第3話 〜健康管理はしっかりと〜


 「…で、どうだ正信?」
 後ろから覗き込んでいたオラトリオが、オラクルの肩を抱き込むようにして正信に尋ねた。カルテ代わりのデータ表に検査結果を書き込んでいたカルマが、綻ぶ花の風情で微笑む。
 「大丈夫ですよ、オラトリオ。全て予測の範囲内、正常値です。」
 ねえ正信さん、と同意を求められた正信が指先でくるりとペンを回しながら頷いた。
 「そうだね、この分なら大丈夫だろう。」
 カルマから受け取ったデータを見直し、再度頷く。息を詰めるようにしていたオラクルの肩からふうっと力が抜けて、表情がふわりと緩んだ。
 「ありがとうございます、音井博士。」
 「良かったなオラクル♪」
 これで心おきなく出かけられるぜ、と破顔するオラトリオに、カルマが苦笑を浮かべて釘を射す。
 「オラトリオ、嬉しいのは分かりますが、あまり無茶はしないで下さいね?」
 何と言っても機体を持つのが初めてなのである。稼働したてのHFRと同じく、どこに不具合が出てくるかは実際動いてみないと分からない。これ以上はないほどに調整された研究所の中での数値が、そのまま外でも通用するとは限らないのである。
 「分かってるよん♪」
 せっかくの温泉だもんな、ゆっくりしてくるさ。
 
 ───その、『ゆっくり』が曲者なんじゃないだろうか。
 
 元は端正なはずのオラトリオの顔がだらしなく崩れている様に、カルマはその綺麗な指でこめかみを押さえながら溜息をついた。オラトリオの『お楽しみ』がうっかり読めてしまった自分がちょっと哀しかったからである。
 「ありがとう、気を付けるよカルマ。」
 「…ああ、はい。お気をつけて、オラクル。」
 一瞬返答が遅れたのはそのせいだが、旅の無事を祈るのには吝かでない。美貌の統括者殿は、青年に向かって艶やかに微笑んで見せた。カルマが心配しているのは、オラクルが気を付けてどうにかなる問題でもないのだが。
 「あ、そうそう。」
 何事かデータに書き加えていた正信が、椅子を回してオラトリオに向き直った。        「言っとくけど、温泉はダメだからね。」
 「───あ?」
 「温泉はダメ。禁止。」
 さらりと言われたそのセリフに一瞬の沈黙で応えたオラトリオは、納得いかん!とばかりに正信に詰め寄る。
 「あーのーなぁ、熱海だぞ?温泉がダメでどうすんだよ!」
 「ダメなものはダメだよ、オラトリオ。」
 大体、HFRの廃熱量で温泉なんか入ろうってのが間違いなんだから。
 手元のデータを示しながら、正信は詰め寄る男を制した。理路整然と諭されてぐうの音も出ないオラトリオに、正信の瞳を意地の悪い笑みが横切る。
 「まず間違いなくヒート・ストレスでダウンするだろうね。」
 「…何とかなんねーのかよ〜正信…」
 あきらめ悪くじたばたと駄々を捏ねるオラトリオをきょとん、と見上げていたオラクルが苦笑した。
 「仕方ないよ、オラトリオ。私なら構わないから、お前だけでも楽しんだらいい。」
 お前なら大丈夫だろう、と首を傾げる。そんなに楽しみにしていたのなら、私のことは気にしなくて良いよ、と微笑むオラクルを、オラトリオは後ろからぎゅ、と抱きしめた。赤みの濃い瑪瑙色の髪がさらりと鼻先を掠める。そのまま顔を埋めるように擦り寄せて、男は溜息混じりに零した。
 「お前と一緒でなきゃ意味ないんだって。」
 「…そうなのか?」
 不思議そうなオラクルの見上げる視線に、オラトリオががくりと脱力する。だらりと寄りかかる姿勢に、オラクルが抗議の声を上げた。
 「重いよ、オラトリオ。」
 「うう、冷たい…」                           
 俺って可哀想、と態とらしく嘆きながらも、男は仕方なさそうに笑って見せた。結局のところ、自分の楽しみよりはオラクルのそれを優先させることの方が重要なのだ。いつまで言っていて気に病ませる羽目にはなりたくないのである。
 「大体、お前のが楽しみにしてたんじゃねーか、温泉。」
 まあ次もあるか、と髪をくしゃりとかき混ぜながら片目を瞑ると、オラクルが嬉しそうに笑って頷いた。
 「…何だ、君の希望じゃなかったのか。」
 温泉温泉って煩いから、てっきりオラトリオが行きたいんだと思ってたよ。
 そう言って肩を竦めた正信に、オラクルは申し訳ありません、と苦笑した。
 「温泉が良いと言ったのは私です、音井博士。」
 廃熱量のこととかはあまり考えていなかったので、ご迷惑をおかけしました、と頭を下げる。
 「う〜ん…じゃあちょっと考え直そうかな。」
 ちょっと待って、と正信がデータを捲った。考えるように唇をなぞっていたペンが、さらさらと紙の上を滑る。
 「…うん、何とか大丈夫かな?」
 入ってもいいよ、温泉。
 「ちょっと待て正信。おめー態度違うんじゃねぇか随分と。」
 さっきダメだって言ってたのはでたらめか、と百八十度転換した正信の態度にオラトリオが噛みついた。納得いかん!と吼えるオラトリオを無視して、正信は機体の設定値を修正しながらにっこりとオラクルに笑いかける。
 「浸かるくらいなら大丈夫なように設定しておくよ。」
 それ以上はダメだけどね、と呟く正信に、オラトリオがげっそりと零した。 
 「マジかよ…生殺しじゃねぇかそれ…」
 温泉に浸かってほんのり色づく肌、濡れて零れる滴、ぼんやり湯気の向こうに浮かぶ月明かりに照らされた露天風呂。コレでその気にならない男が居たらお目にかかりたいもんだぜ、と半ば投げやりに文句を垂れるオラトリオを、正信はすげなく鼻先で笑い飛ばした。
 「その気になるのは勝手だけどね。」
 「まーさーのーぶ〜…」
 「ダメなものはダメ。」
 楽しげにオラトリオをあしらっていた正信は、オラクルの次の質問で一瞬硬直した。
 
 「…それ以上と言うのは、例えば、泳いではいけないということですか、音井博士?」
 
 「…うん、まあそれもあるかな。」
 あくまでにっこりと返す見事な笑顔の裏で、ほんのちょっとだけ同情した正信だった。 
 
 
 ───果たして、この二人は無事に旅行を楽しむことができるだろうか?
 
 
 どうやら、オラトリオの忍耐力とそつのないフォローにそれがかかっているらしい。麗しの緑の瞳を愁いに深く染めて、麗しの統括者殿はひとつ溜息をついた。


第4話 〜持ち物検査は適切に〜 につづく。