新聞『婦人民主クラブ』

婦人民主クラブ全国協議会責任編集
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反核・反原発1000万署名 私は訴えます

下田禮子(反戦被爆者の会、婦民全国協広島支部)

 敗戦後ひとすじに、戦争のない平和を求めて来た私たち被爆者の66年の年月は一体なんだったんだろうか?
 東日本東日本大地震、津波、そして福島原発大事故・爆発。チェルノブイリ事故と同じレベル7。実態は大幅に上回っている。
 広島の原爆の1万倍とも言われる放射能は色も臭いもしない悪魔の物体。半径20キロ圏内立入り禁止、東電が発したものは「対策とれ」のFAX一枚、一般住民には詳しい説明は全くなされてはいない。この事態に至っても与謝野経産相は「原発は重要なエネルギーであり見直しはあり得ない」と発言。
 もともと原発はアメリカが原爆開発のマンハッタン計画の途上原子炉でウランを燃やしプルトニウムをつくる際生まれる膨大な熱を発電利用したのが始まりであり原爆の生産が目的だった。原子力発電はその副産物。
 1950年代末からCIAのエージェエントだった正力松太郎(読売新新聞社主)と中曽根康弘がアメリカの要請で日本の原子力政策はスタートしている。中曽根康弘は、「平和利用」の名で原発を推進しながら、あくまで日本の原爆保有をめざしたのだ。
 世界でも有数の地震大国である日本に54基も原発を建てたらどうなるか承知の上で進めている。国民の生命の安全よりもアメリカのエネルギー戦略が優先だ。福島原発においても、政財官学の癒着と利権あさりがきわだっている。住民の中では東電と癒着した国が町の上層部だけ買収していた実態も語られている。原発近辺の議員、農協、漁協、県知事も含めてきれいに買収され、5年もすれば蔵や家が建ったとか聞く。
 原発の安全神話が崩れた今、どう責任を取ってくれるのか。そこに暮らす住民は生活できない。いつ戻れるかもしれない。あの農地あの豊かな海山。
 広島・長崎は一発で終わった。それでも深刻な経験で苦しめられた。被爆した女性は小頭症の子どもを出産した実例もある。この広島の1000倍も上回る放射能が、日本列島とアジア、全世界を覆い、子どもたちをはじめとする生命が、根本から脅かされている。 地球をめぐる大気圏、海流・気流、ありとあらゆる生命体系の異変はまぬがれようがないであろう。東電・政府など原発を推進してきた人々は世界に対し何とわびるつもりか?
 今、私たちは地球規模の災害を救わねばなるまい。テレビ新聞あらゆるメディアで「安全だ」「すぐに影響はない」と言っている東電や保安院、大学の教授達、もう聞くのはうんざりです。うそを言わないこと、正確なことを報道すること、人間のあらゆる英知を出し合って福島の地が元の土地に戻れる方法、安心して暮らせる社会に一日も早く戻れるよう責任を取らせる必要がある。
 おそろしい放射能を出す原発はいらない!今すぐやめろ!
 全ての人がこの1000万署名を全力で取りくんでほしい。

宮城の小学校教員 小原真喜子さん(婦民宮城支部)

