●第25回総会 代表 西村綾子のあいさつ(要旨) 2008年8月 

ご参集のみなさん、ご苦労様です。
 本総会は、婦人民主クラブの進路にとって、また労働者階級全体の利益と未来にかけても重要な転換点、歴史的な総会になろうとしています。
 ご承知のとおり、本総会を前にして松野尾かおる、杉村尚子両元運営委員が、数人の会員を巻き込んで脱会しました。ここ一年半ほどの間、個別にもまた運営委員会としても真摯な討論を重ねてきたにもかかわらず、そこからも脱落・逃亡したのです。
 彼女たちは、これまで反戦や女性解放などとたたかう姿勢を表明してきた人たちです。いよいよ労働者の団結と国際連帯が発展して、階級闘争が本格的になろうとしていることに恐怖し、あれこれと言い募って、組織の分裂を図ることは、どう見ても裏切りです。
 彼女たちの変質と裏切りの核心はなんでしょうか?
 ひとつは、動労千葉のたたかいを否定して、団結を拒否していることにあります。「動労千葉ばかり評価するのはおかしい。未組織労働者や非正規雇用の労働者を組織しなければ」とか「体制内労働運動でなぜ悪い」と言っています。
 分割民営化をもって労働組合の破壊をねらった敵の攻撃に、絶対反対を貫いて、労働者の団結を守り抜き、ストライキで勝利してきた動労千葉は、世界に誇れる存在です。労働者民衆が、もう我慢ならないと思っているのに、なかなか労働運動が爆発しない、それは既成の政党や労働組合幹部などが怒りを組織しないどころか、制動をかけ、資本と権力の支配に手をかしているからです。お願いや、日本共産党がいうような「資本主義の枠内」の運動では、解決しないどころか殺されかねない、絶対反対が必要です。国鉄一〇四七名闘争解体の四者四団体路線は、体制内のゆきついたものです。
 さらに、彼女たちは十一月労働者集会の国際連帯の切り開いた地平に、全く喜びも展望も見られなくなって否定しています。
 三つめに彼女たちは、学生や青年労働者の「労働運動の力で革命やろう」の提起に震え上がり、否定しています。「革命なんて言ったら人は引く」と彼女たちは言いますが、引いているのは彼女たちじゃないですか。
 そして四つめに、私たちの命である新聞を「あんな新聞くばれない」と配布しなかったり、大量に減部してきました。さらに、差別事件ねつ造にくみして、経過もねじ曲げ、許せないことに偽りのオルグで読者や会員を惑わして脱会を組織しました。真正面からの路線論議を否定したことは無責任極まりなく、許し難い大罪です。

路線論議は時代の要請

 路線論議は時代が求めています。戦後の革命期に誕生した婦人民主クラブも、何度かの試練を経験しています。それは常に階級闘争の歴史の節目で組織の生き方・路線をめぐって起こりました。
 多くの女性団体が攻撃に屈して体制内運動に転向、あるいはたたかいを限定する中で婦人民主クラブは権力・体制内と非和解的にたたかう人々とともに進むことを選択してきた組織です。
 六〇年代に核問題で、七〇年は学生運動の救援をめぐって。八四年の分離・独立も男女雇用機会均等、三里塚の実力闘争をめぐっての本部との対決だったんです。
 しかし、今おきていることは、これまでとはレベルが違う。ここが天下の分かれ目。私たちがたたかいの柱にしてきた3・8国際婦人デーのスローガン「パンと平和」、これが再び原点を問うものとして選択の柱になっています。このときに第二インターが崩壊していくわけです。
 分断されている女性たちを労働者階級の解放の中に女性解放があることを訴えて団結するのが私たち婦民の役割だと思います。
 「革命やろう」と真正面から青年たちが訴えた、このことにちょっと自分は言えないなとか、私もそういう面ありました。だけど考えてみたらそれ以外にないですよね。この鮮烈な登場に私たちは先輩として本当に喜びをもって応える必要がある。
 動労千葉に学びましょう。団結と実践です。本総会でおおいに討論して十一月一万人結集を私たちの力で実現しましょう。

●関西ブロック 代表 山本美知子さんの発言より

 この半年間、本当にがむしゃらに、なにがなんだかわからないくらい必死にたたかってきました。はっきり言って職場では労働強化がどんどん進んでいますし、「日の丸・君が代」攻撃、評価システム、職場閉鎖攻撃、そういったものと本当に先頭になってたたかっているメンバーがこの婦民決戦をたたかって、今日あつまっています。
 一月以来、松野尾さんたちは、関西で地道ながらもいろんな地域に入っていく活動というのではなく、ひたすら本部批判ということでやってきていました。ついに七月十二日に、私たちはあなたたちといっしょにはやれないんだと決別宣言をしました。で、今日押しかけて来るかと思っていたら、情ないことについに完全に脱落逃亡しゃったということで、私たちはここに勝利の宣言をします。
 しかしはっきり言って、この過程が単純きれいなものじゃなかったということも言っておきたいと思います。あまりにも彼女たちがとんでもない、腐敗のスピードが速いということがあって、それ自体、私たちがびっくりしながらおたおたしながらきたということもありますし、やっぱり私たちの中にも彼女たちが持っているものを抱えながらきたので、私たち自身の自分とのたたかいだったということです。それと、もう一つは松野尾さんたちにだまされている仲間たちをなんとか獲得したいということで、なんとなく仲良く、体裁を整えてという考えも残りながらきたので、ためらうこともありました。でもやっぱり話し合って「そうじゃない」と、そういう仲間を獲得するためにも私たちがどういう立場でたたかっていくのかを宣言しないと、はっきりしないということをつかみとり、ここに新しいといいますか、もともとといいますか、関西ブロックとして旗を立てることを決断しました。そして今日ここに立ち、みなさんとともにここに立つことができたこと、バンザイといいたい。
 今までの婦民の、たたかう側を選択するというあり方からですね、婦民自身がやっぱり、革命の旗をたてて最前線でたたかう、自分自身の職場地域で断固としてたたかうという婦民に、私たち自身が今日をスタートにやっていくということだと思います。
 大阪府職の青年が巨大なたたかいを始めています。このたたかいと一つになって関西ブロックもがんばっていきます。

●「婦人民主クラブ」2007年1月1日号 紙つぶてより

 夏の終わりに植えたイタリアンパセリが、青々と越年した。地中海生まれのこの植物、グローバルの波に乗ってジパングに来たが、住み心地はどうだろうか▼近代の日本はこのパセリのように、欧米からいろいろなものを受け入れた。モノだけでなく、文学・芸術・思想もあった。中でも天賦人権論など民権思想は、いち早く多くの民衆の心をとらえたといえよう▼この国の百年余の歴史をふり返ると、国・権力と民衆とが二つの潮のようにぶつかりあってきた。どちらの潮の力が強まるかは、世界の動向とも結び合う▼1980年代から2000年代、アメリカの好戦的政権と結んだ日本の政権は、次々と戦争法を繰り出し、民衆の生活権利を脅かしてきた。「憲法を変える」はその頂点である▼国と民との間の海溝はいまや限り無く深まり、海底のマグマを目覚めさせている。悪逆の権力者マクベスが受けた予言は「バーナムの森が進軍してこない限り、お前は安泰」だが森は攻めて来た。「人侵されば戦うべし」(田中正造)賀春。
                       (『婦人民主クラブ』07年1月1日号 「紙つぶて」より)

