夜底の花

 
 ひたり。
 不規則なそれは、微かに気配を落とす。
 昼の温度が嘘のようにきぃん、と冷え込んだ空気の中、それは驚くほど遠くまで届くだろう。
 「…しくったなぁ。」
 最後の最後で仕掛けられたトラップは、止めを刺すことを優先したせいで避けきれず、水の刃は服だけを裂いた。咄嗟に身を捩ることで傷を負わずに済んだのは不幸中の幸い、だがそれで返り血を浴びる羽目になるなら素直に切らせておけばヨカッタと溜息を吐く。 己を引き留めるかのように立ちこめる血の臭い。
 カカシは音もなく木々の間を駆けながら、顔を顰めた。気配を断ち、音を殺し、一切を消し去って尚付いて回る、それ。慣れたはずのその臭いが、何故か己の奥底を掻き毟る。
 
 如何ほどに流そうと最早気にもならぬモノを。
 
 「…鈍ったかねぇ?」 
 よほどのコトがない限り、自分に限らず血を浴びるのは御免被りたいものだろう。得物にこびり付いて脂が残り、切れ味が鈍るのは仕方ないとしても。
 自分自身の流血ならば止血すれば済むことで、血臭もある程度ならそれで押さえられる。だが、返り血はそうはいかない。固まらないウチに洗い流せばともかくも、染みは落ちず臭いは臭く、繊維ごと腐って使い物にならない。そんな先のことまで考えずとも、他人の血は臭いが消せず、気配が断てない。
 忍びにとって、畢竟、それは死を意味する。
 「ま、こんなのも久しぶりだーしね。」
 里に戻って下忍を受け持って、生温くも心地よいと思うようになって。
 多少なりと馴染んだ気もするから、その代わりに何かを削り落としていたとしても不思議はあるまい。基礎トレーニングこそ欠かしてはいないが、どうしても実戦の勘は鈍る。里の生活とはそういうものだ。
 「今度から、アイツらと一緒に修行しよっかなぁ…」
 アイツらなら、ちょっとくらい上忍メニューが混じってても大丈夫でショ。
 7班の子ども達が聞いたら顔色を無くしそうなことをへろっと呟きつつ、カカシはふと小さく鼻を蠢かした。生臭い血の臭いに混じって、憶えのある甘い香りが鼻腔を掠めたからだ。
 
 夜の底に沈むように、夜の空を渡るように。
 
 「…何の匂いだっけー?」
 ふわり、と梢に留まればひやりと風に乗るそれが柔らかく身体を包んだ。今まで気付かなかったのが可笑しいくらい鮮明で甘やかで、気付かなくても当然なくらい密やかで凛として。
 かしかし、と掻きやった銀の髪が雲間から射した白い光を弾く。見下ろす枝の隙間に、小さな泡のような花を数え切れないほど抱えた木が見えた。
 「ふうん?」
 小さく首を傾げて、軽く枝を蹴る。僅かに撓った枝が戻る頃には、カカシは地に降り立っていた。
 
 周りを大樹に囲まれたそこは、降りてみるとぽかりと穴が空いたように空を望む、小高い丘になっている。白い花を零れんばかりにつけたその木は、古木と言って過言ではない風格と、咲き初めの若木のような清廉さを漂わせて、夜来の客を見下ろした。
 花の言葉のそのままに、高貴な心持つ貴婦人のように。
 波の底に泡立つ空気のように、ほのかに月の光を抱く花弁はしろく小さく。甘く優しい香気が、逆立った心を宥めるように包んだ。ほとほとと根方に落ちる花は、あるいは鶯の仕業だろうか。ひとつ、ふたつと拾い上げると、そこから甘い香りが染み込むような気がした。
 「…ちょうど良い、コレを借りていくか。」
 手際よく印を結ぶと、風が渦を巻いて立ち上がる。時ならぬ嵐は、枝の一つも揺らすことなく、地に落ちた花だけを掃き清めるように吹き寄せて宙に舞い上げた。小さな毬ほどの大きさにまでなったところで、それはほとりと男の掌に落ちる。香を焚きしめた薬玉のように甘い香りの純白の手毬は、血の臭いを紛れさせてくれるだろう。
 カカシは手遊びにころころと手の上で転がしながら、ふと、コレなら土産になるか、と思いついて小さく笑った。
 浮かんだのはあの甘いほどに優しい人だ。普段はなかなか手厳しいクセに、こちらが弱っていることを的確に嗅ぎ分けて甘やかそうとする厄介なヒト。
 掌の上で毬が転がる。銀糸で縢った花は五弁、チャクラを解放すればほろほろと花が零れる。
 そんな風に、こころも崩れてゆくだろうか、とカカシは笑う。
 崩れて、零れて、解放されたら楽だろうか─────── あの人の傍で。
 
  
 それでも、それを選ばない自分がここにいる。
 
 
 一人で生きてゆけないほど 弱くはなれないから────────
 
 
 しょうのない人ですね、と。
 呆れたような優しい声が、聞こえた気がして。
 
 カカシはくつり、と笑った。
 しろい、花の下で。