Baby's Word


 
 『じゃ、お願いねーっ♪』
 
 底抜けの笑顔と明るい声を残して。
 一週間の里帰りに行ってしまった妻を想って、音井信之介は溜息を吐いた。まだ彼女を乗せたタクシーは、1ブロックほど先を走っている。ウインカーを出してようやく角を曲がった車を見送って、信之介は腕の中の物体をそうっと揺すり上げた。
 「…大丈夫かなぁ?」
 きょろん、と大きな瞳で見上げてくる小さな息子に、思わず深刻に訊ねてしまう。自分ひとりならば一週間くらい何とでもなるのだが、当たり前の話、まだ歯も生えそろわないような子供とふたりで残されて、自信たっぷりなお父さんはそうそういないだろう。この場合、出かけた方と残された方のどっちを心配しているかは微妙な問題だったが。
 「あー♪」
 無邪気な声を上げる息子の黒目がちな瞳に、きろり、と光が走る。薄く茶に透ける瞳が母親のそれとよく似ているような気がして、信之介は苦笑した。
 『何とかなるよ、信にーちゃん♪』
 声朗らかに高らかに、そう告げるときの妻の表情が浮かぶ。影なく光り輝く、眩しいほどの笑顔は、赤ん坊のそれとよく似ているのだなぁ、と息子をあやしながら感心して。
 ほんのすこし、寂しくなってしまったお父さんは、それをごまかすように小さく咳払いをするとどことなくとぼとぼと、家の中へ引っ込んだのだった。
 