●三宅晶子さんのアピール

三宅晶子です。
ぎりぎりになりましたが、個人的にも、以下のようなアピールを幾つかのMLにお送りして、国会への結集を訴えています。
【転送歓迎】
今日こそ国会へ! ― 歴史の分水嶺に立って行動しましょう
教育基本法改悪に反対するみなさんへ

三宅晶子@千葉大、「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」です。与党は、教育基本法改悪法案を、今週中に強行採決しようとしています。安倍首相の帰国で、予定が早まる危険が高まっています。12日の中央公聴会開催をもって「審議を尽くした」として、早ければ13日(水)にも特別委員会での採決が行われる危険性があります。しかし、衆議院で強行採決をした河野洋平衆議院議長自身、「公聴会直後の採決」に対して、「それでは何のために意見を聴いたのかということになる」とこれまでの慣例に疑問を呈し、「議会制度協議会」で見直しに向けて話し合おうとしているところです(朝日新聞12月7日)。公聴会直後の採決は不当!とのメール、ファックスを特別委員会、参議院に送りましょう。
 4月の通常国会上程以来、与党多数の中でこの法案の成立を阻み続けてきたものは、何でしょうか。それは、国会内での野党の共同戦線と、全国津々浦々で一人でも二人でも街頭に立って訴えた人々、小さな学習会やシンポや反対声明、各地で次々と開催されている数千人から万単位の反対集会、連日国会に結集し、院内集会で訴え、座り込み、ハンガーストライキを行い、国会前に駆けつけることによって反対の声を上げ続けている人々の力ではないでしょうか。
 「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」 http://www.kyokiren.netは、国会開会から、毎週火曜日6時に国会前集会を続けてきましたが、今日は、ほんとうに正念場の院内集会、国会前集会になります。教育基本法改悪を阻止できるかどうかは、「教育基本法「改正」法案成立確実」というマスコミ報道に惑わされることなく、私たちがここでどれだけ力を合わせられるかにかかっています。今週の結集が決定的に重要です。国会に結集しましょう。結集にはいろいろな方法があります。
@とにかく、時間があったら国会に行く!
  特に首都圏の方は、遠くの方の何人分もの意思が託されています。
A特別委員会にファックス、メールを送る。
B参議院議員にファックス、メールを送る。
Cマスコミへはたらきかける。 取材要請、投書等
D知人の方々に、このメールを回す。
E全国ツツウラウラ行動

審議が参議院に移って、メール・ファックスが減っているそうです。
今週は、これまでで最大規模の力が必要です。

自民党結党以来の50年で、 労働組合は行動権を失い、教員と保護者は対立の構図に追い込まれ、若い世代は社会的政治的意識をもつこと、行動することが困難な状況に追い込まれています。しかし、全国連絡会では、その若い世代が元気に声をあげ、どんどん動き始めています!
  全国連絡会HP(通称「あんころ アンチ心の総動員」)
http://www.kyokiren.net
  参照   
 
今、ここで、ファシズムへの一歩をとめることがとても重要です。お一人お一人が、歴史の分水嶺に立って、是非、できることを一つでも実行してください。今、大事なのは、絶対にあきらめないこと、意思を行動に表し、国会に結集することです。

●公聴会 抗議行動

アリバイの公聴会許さない! 神戸・徳島で抗議行動

 四日朝、神戸市のホテル・オークラで参議院教育基本法特別委員会による公聴会が開かれました。「教育基本法改悪をとめよう兵庫県実行委員会」のよびかけで、早朝から100人近い人があつまり、会場横のメリケンパークで集会、要請文の提出、会場前のデモなど、海からの寒風を跳ね返して抗議行動が行われました。
 午後3時からは、同じ委員が徳島に移動して公聴会を開くというので、百万人署名運動の人々とともに徳島へ。正午から徳島駅前で、地元徳島や岡山からかけつけた労働者市民とともに街頭宣伝を行いました。その後、会場の阿波観光ホテル前で文科省の担当者に文書を読みあげて絶対反対の意志をつきつけました。
 「公聴会」の名に値しないアリバイ作りのこの日の公聴会に、怒りはいっそう高まり、国会前行動と連帯して、一日一日をたたかい、廃案に追い込もうと参加者は決意を新たにしました。(大阪北支部 松野尾)

●パトリオット配備は朝鮮侵略戦争の準備             
発射されるパトリオット

みなさん、米軍が朝鮮半島での戦争計画を、すでに準備しているのを知ってますか? OPLAN「5027」というのがあって、これが2年ごとに改訂されています。
その特徴は
 1996年版までは、「北」の対南侵攻を受けた反撃作戦でしたが、98年版からは、米韓連合軍司令部の協力がなくても、アメリカ太平洋統合軍司令部が直接、北朝鮮を先制攻撃できるように方針を一変させました。さらに「戦争終結後、占領統治」という一段階を加え
 2002年版は、さらにエスカレート。「北朝鮮問題はアメリカ自身の安全保障問題」と、米軍単独による先制攻撃作戦をより明確にしています。
 そして04年版、この特徴のひとつが「パトリオットミサイルを含めた各種防衛ミサイルの重点配備とイージス艦配備を含むミサイル防衛システム(MD)計画の強化」なのです。
 これに加えてOPLAN「5030」という、特殊部隊を使った金正日体制の内部崩壊を導くとか、北朝鮮の攻撃を誘う新作戦計画を準備していることも報道されています(2003年7月・USニュースアンドワールドリポート誌 記事の概略は下に)。
 パトリオット配備は「防衛」でなく「攻撃」のためなのです。米軍再編は朝鮮半島への戦争準備なんです。絶対ゆるしちゃいけません。

OPLAN「5027」は、米軍69万人、空母5隻を含む艦船160隻、航空機1600機を動員する戦争計画です。
@第一段階ー北朝鮮に攻撃の兆候が見えた段階で軍事境界線(38度線)に集結する北朝鮮軍部隊や北朝鮮国内の軍事的要衝に対して猛爆を加える。
A第二段階ー北朝鮮内の軍事基地や主要施設に対する集中的な空爆を行う。
B第三段階ー韓国軍や在韓米軍、さらに駐留海兵隊などの地上部隊を投入する。
C第四段階ー首都・ピョンヤンを軍事制圧、北朝鮮政権を転覆して韓国主導の南北統一を実現する。
在韓米軍のシミュレーションでは、「核兵器を使わない場合でも100万人の犠牲者が出る」と予測されています

US News & World Report(7月21日号)の記事の概略:

 過去2ヶ月の間にラムズフェルド米国防長官は朝鮮半島での新作戦計画5030を立案することを,ファーゴ米太平洋艦隊司令官及びペンタゴン高官に命じた。両記者の情報源であり同計画案に批判的な米政府高官は,当該作戦計画は非常に「挑発的(provocative)」で,開戦と和平の境界を不明瞭にすると述べている。両記者は,最高機密である作戦計画5030案の『開戦前期』に関する部分の詳細について情報を得た(計画全体の詳細情報を入手したかどうかは不明)。計画案では,北朝鮮の限られた資源を消耗させ,軍部を緊張させ,金正日総書記に対して将官が反旗を翻すに十分な混乱の種をまくため,現地の米軍司令官に軍を動かす権限を与えることになりそうである。ファーゴ米太平洋艦隊司令官に求められた立案上の課題は「挑発的」であること。ある米政府高官達は,当該計画案は北朝鮮の軍部に揺さぶりをかけて金正日体制を崩壊させる戦略に等しいとみている。ペンタゴンは最近になってようやく当該計画案の詳細を大統領官邸,国務省及び関係省庁の高官に提示したところで,当該計画案は未承認の状態である。

 挑発的な動きのオプションの一つとしては,RC−135偵察機を北朝鮮の領空により近づけて飛行させ,北朝鮮空軍にスクランブルさせて希少なジェット燃料を消耗させる,また,数週間に渡る予告無し軍事演習を行い,北朝鮮人を掩蔽(えんぺい)壕に退避させて,貴重な保存食糧,飲料水,その他の物資を枯渇させる,などもある。作戦計画5030(案)は,従来の作戦計画には含まれていなかった,広範囲に渡る戦術的作戦をペンタゴンに実行すること求めていて,北朝鮮の資金ネットワークを混乱させ,偽情報を流布させることなども含まれる。

 作戦計画5030の立案は,ラムズフェルド米国防長官が推進している米軍改革によって触発された。


 非常に「挑発的」な作戦計画5030は,北朝鮮を開戦に踏み切らせる(もし,北朝鮮がRC−135哨戒機を打ち落としたら,又,韓国を砲撃したら,どうするか)という危険性だけでなく,平時において現地の軍司令官に挑発的行動の権限を与えることは,大統領そして連邦議会の開戦の権限を侵害するのではないかという危険性も孕(はら)んでいる。

国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟原告団・弁護団 声 明

 本日、東京地方裁判所民事第36部(難波裁判長)は、都立高校の教職員らが原告となって、東京都と都教育委員会(都教委)を被告として、国歌斉唱義務不存在確認等と損害賠償を求めた訴訟(いわゆる「予防訴訟」)について、原告らの訴えを全面的に認め、10.23通達を違法とし、@原告らに卒業式等における国歌斉唱の際に、起立・斉唱・伴奏の義務がないことを確認し、A起立・斉唱・ピアノ伴奏をしないことを理由にいかなる処分もしてはならないとし、B10.23通達によって原告らが被った精神的損害に対する慰謝料の支払いを命ずる、極めて画期的な判決を言い渡した。
 本件は、都教委が2003年10月23日付けで、卒業式、入学式等の学校行事において、教職員に対し、「国歌に向かって起立し、国歌を斉唱する」ことを命じ、それに違反した場合は、懲戒処分を科すとした全国的に見ても異常ともいえる「国旗・国歌」を事実上強制する通達(「10.23通達」)を出したことに起因する。 
 原告ら教職員は、教育現場での「国旗・国歌」の一律の強制は、教職員一人一人の思想・良心の自由をも侵害することになるとの思いから提訴に至ったのである。
 判決は、義務不存在確認請求、処分差止請求に訴えの利益が認められることを前提に、10.23通達の内容が、過去の歴史的事実から、国民の間にさまざまな見解が存する「日の丸・君が代」を教職員に対して一律に職務命令や懲戒処分等の手段をもって強制するものであって、憲法19条の保障する思想・良心の自由を侵害するものであると明確に判示した。
 また、都教委による10.23通達とその後の校長らに対する指導名目の締め付けが、卒業式や入学式について、各学校の現場における創造的かつ弾力的な教育の余地を残さないものであることなどを理由に、教育基本法10条1項で禁止される「不当な支配」にあたるとした。さらに、判決は、都教委の「不当な支配」の下で裁量の余地なく出された校長の職務命令は、教職員の思想・良心の自由を侵害する「重大かつ明白な瑕疵」があり、違法なものであることを認めた。
 今回の判決は、憲法で保障された思想・良心の自由の重要性を正面からうたいあげたもので、わが国の憲法訴訟上、画期的なものである。
 また、判決は、今まさに改悪の危機にさらされている現行教育基本法の趣旨を正しくとらえ、行政権力による教育への不当・不要な介入を厳に戒めたものであり、教育基本法改悪の流れにも強く歯止めをかけるものといえる。
 都教委は、判決に従い、違法な10.23通達を直ちに撤回し、教育現場での「日の丸・君が代」の強制をやめるとともに、生徒や教職員の自主性、教育の自由を侵害するような教育政策を直ちに改めなければならない。
 この判決を機会に、われわれの訴えに対し、国民の皆様のご支援をぜひともいただきたく、広く呼びかける次第である。
  2006年(平成18年)9月21日
             国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟原告団・弁護団
             「日の丸・君が代」強制反対予防訴訟をすすめる会

●夏芽さんからのメッセージ!!(接見された弁護士さんより)

 9月27日、無事釈放されました!
 
みなさんの抗議のかいあって、27日、「勾留の理由がない」(当然だ!)ということで夏芽さんは解放されました。緊急の要請に応えてくださり、みなさんありがとうございます。
●沖縄・辺野古から、不当逮捕の平良夏芽牧師 釈放
 9月25日の10:30頃、教育委員会の車がシュワブのゲートに入っていこうとしたところ、沖縄県名護市にあるキャンプシュワブゲート前で、
防衛施設局主導のシュワブ内調査に抗議して20数名が集まってい
たところ、施設局の車が強行突破しようとしました。
 これは先週も同じことがあり、住民たちが阻止したのですが、今回はより強引になって来たとのこと。
 施設局の車をうふざと伝道所の平良夏芽牧師が単身止めに入ったところ、車にはねられ、それでも立ち上がって言葉で抗議していただけなのに、名護警察は公務執行妨害で平良夏芽牧師を逮捕しました。
 

まずけがは本人も弁護士も確認し、大丈夫と言っています。あごと、手の先、ひざのすり傷、本人は病院にいく必要はないと言っています。
 ただ、みんなと闘うために、今から断食をはじめるそうです。
 心配なのは、自分が逮捕されることで情報がとぎれること。全国、全世界にながしてほしい。
 ピョンテクやフィリピンなどの弾圧のように、政府当局は運動を分断しようとしています。それをとめるために頑張りましょう。
 教育委員会、特に車の運転手の方に対しては、止めるために嫌な思いをさせて申し訳ありません。
 しかし戦争をとめるため、やらなければならなかった。どうかわかってほしい。
ただ事件の経緯については、委員会との違いがあり、夏芽さんは車は一旦減速したが急に加速、それで急いでとめた。
 しかし警察は、最徐行していたといっており明らかにおかしい。弁護士の方からは、これから弁護団をすぐに結成します。
 本当に逮捕する必要があったのかどうか非常に疑問であり、これから 追求していく。
 このままいけば、これからは72時間以内に検察庁に送られるので、その前に釈放させたい。そのために準備をすすめていきます。
との事でした。

