勿忘草 六
目の前に姿を現した術者は、黒髪に黒い瞳の木の葉の忍。
カカシのよく知る人物だった────ここにはいるはずのない。
「あんたなら、辿り着くだろうと思って。」
にこりと笑んだ青年の瞳の奥は、深山の空気のように音もなく冴えた闇だった。忍としてのイルカを軽んじていたつもりのなかったカカシでさえ、息を呑むような変貌。
「…罠を掛けさせてもらいました。」
静かなその声は、穏やかで暖かな教師のものでは既になく、確かに冷徹な忍のもの。
ごくり、と知らず飲み込んだ唾の音に我に返ったカカシは、苦く呟いた。
「なるほど、呪縛陣だったわけですか…」
驚愕が去って気づけば、四肢の自由が微妙に効かない。
おそらく広範囲に張られていた結界が、術の対象である自分だけに収束しているのだろう。自分が結界を破るのに使った水遁が引き金になっているようで、僅かに水の気配がした。それは薄い膜に捉えられたような微妙な束縛感で、チャクラを発動させれば振り切ることも可能だろう。しかし、戦闘においては一瞬のそれが生死の鍵を分けることもある。
一般の兵は元より、自分のような忍びであればそれ以上に。
なるほどこれならば『破軍』の名も頷ける。結界を張った内に敵を誘い込み、それを発動させる、或いは破らせることによって二重の仕掛けが敵を捕らえる─────これでは如何な大軍とて敵うわけがない。
「…本来の七曜陣はちょっと違いますが。」
これは俺が改造したものです、とイルカは静かに言った。水に濡れたように光る瞳が、歪んだカカシの姿を映す。
「俺がアンタを捕まえるには、この方法しかなかったので。」
「…何で、俺を?」
カカシの色違いの両眼が、訝しく細められた。
それではイルカの目的は、暗部の入隊試験ではなく、カカシの身柄ということになる。イルカが暗部を志願する、というのも頷きがたい話だが、それを利用して自分を捕らえることに何の意味があるだろう。その疑問に答えるイルカは、うっすらと眉間に皺を寄せていた。
「だって、こうでもしなきゃアンタ、俺の話なんか聞いちゃくれないでしょう。」
ホント、自分勝手ですよね、と溜息をつく。見慣れたその仕草に息を吐いて、カカシは知らず張り詰めていた全身の力を抜き、手を掛けていた忍刀の柄から手を放した。背にしていた木の幹に体を預ける。力を入れようとすると微妙に感覚がずれて辺りが歪む。目眩にも似たその感覚をやり過ごすには、なるべく力を抜いた方が良さそうだ。
話を聞かせるため、というにしては力ずくにも程があるが、まあ自分も大分勝手を言った自覚があるから仕方がないだろう。
「それで?…今更、何の話です?」
がりがりと収まりの悪い髪を掻きながら水を向けると、イルカの眉間にますます皺が寄る。
「アンタには今更かも知れないですけど、俺にはいろいろ言いたいことがあるんです。」
いいですか、と眉を跳ね上げたイルカは、勢いよく宣言した。
「人に忘れろと言うなら、まず自分が忘れなさい!」
それも出来ない癖に、甘ったれたこと言うな!
どうだ、と言わんばかりに鼻息も荒く突きつけられた指先に、カカシの両眼がぱちりと大きく見開かれる。
「…甘ったれてますか、俺。」
「てゆーか、酔ってますね。」
どうせアンタのことだから、人には忘れろと言っときながら、自分は後生大事に抱えてるんでしょ、俺の想い出とやらを。
「あー…ハイ。」
図星を刺されたカカシが、きまり悪げに視線を逸らす。それを勝ち誇ったように見やって、イルカは続けた。
「だから、妥協案を提示しようと思います。」
「妥協案?」
「そうです。アンタと俺と、どっちもこのくらいなら譲れるはずです。」
それも出来ないって言うなら、俺の好きにさせてもらいますから。
「いや、妥協案の意味は知ってますけどね…」
この状況に何の妥協案があるんですか、というカカシの疑問はきれいに無視される。
「アンタはもう帰ってこなくていいです。」
「…は?」
いきなりどこが妥協案なのか聞きたくなるくらいきっぱりと切り捨てられて、カカシの眉が情けなく下がった。捨てろと強請った癖に、面と向かってそれを宣言されたらやっぱり痛い。ほとんど泣きそうになりながらイルカを見やると、得意そうに光る目がこちらを見ていた。
「そのかわり、俺が迎えに行きます…どこへでも。」
どんなになっていても。
「俺がこの試験を受けたのはそのためもあるんです。」
「確かに…死体回収は暗部の仕事ですけど。」
まさか、そのためだけに?
カカシの肩が落ちる。重みを増したかに思える頭もかくりと下がり、男は溜息をついた。なるほどこれでは、薫陶を受けたナルトが意外性ナンバーワン忍者なのも当然だ。
「だから、カカシさん。俺と新しい約束をしましょう。」
イルカは笑う。笑って右手を差し出した。
俺は誰よりも先にアナタの所へ行きますから。
だから、アナタは俺を呼んで。
「俺を忘れてって言う代わりに、忘れないで、って言って下さいよ。」
──────そうしたら俺は、アンタを誰も知らないところに埋めるから。
誰も近づかないようなところで、でも毎日通えるところがいい。
誰にも気づかれないように幾重にも結界を張って、誰にも破れないように封印も完璧に施して。
そうしたら俺は、毎日アンタに会いに行きますよ。
嬉しそうに語る声はいつものイルカらしくない言葉を繋げているけれど、オソロシイほど正気で本気だ。
うっとりと微笑んだイルカは、歌うように囁いた。
「どうせ何も残さないんだから、全部俺のモノにします。生きてるときよりももっと。」
だからアナタは安心して死んでくれて、いいんですよ?
それもどうだろう、というような提案だが、もしこの手を取らなかったらイルカは本気で自分の好きにするのだろう。
それはすなわち、このままカカシを殺してどこかへ埋めようとする、と、そういうことで。
それはそれで楽しそうだけど、と騒ぎ出すムシを押さえて、カカシは瞑目した。
─────── 思えば、最初に殺してくれと強請ったのは自分だった。
それが文字通りの意味でも良かったのか、とカカシは小さく笑う。
「…いいよ、イルカ先生。」
そうして、とカカシは手を伸ばした。
たったそれだけの動作でも水を含んだように重い腕を。
「どうしても帰れないときはアンタを呼ぶから…迎えに来て?」
どんなことになっても、俺を忘れないで。
「…はい。」
右手の指先を伸ばしてみせると、イルカが泣きそうに微笑んだ。
絡んだ指先の約束は、今度こそ違えないように。
─────────アナタが俺を、殺して下さい。