されたアブ・タリブによるラロンの歌集『ラロン・シャハとラロン歌』にもこの詩が収録されることで、異本系統の存在は決定的となった。すなわち、既述のウペンドロナトやカルカッタ大学のモティラル・ダスの『ラロン歌集』などと、アブ・タリブ以降の『ラロン・シャハとラロン歌』の二つの系統が存在することになった。そして、ルッフォル・ラフマンやコンドカル・リヤズル・フォクなどの一連のバングラデシュの研究者の間でも、この見解は受け継がれてゆくのである。[25]

 第3は、ドゥドゥ・シャハによる手書き文書の存在である。これは、ラロンの弟子であったホリシュプル村のドゥドゥ・シャハが、韻文としてラロンの生涯を書き残したとされるものである。しかし、ホリシュプル村出身説を取る研究者以外には概ねこの文書は、弟子によって後に書かれた創作であるとして退けられている。その根拠に就いては、ラロン研究者のアフマド・ショリフは、修行内容の記述、親族間の人物名称の不自然さ、詩の形式、歴史的地名の矛盾、そもそも生前に出自の名乗りを否定したラロンの出自が何故死後に明らかになるのか、などの様々な点からこの文献の信憑性に疑問を提出している。[26] 

 第4は、アブドゥル・ワリの記述である。これはすでに、伝記的事実の形成で取り上げたように、ラロンの死の直後に残された4つの初期文献のひとつである。問題は、このワリの記述のみが、他の『ヒトコリ』誌などと異なり、ラロンの生まれをその導師と同じホリシュプル村と言及していることである。そのため、これはラロンのホリシュプル説を支える有力な根拠として、以後くり返し引用されるようになった。しかし、このワリの記述に依拠するならば、見逃すことの出来ないことがある。すなわちワリは、ラロンの生まれを他の文献と同じカヤストであったとその後に続けて述べているのである。そのため、ワリがシラジ・サンイとラロンの出身村を混同したのか、それとも出自の宗教のみを誤ってカヤストと記述したのかは明かではないが、そのどちらの可能性も論理的には排除されないのである。したがって、「カヤストの生まれ」と書いてある部分を無視してワリの記述を引用することは、都合の良い部分だけを取り出しているという批判に晒されることになった。[27]

 第5は、ロフィウッディンの証言である。コンドカル・ロフィウッディン(1904-?)は、パンジュシャハの息子である。このパンジュ・シャハは、ラロンの次世代のバウルであり、ホリシュプル村出身のバウルの導師として知られていた。このロフィウッディンが、ラロンはホリシュプル村の生まれであると述べたことが、アブ・タリブによって引用されたのである。ところで、この証言を最初に取り上げたのは、ウペンドロナト・バッタチャルヤであった。1957年に刊行された、『バウルとバウルの歌』の中で、ウペンドロナトは次のように述べている。

 

(コンドカル・ロフィウッディン氏によると)ラロンの導師であるシラジ・サンイが、ジョソル県のジナイドホ地区にあるホリシュプル村のある駕篭かき人夫であったと述べている。そしてラロンもまた、この村の出身であったというのである。… しかし、様々な理由で、この記述の主張には信憑性が少ないと思われる。[28]

 

 このように、アブ・タリブの主張は、その後多くの議論を呼び、またその信憑性が疑われるようにもなった。しかし、むしろアブ・タリブの論説で重要なことは、これ以降ラロン・シャハの出自には異論があるということが広く世に知られるようになったことであり、それを巡り数多くの議論が寄せられるようになったことである。ホリシュプル村出身説を取るバングラデシュ内の多くの論者は、多くがアブ・タリブの上記の根拠に基づくことで、ラロンをムスリム出自であると述べるようになってゆく。このような論調の代表的なものとして、オヌワルル・コリム(1937-)、コンドカル・リヤジュル・ホック(1940-)、S.M.ルッフォル・ラフマン(1942-)などを挙げることができる。

 これらの中で、アブ・タリブの主張に依拠して、さらに体系的にこれらの議論を行い、様々な角度から論戦を張ったのが、ダッカ大学のベンガル語学科教授のルッフォル・ラフマンである。特に、『ラロン・シャハ―その生涯と歌―』(1983)と『ラロン探求』(1984)は、ダッカ大学に提出されたラロン研究の博士論文に基づくもので、包括的にこれらの問題を扱っている。ここでルッフォル・ラフマンが主に展開している議論は、『ヒトコリ』誌に対する徹底した批判的な検証と、それに対するドゥドゥ・シャハの残した『ラロン行伝』などの在地の手書き文書に依拠するものであった。ルッフォル・ラフマンの提示した資料は、概ねアブ・タリブの提示したものから出るものではなかったが、数多くのラロンが残したとされる詩の解読を手がかりとすることで、その出自や宗教、親族構成などを詳細に再構成しようと試みている。また、『ラロン探求』の中では、先に述べたモンシュル・ウッディンの記述を痛烈に批判することで、次のように述べている。