●解放された後の平良夏芽さんのメッセージ

不当逮捕に怒り、心配して下さった皆様へ

 9月25日午前9時55分の名護署による不当逮捕によって身柄を拘束されていた平良夏芽です。長い拘留を覚悟していたのですが、全国・全世界の皆様からの激しい抗議が功を奏したのでしょう。昨日(27日)午後1時に釈放されました。二日半の拘留でした。
車に衝突した時に多少の傷は負いましたが、擦り傷・打ち身の程度ですでに回復しつつあります。疲労と断食で体重は3キロほど減りましたが良いダイエットになったと思っています。私は非常に元気です。
検察は、処分保留という判断をしました。私に足かせをつけたつもりなのだと思います。しかし、私を含めた仲間たちは、このことで弱っていません。今後は、さらに激しい弾圧が待っていると思います。それでも負けるわけにはいかないのです。私たちが負けるということは、基地が建設され、そこから発進する軍隊によって多くの人々が殺されるということなのです。
 私たちは、人殺しに繋がる基地建設は絶対に止めなければならないと決意しております。
今回問題になっているキャンプ・シュワブ内の文化財遺跡調査は、防衛庁主導のもので最終的には文化財を破壊し埋め立てることを前提とした調査です。私たちは、このような調査を認めず、文化庁主導の文化財を保護するための調査を求めているのです。
基地建設に繋がるすべてのことは、止めなければなりません。海の上で止めてきたように、陸の上でも止めなければならないのです。名護署の警察官には、「あなた達が県民を守る覚悟をしない限り、今後、名護署は良心囚でいっぱいになるでしょう」と伝えてきました。
今回の逮捕によって、私を非難する人もいます。しかし、その数をはるかに上回る人々が支持と連帯の挨拶を届けて下さいました。辺野古の闘いが、本当に多くの方々に支えられていることを改めて体感することができました。
皆様の敏速な動きに、深く感謝申し上げます。檻の中での生活をわずかでも経験すると、ともすると卑屈になって、皆様に謝罪しなければならないという気持ちも湧いてきてしまうのですが謝罪はいたしません。謝罪すべきは名護署であり、基地建設を強行しようとする勢力だと信じるからです。
しかし、動いて下さった皆様には、深く頭を垂れて感謝をしたいと思います。ありがとうございました。今後とも、連帯をよろしくお願いいたします。
                           9月28日

● 10・8三里塚現地集会招請状 千葉県堂本知事の「耕作権解除決定」に抗議を

千葉県知事への抗議送り先
●はがき等「郵便」の場合 〒260-8667 千葉県中央区市場町1-1 
●FAX 043-202-7320
●Eメール governor@pref.chiba.lg.jp  teian@mz.pref.chiba.lg.jp(県民参加のページ


▼10・8全国集会招請状
 三里塚芝山連合空港反対同盟

■全国の闘う仲間のみなさん。自民党新政権が憲法改悪を頂点とする大反動を一気に進めようとするなか、三里塚は暫定滑走路北延伸をめぐる決戦に突入しました。政府・国交省とNAA(成田空港会社)はこの九月中にも、延伸計画の認可と着工を強行する構えです。反対同盟はきたる十月八日、全国総決起集会を開催します。農地取り上げに抵抗する四十年の闘いを支えてくださった皆さんの、格段の取り組みを訴えるものです。
■政府の「三里塚潰し」はむき出しです。NAA黒野社長は、北延伸の「〇九年完成」は絶対だと公言し、さる七月、「への字」誘導路に食い込んだ天神峰地区・市東孝雄さんの農地を、あろうことか農地法を違法に使って取り上げようとする申請を千葉県知事に出しました。四十年の闘いで土地収用法が失効した農地を、法の理(ことわり)をねじ曲げてて取り上げようというのです。またNAAは東峰区住民との再三の約束をやぶり、住民たちが戦後開拓以来の入り会いの権利を持つ東峰の森を一方的に伐採し、大型機用の誘導路を新設すると通告しました。何がなんでも農家上空四十メートルにジャンボ機を飛ばし、反対農家を叩きだそうという攻撃です。
■これらは明白な国家犯罪です。農家の上空四十メートルにジェット機を飛ばす。大勢の私服警官が農家を二十四時間監視して威圧する。鉄のフェンスで村を覆ってしまう。あげくに無法きわまる農地収用に手を付ける。そして空港北部の騒音下で地区を割って移転を強要する。政府が「いかなる状況においても強制的手段は使わない」(九一年)と公式に確約し、「過去のいきさつを謝罪」したのは何だったか。その結末が、およそ憲法が保障する基本的人権さえも踏みにじる国家犯罪なのです。私たちは今こそ、地元住民や全国の労働者・学生・市民の力を合わせ、この暫定滑走路「北延伸」の無法を世に問い、政府のもくろみを挫折に追い込む決意です。
■三里塚現地の無法は改憲の先取りです。改憲の目的は戦争のできる国家体制づくりです。それは三里塚のような人民の抵抗運動を二度と許さない攻撃です。小泉政権を引き継ぐ安倍・自民党新体制は、子どもたちに「愛国心」を法律で強制する教育基本法改悪、改憲に反対する運動自体を禁止する「国民投票法案」、人の心を罰する「共謀罪」新設などを、この秋の臨時国会で一気に押し通す構えです。小泉政権以来の「構造改革」で、ごく一握りの大富豪が生まれ、圧倒的多数の働く者が、働いても働いても報われない社会に変ぼうしています。年間三万人が自殺に追い込まれる社会。「日本に農業はいらない」(日本経団連)と公言する農民切り捨て。これが「構造改革」の正体です。労働者と農民の闘いの指針は鮮明です。
■三里塚は政府の「国策」を四十年間阻んできました。現在もなお軍事空港の完成を阻み続けています。農民と労働者の正義が国家の論理を打ち負かしてきた。それが三里塚闘争です。改憲が通れば国防は「国民の義務」となります。反戦運動は「犯罪」となります。お上に逆らうこと自体が犯罪になる。それが改憲です。いまこそ三里塚の真価が発揮される時です。四十年の闘いで培った労働者と農民の連帯こそ、新しい社会を築く礎です。改憲を阻止するために、三里塚闘争は何としても勝ち抜かなければならない。北延伸阻止決戦の行方は、すべての労働者人民の未来と一体です。
■全人民の砦=三里塚を、北延伸阻止と改憲阻止の歴史的闘いのなかで、すべての皆さんとともに守り抜こうではありませんか。十・八全国集会には、青年労働者・学生諸君を先頭に多くの皆さんが三里塚現地に大挙して参加されることを心から訴えます。
 二〇〇六年九月五日

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暫定滑走路「北延伸」阻止/憲法改悪絶対反対
市東さんの農地を守ろう

 10・8全国総決起集会
【日時】10月8日(日)正午
【場所】成田市東峰・反対同盟所有地
《主催》三里塚芝山連合空港反対同盟
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●三里塚反対同盟 緊急抗議声明