 2011年3月11日。この日に何が起きたのだろう。被災地の宮城にいる私たちはまだわかってないように思う。
 あの日私は、年休を取り職場を2時間前にでた。自宅に着く直前にラジオから警報が流れ、減速した途端にものすごい揺れが起きた。車を止めて外の様子を見ると、電柱が根本からぐらぐら揺れ、電線が波打ち、今にも倒れそうだ。外に出るのも危険と感じ、長い揺れがおさまるのを待った。急いで家に戻ると、足の踏み場もないくらいものが散乱している。
 職場に戻ることにした。震度5強になったら学校の職員は職場に駆けつけることになっている。途中、仙台市の北端を走る七北田川を渡ると、ものすごい濁流が押し寄せていた。後から気づいたが川はいつもと逆方向に流れていた。加工から10キロも離れている川まで押し寄せた津波だった。職場の近くまで行くと道路に水が浸水して走れない。歩いてわたろうとしたが白バイの警官に止められ、あきらめて自宅に戻った。
 その晩は自宅で懐中電灯の光で過ごした。ラジオでは津波が来たことも報じられていた。暗闇の中で何度も家族や職場に連絡を取ろうとしたがつながらない。こんな時のために登録しておいた災害伝言ダイヤルも携帯電話も役に立たなかった。余震があり眠れずにいたところ、夜中になって、バラバラになっていた家族の無事が確認された。
 次の日、学校に行くとすべてあ様変わりしていた。学校は避難所となり、教室から廊下まで人があふれていた。津波は校庭まで押し寄せたため泥水だらけで、みんなドロ靴だ。津波に追いかけられながら車で逃げたという保護者は「映画のようだった」とその恐怖を話してくれた。お互いの無事を確かめあう人、家族の安否を尋ねる人、不安が渦巻いていた。
 勤務はその日から24時間を三つにわけた3交代制のシフトを取った。3日目からは児童の安否確認を始めた。地区ごとに教員が手分けをして1軒ずつまわった。地区丸ごと流された地区、床上浸水した地区。黒板に児童の名前を書き、安否が確認できると線で消していったが、まだ確認できない児童が一人残っている。
 その後は避難所を体育館に移動してもらい、教室、トイレの清掃に明け暮れ、その合間に通信票を書くという毎日だ。
 そんな中でうれしかったのは、2日目夜の仲間の励ましだった。停電で真っ暗な中、東京の労組交流センターの仲間から「全国の仲間が物資を持って新潟経由で駆けつけるからガンバレ」という電話。「私たちは一人でがんばるのではない。みんなでがんばればいい」の一言にはっとさせられた。
 家と職場での往復でようやくの毎日で、テレビを観たのは数日過ぎた夜の学校の自家発電で映し出された画面だった。そこでのこの地震の被害の大きさを知った。
 1週間して私の学校は体育館と教室の1階の一部が避難所となり、地域の人たちが自治を始めている。顔見知りの人たちが担当を分担してきびきび動いている。見た目は元気。聞けば、家を流されたというのに、地区の人たちのために働いている。団結がされば、労働者はどんなときも社会を運営できるということだ。
 しかし隣の避難所はあちこちから集まっているので、校長が指示をして教員が夜勤も入れて24時間体制をとり、すさまじい強労働を強いられている。七ヶ浜町では過労死の職員が出た。それでようやく家に帰されたといっていた。さらに福島原発の近くの町に住む職員は家族を他県に避難させざるをえず、自分は同僚の家から仕事場に通うなどという過酷な状況の教育労働者もいる。新地町の友人教育労働者は自宅を流され、被爆圏の50キロ内でも自分たちは逃げないという。子どもが全員無事でよかったと元気で、中学校で教室を借りて授業をするために掃除をしているという。原発事故は自然災害ではない。この理不尽な仕打ちに何をすれば良いのだろう。
 あちこちの知り合いに連絡をとっている。電話の向こうの声はみな元気だ。仕事と生活をなんとか立てている。
 しかし、津波でなくなった大勢のひとたちの命を守る事は本当にできなかったのだろうか。たまたま家にいた甥に背負われて高台に逃げたという話しも聞いた。若者がもっと町にいたらと思う。医療施設が足りないというが、地域の病院をつぶし、大病院だけにしてきたのは経済効率優先で地方を切り捨ててきた行政だ。「想定外」でことを片付けないでほしい。
 すべてはこれから。みんな実は疲れている、傷ついている。私は同僚の別れがあっても職場では涙がでない。心の一部が堅く固まっている気がする。涙が出るのは家でだけだ。町に出てあまりに町が不通に見えてギャップを感じる。被害がひどいところのひとたちは、これからますます感じるだろう。
 教育労働者の自分にできることはなんだろう。とにかくつながっていこうと思う。被害をうけた学校の職員名簿に私の名前を見つけたと支援の電話が突然きた。「日・君」の集会に一度きたことがあり、「大会の発言を聞いていましたよ」という電話の声に元気が出た。全国の仲間に呼びかけ、群馬の小さな小学校から靴下が600足届いた。石巻におにぎり百個、漬け物をトラックに積んで配って歩いている養護教諭の話。
 いち早く出された動労千葉と交流センターの声明と支援物資。その早さと暖かさが本当にうれしかった。「こんな組合をつくろう」と思う。
 さまざまな声が詰まっているニュースを配ろう。そして被災地にある職場の声を届けよう。その中で全国運動の仲間をつくっていきたいと思う。すべてはこれからです。