 

「しかし、「非常に熱心さで試み」ることで、いかなる嘘が真実に、そしていかなる真実が嘘になる事があるだろうか? ラロン・シャハは生まれたときからムスリムであった。このことは、たとえモンシュル・ウッディンが否定しようとも、事実なのである。… ラロンの出生地はバラル村などではなく、ジョソル県のホリシュプル村である。… これこそが真実であり、その証拠はラロン・シャハの弟子のドゥドゥ・シャハの書き残したラロンの伝記やモウロビ・アブドゥル・ワリの書いた論文にも示されている…。 これこそが真実であり、今日の確立された定説なのである。それを証明するために、もはや「非常な熱心さ」など必要ではないのである。」[29] 

       

 このホリシュプル村出身説で影響力を持ったもうひとりの論者は、オヌワルル・コリム(1937-)であった。オヌワルル・コリムは、1966年に刊行された著作『バウル詩人ラロン・シャハ』の本の中で、ラロンの出生地を、ジョソル県のホリシュプル村であり、ムスリムの織物作りの家に生まれたと述べている。その根拠は、アブ・タリブなどの先行研究の域を出るものではないが、ただ後に、ホリシュプル村在住の、「120歳になるアハド・アリ・モンドルやムンシ・アブドゥル・アジズなどの老人の話しによると、ラロンの家はホリシュプル村であったという」という証言を載せている。[30]  しかし、オヌワルル・コリムは、その学問的な影響力よりも、聖者廟に設置されたラロン・アカデミーの役職者を務めるなど、地元の有力者としての影響力を発揮するようになった。というのも、学問的ににはコリムの立場は時期によって微妙に揺れるからである。例えば、その10年後の1976年の著作『フォキル・ラロン・シャハ』では、次のように述べているのである。

 

 私は、過去20年に渡って、ラロン・フォキルの伝記的事実について、研究を行ってきました。しかし、その生まれや出生地については、今日までも確たる結論を出すまでには到っておりません。[31]

 

 現在の、最も強力なラロン・ホリシュプル出身説を展開している論者のひとりは、コンドカル・リヤジュル・ホックである。リヤジュル・ホックは、バングラデシュの権威のある学術機関のひとつであるバングラ・アカデミーにおいて民俗学部門の部長を務めていた。リヤジュル・ホックは、基本的にはルッフォル・ラフマンの所説にしたがっているが、特に『ラロン・シャハの聖地:ホリシュプル』(1972)という著作で、包括的な地域史の中にラロンの出生を位置付けようと試みている。ところでこのコンドカル・リヤジュル・ホックは、コンドカル・ロフィウッディンの甥であり、自らもホリシュプル村の出身者であった。そのため、ホリシュプル村の様々な人物の来歴に関する詳細な知識を背景とすることで、このホリシュプル村出身説を主導して行くのである。

 このような東パキスターン時代(1947-1971)を中心として強力に台頭した、ラロンの出自をめぐる異説形成の帰結のひとつを、政府の公定編纂史という性格を持つ『バングラデシュ県地誌(Bangladesh District Gazetteer)』に見ることが出来る。1976年に刊行された『県地誌:クシュティア』では、優れた宗教詩人としてのラロン・シャハを紹介するとともに、その出生地をホリシュプル村と述べるに到っているのである[1976:179]。

 一方、このような異説に対する反論も、インド側にとどまらず、バングラデシュ内からも熱心に展開されてきた。その多くは、既に述べたように、これらの異説に対する従来の通説に基づく反論という形を取っていた。このようなラロン伝の検証を行った後代の学者としては、バングラデシュ(東パキスターン)側では、A.H.M.イマムッディン、アブル・アハサン・チョウドリなどが、積極的に発言している。カルカッタを中心とした西ベンガル州側では、ショノット・クマル・ミットロ、シュディル・チョクロボルティ、ショクティナト・ジャなどの名前を挙げることが出来る。それは、時には共著としてそれぞれの論者が自説を展開する論文集として編まれた物もあり、また個々の著作を通して、それぞれの議論の応酬を続けているものもあった。例えば、ラロンの生誕2百年を記念することで、それぞれの立場から、少なくとも3種類の論文集が編纂されている。すなわち、バングラデシュのアブル・アハサン・チョウドリ編になる『ラロン記念集』(1974)。西ベンガル側のトゥシャル・チョトパッダエの『ラロンへの追憶』(1976)。ホリシュプル説を唱えるコンドカル・リヤジュル・ホックの編集になる『ラロンの文学と哲学』(1976)である。