 NAA(成田空港会社)黒野社長は7月10日、成田空港の暫定滑走路を「北延伸」して2500bにする計画変更申請を、敷地内農家と騒音下住民の反対を無視して強行した。北延伸とは、東峰区の農家上空40bに大型のジャンボ機を飛ばし、農家を殺人的騒音にさらして叩き出そうとする国家犯罪である。神社の立木を伐採し、いままた「東峰の森」を破壊し、農地と家屋、一間でも空港内に取り込むぼうきょは断じて許さない。身勝手な計画変更で空港北部の久住地区や高倉地区に騒音地獄を強制する暴挙は許されない。NAAは北延伸計画を全面的に撤回せよ! 9月にも強行といわれる北延伸「着工」を、あらゆる闘争手段で阻止するためにたたかい抜くことを宣言する。

 今回NAAは、北部住民の声を無視して「申請」を見切り発車させた。そして「地域振興」の言葉でごまかそうとしている。だが、大騒音とともにやってくる「地域振興」とは何だったか?滑走路南側の芝山町菱田地区で進行する廃村化の現実を見よ! 地価は下がり、里山は荒れ、、集落は分断され、生活破壊だけが残された。空港の拡張は百害あって一利なしだった。これが現実である。「市民派」を名乗る堂本知事が、NAAと同じ立場で騒音下住民の声を押しつぶす政治に荷担していることも到底認めがたい。

 黒野社長は記者会見の場で「(北延伸後の)さらなる延長」を公言した。ジャンボ機を飛ばして南側・東峰地区の農家を叩きだし、滑走路を軍用機も飛べる「4000b級」にする計画なのだ。北側の久住地区をはじめ、周辺地域を丸ごと無人化し、押しつぶす計画なのだ。これはさる五月の「米軍再編に関する日米合意」で、成田空港を米軍に提供すると決めたことと関係している。以前から成田空港は、有事の際に米軍に提供するといわれてきた。まさに暴挙としか言いようがない。

 さらにNAAは今回、「北延伸」で大型機を飛ばすために、「へ」の字誘導路の中にある天神峰地区・市東孝雄さんの農地を強権的に取り上げようと画策、成田市農業委員会に「耕作権解除」を申請した。この農地は市東さんの祖父が開墾し、以後90年に渡って耕してきた耕作地で、農地法を濫用し「耕作権解除」を強制するなどあり得ない土地だ。政府・NAAは「二度と強制的手段を使わない」とした93年の確約をも反故にしたのだ。市東さんは弁護団とともに、直ちに同申請を却下するよう農業委に申し入れた。不法な農地強奪は許さないとの強い意思表示である。

 北延伸工事の「09年完成」というNAAの身勝手な主張を、私たち反対同盟は絶対に許さない。東峰・天神峰地区で国家犯罪を告発する住民たちとともに、空港北側で理不尽な騒音に苦しむ住民たちとともに、そして全国で三里塚に心を寄せる仲間たちとともに、北延伸着工攻撃を真っ向から迎え撃つ覚悟である。以上、北延伸への「変更申請」に対する緊急抗議声明とする。

2006年7月11日 
三里塚芝山連合空港反対同盟

06年5.28北富士集会 申入書

申し入れ書

内閣総理大臣防衛庁長官 殿
小泉純一郎額賀福志郎 殿

 北富士演習場におけるイラク・サマワ宿営地模擬施設での自衛隊の訓練が、5月24日より6月3日までの予定で北部方面隊600人参加のもと強行されています。入会農民の演習反対の声を踏みにじり、たたかうイラク人民を敵に見立てた殺戮の戦争訓練を許すことはできません。心の底からの怒りをもって訓練の即時中止を申し入れます。
 サマワ宿営地模擬施設が建設されている12ヘクタールの土地を含む富士山麓の梨ケ原は忍草農民の先祖伝来の入会地です。忍革農民は高冷地の火山灰土で農業を営むために、古来よりそこに桑を植え、ソバを蒔き、燃料となるソダをとり、馬や牛の飼料、田や畑の肥料として草を刈り、建築資材をえて生活の8割を依存してきました。戦後米軍に強制接収されるなかで、忍草農民は米軍・自衛隊と対決し、1955年の米軍のカービン銃を突破して着弾地を占拠した闘いをはじめ、演習場のど真ん中小屋を建て3年3ヶ月座り込んで米軍演習を阻止しつづけた闘いなど、命がけの村ぐるみの闘いで1970年と1971年の2回にわたって「梨ヶ原に忍草農民の入会権があるという東京地裁の判決を勝ち取ってきました。この忍草農民の入会権を無視し、農民に無断で行われているサマワ宿営地模擬施設訓練を徹底的に弾劾します。訓練を即時中止し施設を撤去するよう要求します。
 自衛隊のイラクからの即時撤退を求めます。小泉政権は自衛隊のイラク派兵について、「復興人道支援」と称して戦争行為ではないかのようにいっていますが、アメリカのイラク軍事占領・植民地化と一体となつた侵略戦争への加担以外の何ものでもありません昨年の国民投票から5ケ月も経って、やっと成立したマリキ政府樹立のなかで、小泉政権は「イギリス軍の撤退状況など総合的に判断して自衛隊の撤退を考える」といっていますが、現在行われている派兵自体が一片の正当性のないものであり即時撤退を要求します。
 マリキ政権下でもイラク人民の民族解放のたたかいはとどまることなく発展しています。アメリカ・ブッシュ政権はイラク人民のたたかいの前に、進むことも退くこともできない泥沼に陥っています。そしてイランヘの戦争の拡大で危機を乗り切ろうとしています。また北朝鮮・中国への戦争拡大をも狙っています。
 5月1日に日米政府間で最終合意した米軍再編は、その戦争のために、沖縄や本土の米軍基地を強化するものです。この米軍再編は防衛庁関係者が「50年に1度の大再編」といっているように日米の新たな軍事同盟宣言です。米軍と自衛隊の一体化を進め、アメリカの世界戦争戦略に日本がどこまでも一体化し、北朝鮮・中国侵略戦争、世界戦争に突き進んでいくというものです。これは憲法9条を破棄し、集団的自衛権を全面的に取り入れようとする改憲攻撃と完全に一体のものです。沖縄の辺野古崎に新基地をつくることや座間に米軍司令部を設置することなど認めることはできません。北富士演習場を朝鮮戦争やベトナム戦争の時のように侵略の出撃基地とすることに断固反対します。
 アメリカをはじめフランス、ドイツ、イギリスでまた韓国で数十万人規模のデモやストが巻き起こっています。日本においても沖縄県民の決起、「日の丸・君が代」強制と対決し教育基本法改正と闘う教育労働者の闘い、共謀罪に反対する運動などが始まっています。暫定滑走路北延伸と闘う三里塚、労働組合破壊と闘う勤労千葉を先頭に私たちは小泉政権の戦争政治と対決します。
 自衛隊のイラク派兵演習即時中止、サマワ宿営地模擬施設撤去、北富士演習場の返還を強く申し入れます。

                            2006年5月28日 5・28総決起集会参加者一同



●国際婦人デー って何?