■いよいよ学校が始まりました
 仙台市の学校はかなりの数の学校が被害を受けているようです。校舎に亀裂が入って使えず、となりの学校の体育館で授業をすることになったり、体育館が使えなかったり、何も被害を受けなかった学校は少ないかもしれません。
 朝に「学校に行きたくない、と言って登校をしぶりながら登校しました。」という電話がありました。親と離れるのが不安なのかもしれません。顔を見るとやはり暗い表情です。休み時間ともだちとおしゃべりをしていてほっとしました。全校の子どもたちにお菓子のプレゼントがありました。「新潟柏崎市の菓子組合」から。他人事に思えないのかもしれません。全国からたくさんの支援物資が届いています。被災した家族にはたっぷり配布しています。そんな時はとてもうれしそうな表情になります。ものだけではなく心も届いているなと思います。
 入学式は三階の図書室の本棚を片付けて行いました。三階は津波で被害を受けた田んぼがすっかり見渡せます。一ヶ月たっても田んぼにつっこんだままの車、流されてきた屋根、何も変わっていません。この景色を見ながらの日常はやはり辛い、入学式はカーテンをしめて行いました。
 それでも一年生は元気でした。式の時は静かだったのですが、写真撮影になると、わざと白目を出している子がいたり、変顔をしている子がいたり、笑いながら見ていました。晴れ舞台でテンションが高くなっているのかもしれないのですが、あわただしくも穏やかな1日でした。

 

宮城支部 谷康子さんから 3・20集会へのメッセージ

全国の仲間の皆さん、熱い救援やご心配のお気持ちありがとうございます。巨大地震、津波被災に続いて、原発事故の状況は余談許さず、緊迫している中のイラク開戦全世界一斉行動お疲れ様です。宮城から連帯のアピールを送ります。
 日々報道が続き、生々しい津波の爪あとや涙々の家族や友人、知人、家等を失った映像を見て私も涙々涙で貴重なティッシュペーパーを使ってしまいます。当日は、巨大な地震と余震に揺さぶられながら職場の本棚は全部倒れ、ガス台やノートパソコンが吹っ飛び、揺れが止まっても倒れた棚で玄関まで出られません。幸いラジオがあり情報をえながら脱出、周囲には飛び出した人たちがたくさんいました。
 家に戻れば散乱した食器、天井裏の電気温水器と排水管が壊れ大雨状態で畳や布団、教科書・マンガが水浸し。息子たちが傘を引っくり返して奮闘していました。断水停電、食事をどうするか不便な思いしました。電気がないと映像もみることができずラジオがなかったらどんなに不安かと思いました。実は被害のひどい地域には電気が通らないからまわりの様子が見えないのです。
 市内は古い瓦屋根やブロック、壁があちこち壊れていて、寺の直径1メートル以上の石燈籠の頭がころがってました。駅が閉鎖になり駅に近くにある小学校体育館には帰宅困難者があふれ2000人、現場教職員が配給やトイレの水くみなど真夜中まで現場で働いたそうです。古い住居、マンションは倒壊の恐れがあり市民センター、学校は避難所になりました。携帯充電や食糧買い出し、ガソリンを求める行列があちこちあり、ただ歩いている人や自転車がたくさん街の中にいました。今、中心部から電気は通りましたが、断水が続く所はあります。ガス供給施設、下水処理施設が壊れ、上澄みだけ消毒して流すということです。半年、一年どうなるかわからない状況。連日、各労働者が毎日遅くまで復旧のため、あるいは食糧や燃料を供給するため働いてます。各自治体、教育労働者等は交替泊まり勤務で避難所の対応をしています。
 今日は近所で灯油買うため並んだら、仙台新港の夢メッセという大きな販売所で勤めていた人が、地震後緊急避難で4階の屋上へ逃げたら、10メートルを越える波の壁が迫り、展示してあった2000台のトヨタ車が建物に押し流された話をしていました。地震後にすぐ帰宅しようと車ででた人たちは大渋滞でそのまま波に飲まれました。
 仙台市内には少しずつ物資はでてきていますが、行列に並べない人は無理です。今からは水中から発見された遺体をどこに安置するかまだ決まっていません。より厳しい被災地に早急に無条件で住宅と食物と医療を保障してほしい。すべての原発を直ちに止めて撤廃してほしい。
 私が思うことは、ニューヨークで震災の後みなが整然と行動していることを驚き、なぜだと議論になっているという。アメリカから「命がけで働く原発事故対応の労働者を称えたい」との求めに東京電力は「名もない労働者だから」と断ったようです。しかしみんな 家族もいる名のある労働者です。また略奪暴動しないのは、怒りをとなりの労働者民衆に向けないだけです。そして理不尽な国家権力・大資本には怒りをむけるのです。
 石原都知事の「天罰」発言、米軍の「トモダチ」という名の「支援作戦」。軍と自衛隊で国家統制しようとしていますが、民衆の力で新しい社会を作りましょう。被災地では知恵と勇気で団結が作られ避難所が運営されてきています。そういう心優しい人の繋がりが希望です。世界の労働者も支援をよせてくれています。連帯して反戦と新しい社会づくりをしましょう。

 
 

●会員からよせられた 4コマまんが 「楽しい子育て!?」(実話です)