 ところで、このような一連の論争は、ラロンがヒンドゥーかムスリムかという議論以上に、人々の宗教意識に対して深い影響を与えるものであったと考えられる。すなわち、宗教的な帰属を問題にすること自体が、ヒンドゥー・ムスリムに関わり無く、あたかも人種集団や生物学的分類のように、人間が必ず特定の宗教的な帰属に分類されるものだとするイデオロギーを強く内包するものであったからである。すなわち、このような議論によって、ラロンがヒンドゥーと述べられようともムスリムと主張されようとも、いずれにしても近代的なコミュナルな観念に基づいた人々の宗教性を問題にするという点では、同様の次元に立つ議論になるといえるだろう。もちろん『ヒトコリ』誌を始めとしてラロンの初期の研究では、その危険性を察知して、常にバランスの取れた議論を試みてきたように思われる。しかし、例えばラロンの超宗教的な振舞いを強調しようとすると、一方では「ヒンドゥー」や「ムスリム」という、本質的に規定された宗教性を前提にしなければならないというジレンマを抱えるものとなるのである。

 今なお国民的な人気を失わない民衆詩人ラロン・シャハが、このような意味での出自論争に巻き込まれて行くことは、その議論の帰趨がいずれの方向に向うにしろ、その議論自体の人々に与えた影響は計り知れないものがあったと考えられる。言いかえるとこのようなラロン像の解釈は、英領インドの分離独立や東パキスターンの成立といった社会変動を背景とした、人々の宗教意識の変化を如実に映し出すものとなっているのである。生前のラロンが、自らの「生まれ」についての問い掛けに答えることなく、むしろ謎掛けのように、その質問者に問いを返す歌のみを残したことの真意は、このような人々の「宗教性」に対する理解の質を、質問者に対して問い返そうとするものだったといえるのではないだろうか。

 

 

まとめ

 1971年のパキスターンからの独立によって、新生国家バングラデシュが登場する。そのことによって、ベンガル人の国民文学を代表する詩人として、タゴールと並びラロン・シャハを見なおす動きも進められた。1990年には、ラロン没後100年を記念した、バングラデシュ政府の記念切手も発行されている。近年では、バングラデシュの最も権威のある研究機関のひとつであるバングラ・アカデミーから、モメン・チョウドリによって『ラロン研究集成』(1995)も編纂されている。これは、これまでラロンについて書かれた論文、著作、記事をリストにしてまとめたもので、文献の解説などではなく、ただラロンについて書かれた膨大な書物のリストを編纂するだけで、一冊の書物が編まれているのである。そして、このバングラ・アカデミーから出版された、アブル・アハサン・チョウドリの『ラロン・シャハ』が、今日のバングラデシュにおける最も広く支持された基本文献となっている。この著作は、1990年に出版されているが、この中でチョウドリは、ラロン伝記の異説を紹介し両者の議論を検証しながら、最終的にはその両論を併記することで論争を回避しているのである。

 また、ハシナ政権(1996-)のバングラデシュ政府は、このようなラロンの宗教論争には深入りせずに、バウルの歌い手としてのラロンを顕彰する方向に向っている。ラロン博物館などの付属施設の建設を目指して、政府は1997年に、3,640万タカ(約8,000万円)を投ずる「ラロン・コンプレックス」建設計画を発表した。しかし、このラロン廟自体が、弟子のフォキルたちによって、現在係争状態にあり、その背景にはこのようなラロンの宗教性をめぐる問題があることは明かである。そのため地元では、ラロン廟の境内の改修さえもままならず、廟が打ち捨てられた状態が長く続いているのである。ラロンを民俗音楽の歌い手としてのみ取り出して、宗教的な教えをそこから分離させようとする試みは、そのためそれ自体が、すでに政治的な動きに直結するものとなりかねないのである。[32]

 このように見て行くと、バングラデシュにおけるラロンの出自をめぐる論争は、しばらくは決着を見ることはなさそうである。むしろ今日のバングラデシュの学会やマスコミなどの言論界は、このラロンの出自問題に沈黙することで、その中立的な立場を表明しようとしているようでもある。[33] あるいは、そのような問い掛けの試み自体が、ラロンを「ヒンドゥー」か「ムスリム」かという、果てしの無い近代の袋小路の中に、人々を追い込んで行くようにも見えるのである。したがって、このラロンの出自をめぐる論争については、インド側の定説として確立されているラロン像に対して、バングラデシュにおける論争は、揺れ動く今日のバングラデシュの人々の宗教的アイデンティティーを、そのままに映し出しているようにも見えるのである。あるいは、政府による新たな付属施設の建設などのラロン廟を取り巻く様々な状況は、将来のバングラデシュの宗教的ナショナリズムの行方を占う、試金石のひとつにもなっているといえるだろう。

