ここの背景画像はまりまりさんの「いろいろ素材」からお借りしました。

テルミドールの反動の小部屋

La Chambre de Thermidor

「暴君を倒せ!!」

平成12年3月6日

テルミドールの反動の小部屋にようこそ。ここは、テルミドールの反動だけの小部屋です。いろいろな時間軸、空間軸を使ってご紹介します。

はじめに

  「時間表」

ロベスピエールが発砲された ギャラリー

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  「概要/テルミドールの反動」
  「人物/ロベスピエール」

       

「索引/テルミドール」

「索引/ロベスピエール」




●はじめに

「テルミドールの反動」フランス革命は終わった革命の良心も葬リ去られた、と言う人はたくさんいます。確かにテルミドールまでと以後とでは、革命の流れそのものに天と地ほどの大きな差があります。ロベスピエールの同志でありながら、テルミドールでは彼を裏切り断罪したビョー・バレンヌコロー・デルボワなどは生涯後悔しました。マティエは「政治屋が政治家にとって代わった。国家的人物は全て死んだ」と断言しました。至言だと思います。

そもそもこの反動は、ロベスピエールを恐れていたタリアンが、投獄され明日をも命の知れない愛人テレーズ・カバリュスに牢獄からひどくせっつかれたため、失敗するつもりで決起したのです。ロベスピエールを倒したことは本人が一番驚いたことでしょう。その後まもなく、タリアンはテレーズと結婚しますが、すぐ捨てられてしまいます。なんとも間抜けな話ですが、その間抜けな話に付き合わされ、真の革命家達が悉く葬り去られたのは、やり切れない気もします。

とは言え、この反動は歴史の必然なのでしょう。歴史とは面白く、小さな偶然の積み重ねが、大きな事件を招くことが多々あります。「ヴァレンヌの逃亡」の失敗もそうですが、この反動もさまざまな小さな偶然が重なりました。その中のふたつ、みっつが起こっても、どうってことないのに、どうして、と思うほどつまらない偶然が重なったのです。それは、おそらく、歴史の大きな流れが要求しているのでしょう。

1789年7月にバスティーユが襲撃され、1794年7月にテルミドールが起こりました。フランス革命は一般的に、1799年までの10年間を指しますが、実態はテルミドールまでの5年間に進むべきところまで進みました。後の5年は、その修正にすぎません。ほんの5年で絶対王政から民衆を中心とした共和政になったのです。その激変に耐えられなくなった社会が、テルミドールを起こしたのでしょう。ロベスピエールが失脚し、フランスは民衆のためではなく上級ブルジョワのための共和政になりました。

このとき、小さな出来事も起こります。ロベスピエール派ということでひとりの砲兵司令官が投獄されましたが、その才能を惜しまれ、二週間で釈放されました。その名は、言わずと知れたナポレオン・ボナパルト

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