 3月8日は国際婦人デーです。第一次世界大戦前夜の1908年3月8日、ニューヨークの女性労働者たちが、低賃金や労働条件の改善、参政権を求めて集会を開きました。
 ドイツの女性革命家クララ・ツェトキンは、1910年にコペンハーゲンで開かれた国際社会主義者会議で、この3月8日を国際婦人デーとすることを提案、「婦人の完全な政治的自由と平等、平和のためにたたかう日」としてたたかいつがれてきました。
 1917年ロシア革命の口火を切ったのも国際婦人デーのデモです。1917年3月8日、ペトログラードの婦人労働者がストライキに入り、「パンと平和」を求める決起に男性労働者も合流、二日後にはペトログラード全市がゼネストになったのです。日本ではじめての国際婦人デーは、1923年に、「女性の政治的・社会的・経済的自由」をかかげた演説会が開かれています。

 

●「年表」(パンフレット『星々の火』より)

1946 婦人民主クラブ結成(3月)
1947 戦争反対・女性の権利獲得を掲げて戦後初の国際婦人デー
1948 主食・代替物価値上げ反対 内職など生活問題に積極的に取り組む
1950 朝鮮戦争勃発 レッドパージ・首切り反対運動支援
1952 破防法反対・改憲反対・労基法改悪反対運動 メーデー事件
1953 黄変米拒否運動 内灘・浅間・妙義など基地反対闘争
1954 原水禁署名運動にとりくむ 教育二法反対 PTA活動
1955 第一回母親大会に参加 第一回原水禁世界大会に参加
1958 広島ー東京平和行進各支部リレー 勤評・警職法反対運動
1959 安保改正阻止国民会議に参加 新聞代値上げ反対 相次ぐ炭坑閉鎖ー炭坑労働者家族支援
1960 安保条約反対の国会行動に全国から続々と上京
1963 原潜寄港反対 高校全入運動 三池炭坑大爆発事故救援活動
1966 中性洗剤反対運動始まる
1968 68.70年安保・沖縄闘争のもり上がり。婦民救援委員会、逮捕された青年学生の救援活動に取り組む エンタープライズ寄港抗議行動 ベトナム反戦
1970 三里塚闘争支援 沖縄復帰闘争 全軍労解雇反対支援 侵略・差別とたたかうアジア婦人会議に1000人の女性
1971 三里塚強制代執行救援活動 狭山差別裁判糾弾闘争に参加
1972 優生保護法改悪反対―全国の女性の大運動になる 相模原戦車阻止闘争(相模原支部誕生)
1975 天皇訪米反対 天皇の、国際婦人年日本大会出席に反対して婦民は不参加
1976 「天皇制・女集会」 各地で原発反対運動
1980 戦争への道を許さない女たちの集会
1982 反核集会 広島20万人/東京40万人/大阪50万人 優生保護法改定案再上程反対、廃案へ  
1984 七月婦人民主クラブ全国協議会結成 北富士で結成総会。新聞「婦人民主クラブ」第一号発刊 11月、均等法反対集会(東京・関西・広島)
1985 三里塚二期工事阻止現地闘争 動労千葉の分割民営化阻止ストライキ支援
1986 天皇在位60年式典弾劾
1987 天皇訪沖反対、沖縄へ代表団。 知花昌一さんの「日の丸」焼き捨て現場に立ち会う
1989 天皇ヒロヒト大喪の礼抗議 消費税反対 リクルート汚職弾劾 東京都議選で婦民の推薦する長谷川英憲さん当選 ソ連崩壊
1990 「即位の礼」「大嘗祭」抗議と、自衛隊の海外派兵反対で西村代表・丹治孝子さん七四時間ハンスト
1991 1・17湾岸戦争勃発、直ちに抗議 4月西村代表相模原市議選初挑戦 PKO国会行動 金学順さんの告発、軍隊慰安婦問題に取り組む
1992 PKO派兵阻止で小牧現地闘争 新聞の月2回化  
1993 11月保育制度改悪=エンゼルプラン反対で厚生省に申し入れ 小選挙区制反対国会行動
1994 日米による朝鮮侵略戦争発動の危機。在日朝鮮人に対する襲撃続発。新聞・行動で抗議続ける妊娠理由に解雇されたKさん闘争に勝利
1995 阪神淡路大震災。全国で救援に取り組む 4月西村代表相模原市議会議員に初当選 戦後50年攻撃との対決 民間基金反対で総理府申し入れ行動 全国の支部で女性労働者の実態調査アンケート
1996 破防法反対 労基法女子保護規定撤廃反対 沖縄県民投票
1997 安保・基地撤去で沖縄派遣 北富士で、草茅姫まつり 沖縄名護で、海上基地建設反対を問う市民投票 新ガイドライン反対百万人署名運動始まる
1998 新ガイドライン反対国会行動 百万人署名運動に各地で参加 狭山差別裁判抗議の座り込み 沖縄の女性たちとともに、基地はいらない女たち行動に1000人(東京)
1999 西村代表相模原市議選で再選 ガイドライン強行成立に抗議 国旗・国歌法成立。「日の丸・君が代」に反対する地域でのとり組み続く 盗聴法の成立に抗議 8・6ヒロシマ大行動始まる 介護保険制度成立、福祉を根本から破壊するものと反対。各地で学習会・アンケートなど。介護保険に反対する住民の会各地で結成される
2000 2000年3・8国際婦人デー中央集会 「介護保険制度に反対し、公的介護・福祉を求める女たちの会」出発 介護保険制度反対内閣府申し入れ 沖縄サミット抗議、嘉手納基地を人間の鎖で包囲 首都治安訓練抗議のデモ 女性国際戦犯法廷に参加
2001 「つくる会」教科書採択阻止運動に全国で取り組む 「9・11」事件 アフガニスタン侵略弾劾
2002 1.2月「とめよう戦争!女たちの全国キャラバン」有事立法阻止訴え沖縄から北海道まで4000キロ走破 住基ネット問題全国で学習会・反対行動 
2003 イラク開戦阻止・米ワシントン行動に派遣 イラク反戦・有事法反対に全力で取り組む 西村代表相模原市議三選
2004 国際婦人デー行動全国でアメリカからANSWER連合フィービー・エクフェルトさん、「発言する軍人家族の会」ヴィッキー・マンクさん招く。名護新基地建設反対、辺野古の座り込みに各支部から参加

 

●「婦人民主クラブ全国協議会のあゆみ」(パンフレット『星々の火』より)

@ 婦人民主クラブの誕生

 敗戦直後から、続々と労働組合が結成され、堰をきったように民衆が立ち上がりはじめました。その中で1946年3月、婦人民主クラブは「二度と侵略戦争をくり返さない」ことを誓って生まれました。
 天皇制家族制度のもと、差別・抑圧されていた女性が、一方で侵略戦争の担い手にもさせられたことを痛みをもって自覚し、「婦人の解放」をめざし、「婦人が民主的になっていくための組織」として出発しました。婦民は燎源の火のように全国に広まりました。女性たち自身の解放への強い欲求が最大の原動力でした。
 婦民は、戦後の窮乏から生活を守るために奔走し、労組婦人部、女性労働者と連携し、また朝鮮戦争を契機に急展開する占領軍と日本政府の戦争政策による弾圧にも負けず、決して「戦争反対」の旗を降ろしませんでした。「たたかいあるところに婦民の三色旗あり」といわれました。政治を自分たちの手に取り戻し、女性はたくましく成長していきました。 