 もとより拙稿の短い議論は、このラロンの出自問題に決着を付けようとするものではない。なによりも、このラロン廟をめぐる終わりの無い論争は、バングラデシュの人々が現在も直面する様々な問題の、切り離すことの出来ない大切な課題の一部となっているように思われるからである。

 ひとまずここでは、バングラデシュのムスリムのラロン研究者である、A.H.M.イマムッディンが述べた一節を引用することで、この論考の締め括りに代えて見たい。イマヌッディンは、その著書『バウルの思想とイスラーム』(1969)の中でこれまでなされて来たラロンの宗教的な出自を巡る論争に触れると、最後に次のように述べるのである。

 

ラロン・シャハが自ら、「7つの市場に売り払ってしまった」と言う「生まれ」の話しを、またぞろ100年も経ってからむしかえし、その売り払ってしまったはずの話しを買い戻そうとするような愚かな試みが、いまさら何故なされようとするのだろうか? ラロンは生前に、「生まれ」の違いなどというものにこだわったりしなかった。それが今になってまた、ラロンの「生まれ」について取り沙汰するなんて、そもそもラロンに対する冒涜と言うべきではないのだろうか?[34]

 

 

 

 

<付記>

 本稿の作成にあたり、ベンガル文学協会(Bangiya Shahitya Parishad, Calcutta)バングラ・アカデミー図書館(Bangla Akademy Library, Dhaka)より、資料閲覧の便宜を得た。また、Islami UniversityのAbul Ahasan Caudhury氏、Anuwarul Karim氏。 Bangla Akademy のKhandkar Riyajur Haq氏、Sukumar Biswas 氏。Dhaka UniversityのS.M. Lutphar Rahman氏。Kalyani UniversityのSudhir Cakrabartty氏。K.N. College のShakti Nath Jha氏に特に助言を頂いた。ここに記して謝意を表したい。なお、参照文献は、一部を除きすべてベンガル語文献であるが、紙面の都合で表記は簡略化されたローマ字表記に留めている。より詳しいラロン文献の資料については、Caudhuri[1995]を参照されたい。

 

 

      

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[1] フォキル・ラロン・シャハ(Fakir Lalan Shah)の名称については、インド西ベンガル州側では、「ラロン・フォキル」という呼称が一般的である。しかし、クシュティア地方、並びにバングラデシュで確立した名称は、イスラーム聖者の意味を持つ「シャハ」をつけた呼称である。本稿では、この表記に統一した。

[2] ラロン・シャハのバウルの宗教者としての性格については、ここで詳しく論じる余裕は無い。この点については差し当たり、Upendranath Bhattacharyya, Bangla Baul o Baul Gan. 1957. などを参照されたい。また、ラロン・シャハの詩に付いては、数少ない日本語訳の試みとして、大西雅幸[1986]を参照されたい。このような宗派にとらわれないベンガルの宗教詩人の今日的意味については、かつて拙稿で論じたことがある[外川 2000]

[3] Grambartta Prakashikay, 10(17), ,Augst,1872.

[4] Hitakari, 1(13), 31,October, 1890.

[5] Lalan Fakir o Gagan. Sarala Debi.  Bharati. Calcutta, 1895; Bhadra.

[6] Haramani. Muhammad Mansuruddin(ed.).  Pratham Khandu. Calcutta, 1929.

[7] Kushtia Baul Sadhak. Abul Ahasan Caudhuri. 1974,pp.118-122.

[8] Bratya Lokayat Lalan. Sudhir Chakrabarty. 1992,p.23.

[9] Journal of the Anthropological Society of Bombay, Vol.V, No.4, 1898: 217. On Curious Tenets and Practices of a Certain Class of Faqirs in Bengal.

[10] Lalon Fakir o Tanr Gan. Ray, Annadashankar. 1991. Calcutta; Mitra o Ghosh Pablishars.  p.15; pp.31-35.

[11] 巡礼の行き先については、Pal[1955:5]は、ムルシダバードのボホロンプルでのガンジスの沐浴という説を紹介する。Wali[1898]は、「ジャガンナートや他の寺院に詣で」と述べている。Upendranath[1957:535]は、オリッサ州のプーリーと述べている。また、『ヒトコリ』誌はただ、「巡礼に出た」と記している。

[12] Upendranathは、ラロンを介抱したのが、フォキル・シラジ・サンイとその妻であり、病が癒えてから、直接シラジ・サンイに人門式(ディッカ)を受けたとする[1957:535]

[13] このシラジ・サンイについては異説がある。既に見たように、アブドゥル・ワリなどは、このその出生地をジョソル県のホリシュプル村とする。ボショント・クマル・パルは、同ジョソル県のフルバリ村と考えている。また、モンシュル・ウッディンは、クシュティア県のクマリカリとする。

[14] Muhammad Masuruddin, Haramani, 2 khandu, Bangla Academy, poush 1971, p.30.

[15] Upendranath Bhattacharyya, Bangla Baul o Baul Gan. 1957,p538.

[16] 例えば、1942年には、クシュティア地方のイスラーム運動を行っていたモオラナ・アフサルウッディン・アフマド(1887-1959)は、ラロンの聖者廟での祭礼を襲撃し、廟に集まったフォキルたちを捕らえ、頭髪を切り落とすなどの迫害を行っていたCaudhuri [1990:111; 1992]

[17] Muhammad Mansur Uddin, Haramani, 7 khandu, 1964.

[18] Lana Fakir Hindu na Musalman? Muhammadi, Caturddash Barsh, Nabam Sankha, Ashar, Calcutta; 1348(1941).

[19] ただし、ラロンの「生まれ」とは別に、セウリアでのラロンについては、研究者の間でも議論が分かれている。すなわち、晩年にラロンが、ムスリムだと見なされたことを否定しなかったという事実をめぐっての解釈の違いである。ここでは、モンシュル・ウッディンのように、もう入門式(ディッカ)を受けてフォキルになったのだから儀礼的には後にムスリムになったと考える立場と、そういう宗派自体を超越した境地にあったとするウペンドロナトの議論が対比される。その中庸のオンノダ・ションコル・ラエなどは、確かにムスリムにはなったが、それは「バウル」や「ネラ・フォキル」といった正統派ムスリムからは蔑視される存在としての特殊なムスリムだとする立場である。

[20] Abul Ahasan Caudhuri[1990:79].

[21] その他にアブ・タリブは、ラロンの1881年の土地購入に関する証書を、後にその有力な証拠に加えている。ここには、ラロン自らの署名のもとに、ラロンがジャーティとしてムスリムであり、父親がシラジ・サンイであると記されている。これについては『ラロンの哲学と文学』コンドカル・リヤジュル・ホック編[1976]収所のタリブ論文に詳しい。しかし、この資料は、ホリシュプル村出身説を直接支持するものとは言えないだろう。

[22] Muhammad Abutalib, Lalan Pariciti, 1968, p.8.

[23] Sudhir Cakrabarti, 1992.

[24] Sanat Kumar Mitra, 1979, pp.33-49.

[25] この点について、コンドカル・リヤズル・ホックに尋ねたところ、「ラロン自身が書き残した歌詞は存在せず、実際にはラロンの詩は、弟子の間で語り歌われることで伝承されている。その中には、異なる言葉を用いて歌われる詩もあるので、詩に二つの系統があることは、不自然なことではない」と述べていた。

[26] Abul Ahasan Caudhuri, 1990, p.8-9.

[27] Sudhir Cakrabarti, 1992, p.29.

[28] Upendranath Bhattacharyya, 1957, p.536.

[29] Lutphar Rahman, 1984, pp.10-11.

[30] Anowarul Karim, Lalan Giti, 1966, p.22.

[31] Anowarul Karim. Fakir Lalan Shah, 1976, p.1.

[32] 立ち退きを強制されたラロンの弟子達は、現在政府に対して聖者廟で活動する権利を取り戻すため、高等裁判所で係争中である。また、政府のコンプレックスの建設を、聖者廟の境内の外にするように請願を行っている。しかし、2000年8月には、このような弟子たちの運動にもかかわらず、ラロン・アカデミーは、聖者廟でのコンプレックス建設に着手した。

[33] 例えば、Enamul Haq[1975:296-316]は、バウルにおけるスーフィー文化の影響とその中でのラロンの歌の意義を強調しつつ、もう一方でラロンの出自に付いては沈黙している。Abdul Karim は、筆者のインタヴュー(2000/1/21)の中で、「現在のラロンの論争に自分は参入するつもりは無い」と述べている。逆に、ヒンドゥー知識人にとっては、ラロンに関する立場の取り方によって、その人物の世俗性が測られると見なされているようである。

[34] A.H.M.Imamuddin. Baul Matbad o Islam. 1969, p.52