A 婦民の原点を守って 1984年、全国協議会の結成

 アメリカがベトナム戦争に敗北し戦後の世界が激動しました。日本でも高度経済成長がいきづまり、国家財政の破綻、安保防衛政策の危機に直面します。「戦後政治の総決算」を掲げて82年に登場した中曽根政権は、戦後憲法の下にある日本から戦争のできる国へと、国家大改造に踏み切りました。そこで最大の「障害物」である労働運動を解体するため国鉄分割民営化攻撃をしかけ、反戦・反権力の砦である三里塚闘争つぶしに全力をあげました。婦人運動にも、70年代から国際婦人年日本大会への天皇出席問題、優生保護法改悪案、女性差別への怒り・不満を逆手にとった男女雇用機会均等法案など、差別を強めながら分断ととりこみをはかる攻撃がかけられてきました。
 婦民の中で、三里塚や均等法が大問題になりました。軍事空港のための農地強奪と体を張ってたたかい続ける三里塚農民の支援から手を引こうという意見、労基法改悪の突破口となる均等法については、「いいところがある」「婦民だけ反対しても無理」という主張。これは、権力とたたかう人々と連帯し、労働者の権利の獲得に力を尽くしてきた婦民の立場、歴史を踏みにじるものです。私たちはどうしても譲ることはできず、婦人運動の未来をかけて、全国協議会として新たな出発を決断しました。第1回の総会を米軍と自衛隊の演習場撤去を求めてたたかう北富士忍草母の会の地元、忍野村で開きました。

B「反戦を第一の仕事に」をかかげてー

 1984年 婦民全国協は月刊の『婦人民主クラブ』を発行し(92年10月から月2回刊)、新たな歩みを開始し「反戦を第一の仕事に」をかかげ、「女性解放・子どもの幸福」「くらしを守る自主的な力を築く」道を求めて西へ東へ走りました。
 85年、動労千葉の国鉄分割民営化反対スト支援以来、1047名解雇撤回闘争など具体的交流を重ね、労働運動の新しい潮流の動きに賛同し連帯してきました。
 87年天皇訪沖反対に組織としてとり組み、以後沖縄基地撤去のたたかいは、婦民活動の柱の一つです。部落解放、「障害者」解放のたたかい、民族差別・入管法問題、アジア民衆の戦後補償等々、差別・排外主義とのたたかいを真剣に学び、自身のテーマとして取り組んできました。
 91年、西村綾子代表は、相模原市議選に挑戦。95年当選以来現在三期目。権利を守り、反戦をつらぬく議員活動は、労働者民衆の運動と結びつき、力を発揮しています。
 93年の保育サービス法反対運動は会員の保育労働者、働く母親たちが中心になり全力をあげ、措置制度解体ー直接契約制の94年度実施を阻みました。「日の丸・君が代」強制反対、職場の労働条件やくらし・いのちを守るとりくみ、反原発、消費者運動、石けん運動、無農薬産直など、各支部が特性を生かして取り組んでいます。
 2002年冒頭の「とめよう戦争!女たちの全国キャラバン」は各地で大きな反響をまきおこし、有事法制反対運動に弾みをつけました。2001年9・11事件に衝撃を受けながら、イラク反戦、自衛隊派兵反対・撤兵に全力で取り組んできました。
 帝国主義大国による戦争と犠牲の押しつけは、国境を越えた労働者民衆の連帯を生み出しています。日本でも動労千葉などを中心に米・韓の労働者・労働運動との具体的な国際連帯が生まれ、婦民も03年1月のワシントンDCの行動に代表を送り、04年の国際婦人デーにはアメリカのたたかう女性を招いて交流を深めました。新しい仲間との出会いがたくさんうまれています。
 歴史が示すように、女性が団結するとき、全世界を揺るがすことができます。新しい世界を築こう!という鼓動が全世界で響いています。それを全身で感じ、婦民全国協は新しい歩みをはじめます。

 

●北富士「サマワ宿営地」報道 朝日新聞、2004年6月3日 山梨版

 

 

●よこはま・母・戦争 その8 横暴な占領軍 2003年12月15日付 第345号

 イラクでは毎日のように、占領軍へのゲリラ攻撃が続いています。米英軍の劣化ウラン弾を使った無差別の住民虐殺を考えれば、この抵抗のたたかいは当然です。
 日本の敗戦時も占領軍は傍若無人、無礼で、戦後の治安の悪さは占領軍が生み出したといっても過言ではないほどでした。夜、女を探しにきて見つからないと、腹いせに強盗に早変わり、防空壕で焼け残った生活用品はおろか、位牌を持って行かれたという笑い話のような事件もありました 主要駅の桜木町・横浜駅にはMPがたむろしていて、人波から壮年男性や若い女性を選び出して日本の警官に連れてこさせ、殺虫剤のDDTを噴霧するのです。人々は怒りで青くなりながらも、耐えるしかありません。もちろん米兵にも真珠湾攻撃などで戦死した、同胞の恨みもあったでしょう。しかし彼らに人間性はまったく感じられませんでした。
 また、満員電車に三〜四人で乗り込んできて、若い女性の体をさわったりして悲鳴を上げるのを面白がるなど、セクハラの限りをつくすのです。私は「これだけ男がいるんだ。殴り倒せ」「電車から突き落とせ」と叫びそうになるのを喉元でこらえ、「根性なし!」と言うのが精一杯でした。敗戦間近に「本土決戦だ」と走り回っていた将兵たちは、イラクのように占領軍の無礼に抗議し、立ち向かうことなどなかったのです。
 これまで威張り散らしてきた日本人男子の正体を見てしまった私は、しばらくの間、人間不信、男性不信に落ち込みました。これはその時だけの現象でなく、人格形成途上の私につきまとい、今も抜けがたく支配しています。
 おごり高ぶる占領軍は子どもたちに、猿に餌をやるようにガムやチョコレートを投げ、拾わせました。拾えなかった子が泣く、奪い合いが始まる、それを彼らは笑いながら見ていました。それを見て見ぬ振りの大人たちでした。その屈辱で私は、戦争は何故起こったか、何のための戦争だったのかを考えずにはいられませんでした。
 同じ体験をした人たちは今、どう考えているのだろう。爆撃の下をにげまどうイラクの民衆を、我が身に重ね合わせることができただろうか。それは半数が選挙を棄権したことに、どう現れているのだろう。
 私には命とおなじくらい平和が大切なのです。 

 

 

続 よこはま・母・戦争 その5 ストやぶりの車掌

 戦争が終わると、すさまじいインフレが庶民の暮らしに襲いかかってきました。火の海をかいくぐり、母が命がけで守った国債、預貯金、兵隊保険証書類は、そのためすべて無価値になりました。戦時国債は引き取り手もなくただの紙切れと化し、家も焼けて、私たちは無一文になったのです。
 母、姉、私、妹の家族と、バラックの前に置き去りにされていた赤ん坊2人、計6人の口を養うすべは物乞いするしかありませんでした。あまりの貧困も見かねた米軍相手のおねえさんの口ききで、母が闇市へタバコを売りに行くようになりました。

 実はこの商売、大変危険なもので、金を持っているとにらまれればすぐ殴り倒され、有り金も商売品も盗られてしまうのです。でも赤ん坊を背負い、一個売りを守ったので強盗に襲われずにすみました。私はお金を稼ぎたいと思いましたが、女性にはヨトマケ、ガレキの片づけ、売春くらいしか仕事はなかったのです。

 1948年7月、横浜市交通局車掌の募集が2名あり、幸い採用されました。応募者多数の難関、私は乞食で鍛えた度胸が見込まれたかと少し苦い思いでしたが、入局して助かったことが4つありました。無料パスと制服が支給されること、毎日お風呂に入れること、バスの運転手も女子車掌も同一賃金だったことです。

 翌49年には、横浜大貿易博覧会が華々しく開催されました。花電車が走り、テレビ実況中継に人が群れ、3月15日から3ヶ月間に来浜した人は300万人をこえました。しかし食糧難は続き、旅館宿泊には米持参が条件でした。
 市内遊覧バスも運行し、4人のガイドが選抜されました。私もその中に入っていました。正直うれしかったです。先輩も押しのけ、ねたみの刃も切り返し、そのうえ市の表彰、朝日新聞社の表彰などを受け、私は得意の頂点でした。

 さて、この職場に労働組合がありました。戦前の教育しか受けていない私には組合がよくわかりません。時限指命ストで路線バスが欠車すると、困った配車係は私を指名し、私はすぐOK。さわやかにスト破りです。また乗務中の車掌が生理になると、降車してバスは運休です。控えがあればいいのですが、大体は欠車です。でも私がいれば大丈夫、穴埋めに急行します。それに私自身、生理休暇はとりません。なにしろ6人を養わなくてはならないのです。カッコつけてなんていられません。

 でも、できたばかりの組合は気合い充分。私を責めることなく、なぜ生理休暇をとるべきなのか、どんな闘いをしてかちとった権利なのかをていねいに話してくれました。
 けれども私は、家の事情を話せませんでした。このことで「万人は一人のために、一人は万人のために」という組合主義を理解することができました。でも私の反組合的な行動は変わりませんでした。(つづく)


● “東洋一”の団地で保育所を作る 枚方東支部 小林巳鶴子

 婦人民主クラブの名前を知ったのは結婚式のあと、夫小林の妹を通じてでした。妹といっても私より7歳年上で、山口県で婦民をつくったそうです。ところがその人と話をしているうちに、こんなことをいわれました。
 「母が黒と言ったら、白だと思っても、黒で通してほしい。白だったら白で・・・」つまり姑の意見に従ってくれということでしょうか。当時23歳の私は心に反発を感じ、「婦民なんて信用しないわ」と思っていました。

 十年が過ぎ1959年3月、私たち一家は枚方市の“東洋一”といわれた香里団地(4500世帯)に転居、一番上の娘が小学校に入学しました。
 当時その団地は、便所も台所も他の団地より大変進んでいました。でも市場は公設市場とピーコックのみ、12月31日には午後3時にすべて売り切れという状態でした。

 そこで同じ棟に住む京大教授の多田道太郎さん、樋口さん、小林などが中心になって文化会議をつくり、野菜をはじめいろいろな店を出して住民にアピールしました。また若い夫婦が多かったので、共働きの世帯のために2年がかりで保育所をつくる運動をしました。1960年のことでした。
 昔の託児所のようなものでなく、幼稚園のようなきちんとした建物をと市と交渉し、62年、トンガリ帽子の屋根をもつ市営の保育所ができました。

 この文化会議をつくったときに、婦民枚方支部準備会もできました。この時は私も抵抗なく参加することができました。
 この香里ヶ丘文化会議は、さまざまな懇談会や研究会、講演会など文化活動をしてきましたが、とうじさかんだったのが新憲法や女性史の学習会でした。また婦人学級もつくって、初代の母親大会にも参加しました。

 その頃の婦民枚方支部はおつれあいが大学の先生という方が多く、働いている人は15人中2人ほどでした。

 それ以来43年、いろいろなことがありましたが、婦民とのおつきあいが続いています。現在の枚方東支部として再出発したのは1974年10月1日でした。(つづく)

 


女性解放わたしのあゆみからー石川すずさんの17回忌に 2003年10月15日 第341号

 若い人や、新しい会員・読者が増えてきている中で、「祐天寺支部の石川すずさん」を知っている人は、きっと少ないでしょうね。今年、その石川すずさんの十七回忌で、編集長やご家族の皆さんとお墓参りをしました。
 戦後、婦民の創立期からの会員で、八十九歳で亡くなりましたが、私の心の中ではほとんど毎日のように、いまだ会話が続いています。

 すずさんと知り合ったのは二十六年ほど前、当時の婦民本部で、反公害バザーを開いていたすてきな「おばあちゃま」がすずさんでした。
 歳の差はナント六十歳!好奇心旺盛な若い娘は、年齢を感じず行動的で、政治や社会の矛盾にラディカルな批判的意見を持つその「おばあちゃま」にすぐ魅了されました。
 当時、婦人民主新聞が駅留めで、石川さん宅の隣の駅まで取りに行ったり、一緒に配達や発送をしました。
 若いころ河上肇に恋をしたことや、幼いころ父親の客人だった板垣退助の膝にのり、そのヒゲをいじっていたという昔話。結婚記念日はフランス革命とロシア革命の記念日に、日を合わせ決めたなど、驚かされる話にワクワクしていました。
 戦後は共産党に入り、駅前で「赤旗」売りをし、「赤旗のおばちゃん」と親しまれ、帰還者ので迎えや困窮した市民の暮らしを守るためバザーをしたり、子供会をつくったり大活躍。そんな石川さんを共産党は処分したそうです。

 共産党からの支部つぶしの攻撃などに、近所の会員は「あたしたちはお茶を一本買って、(婦民を)支えている」(婦民は誰のものでもない、あたしたち大衆のものだ)といい、一緒に婦民を守ったそうです。以来地域では「フミン、フミンの婦民おばさん」と呼ばれていました。
 また、「メーデーと言えば、石川さん」も有名です。第一回メーデーをお祭りと思って振り袖を着ていき、会場で発言する労働者が官憲に「弁士中止」と引きずり下ろされる様に怒り、それ以降メーデー皆勤賞と大きく紹介されるほどでした。
 八〇歳を迎えた一九七七年は、三里塚の鉄塔決戦の時、現地開催の全国総決起集会に、「ちょっと行って参ります」と夫に言い残し、車酔いするすずさんは、電車を乗り継ぎ、ひとり現地へ駆けつけました。途中電車の車体に書かれたスローガン「三里塚へ!」に感動したそうです。

 石川さんは婦民全国協結成後初の集会で、「第一次世界大戦が終わり、ひどい戦争をもうさせないようにしようと、世界中の女たちが集まりました。でも第二次世界大戦が起きてしまった。恋人や夫や子どもを戦争にとられてはいけない。今度こそ女たちは戦争をとめなければいけない」と訴えました。この訴えは、まさに今の時代、今の私たちへの言葉です。世界中の女たちと一緒に侵略戦争をやめさせよう。(東京南支部 榊直子)