 ───それが、三日前の話である。
 
 「…何だその格好は?」
 もこもこと膨らんだ上着でよっこらよっこら入ってきた同僚を、ハンプティが不思議そうに見やった。〈ATORANDOM〉の研究員は制服着用が普通だが、義務ではないので私服で来る人間も皆無ではない。まあ、ハンプティも含めて工学系の研究者は制服を身につける場合が多いのだが。
 いつもならブルーを基調にしたその制服で出勤するはずの信之介が、珍しく私服でやってきたと思ったら。
 またえらくけったいな格好で来たなぁ、と苦笑した男は、その次に目に入ったモノに目を丸くした。ふかふかの上着の後ろ側に、小さな顔がにこにこと埋まっているのである。
 「よお、音井Jr.じゃねぇか。」
 ご機嫌いかが、とほっぺたをつついてやると、赤ん坊はうるさげに顔を顰めた。ぷ、と不機嫌そうに息をもらす子供に笑って、ハンプティは朝から溜息を吐いている同僚に訊ねる。
 「連れてくるなんて珍しいな。今日はベビーシッター頼まなかったのか?」
 奥さんまだ帰ってこねぇんだろ?と男は首を傾げながらも、メーカーからコーヒーを注いでやった。いつもよりちょっと多めにミルクと砂糖を入れてやる。
 「ああ、すまん。」
 やれやれ、と腰を下ろした信之介は、ちょっと前屈みの姿勢でコーヒーをすすった。ちょっと熱かったのか、小さく舌を出した男は、ややあってふはぁ、と大きく息を付く。おや珍しい、と眉を上げる同僚に苦笑して、信之介はずり落ちてきた息子をよいしょ、と揺すり上げた。
 「下ろすと泣くんだよ、正信のやつ。」
 とてもじゃないけど置いて来られないんだ、と肩を小さく落とす信之介に、ふうん、と面白そうに相槌を打ち、ハンプティが首を傾げる。オムツとかミルクじゃなくてかぁ?と心当たりを上げてみると、苦笑しつつも言下に否定された。
 「俺もそう思ったんだが、違うみたいなんだよなぁ…」
 朝からの四苦八苦を思い出して、信之介はくたっと頭を落とす。結局原因が分からなくて、息子を背負っての出勤になってしまったのである、これが疲れずにいられようか。
 そして、とりあえずご機嫌な息子はともかく、彼自身は随分と途方に暮れていた。
 「よし、下ろしてみろ信之介♪」
 そんなヒトの気を知ってか知らずか、何だかわくわくとそんなことを言ってくるハンプティをうんざりと見やってしまった信之介は、深い深い溜息を吐く。このまま原因が分からなければ、この状態であと4日も…と思っただけでノイローゼになりそうである。
 今まではこんなことはなかったのになぁ、と首を捻りながらも、仕方がないから仕事をしようかと気を取り直した途端。
 「…うあぅ」
 などという、不機嫌そうな声を聞かされた信之介は、おそるおそる背後を振り返った。そこにちょっと不機嫌そうな色の瞳を見つけて、新米お父さんがびくびくと伺う。
 「こっ、今度は何だ正信?」
 今度こそミルクか、オムツか、とおろおろしてみるものの、どちらもお気に召さないらしい。さっきまでご機嫌だったじゃないか、と思っても、何しろ言葉が通じない。
 「ん゛〜っ!」
 だんだんと不機嫌さが増してくる背中に、こっちの方が泣きたい気分になってくる信之介である。もうこうなったら電話して早く帰ってきてもらおうかと思い始めた矢先に。
 部屋の隅の方で、着信音が軽やかに鳴り響いた。
 「はっろー、ハンプティ&信之介でっす♪」
 受話器を取ったハンプティの声に気を引かれたのか、正信がぐずりながらも少しだけ声を落とした。それにほっと息を付いた信之介は、楽しそうなハンプティに手招かれる。
 「奥方から電話だよん♪」
 この同僚が救いの神に見えるのだから、相当参っていたらしい、と自分の精神状態を分析しながら受話器を耳に当てる。
 『やっほ、信にーちゃん♪』
 元気?と明るい声が聞こえて、ほっと力が抜けた。もうこれだけでも頑張れそうな気がして、ちょっとだけ元気な声が出る。
 「どうした、詩織?」
 お義父さんやお義母さん、元気だったか、と訊ねる旦那様に、明るい声が答える。
 『うん、元気だよ、信にーちゃんちもみんな元気だったし。』
 だから早めに帰るね、と言われた信之介はあわてて奥様を止めた。正直早く帰ってきてはもらいたいのだけれど(こんな状況でもあることだし)、そうそう里帰りのできる距離でもない。予定の1週間くらいはゆっくりしてきて欲しい、というのも本音である。
 「こっちは大丈夫だから、もう少しゆっくりして来いよ。」
 正信もお利口にしてるし、と心ない嘘なんかも言ってみたりする。お利口どころか、何が気に入らないのか今朝からぐずりっぱなしで投げ出してやりたいような気もするのだが、そこはやはりお父さんのプライドというものである。そうそう弱音も吐けないではないか。
 『でも信にいちゃん、声が疲れてるみたいだよ?』
 ───まあ、あんまり役に立たない虚勢ではあるのだけれど。
 「信之介〜、早く帰ってきてもらえよ?」
 「…お前、聞こえるように言ってるだろジョージ…」
 「ああ?聞こえない聞こえない、Jr.が朝から泣きっぱなしで子連れ出勤だなんてっ!」
 「聞こえるわっ!」
 信之介はすぐ脇で楽しげに大声を出している、お気楽な同僚の頭を思いっきり叩いた。受話器の向こうからは、おかしそうに笑う軽やかな声が聞こえてくる。
 『やっぱりそうでしょ、そろそろわがまま言い出してるんじゃないかと思ったの。』
 「わがままっていうか…」
 ある意味それが仕事だろ、と信之介は背中の息子を揺すり上げながら言った。言葉のまだない赤ん坊は、寝ることと泣くことが仕事だと思っている。泣くことでしか意志を伝えられないのだから、それを汲んでやれない大人の側に問題があるのだろうと、半ばあきらめながらもそう考えている信之介に、遠くで奥さんが笑った。
 『信にーちゃんてば真面目だね。』
 でも違うよ、まあちゃんはわがまま言ってるだけだもん、と自信たっぷりな彼女に促されて、信之介は受話器を正信の耳に当ててやった。
 「…あぅう。」
 ひとしきり、受話器に向かってうーとかあーとか言ってから、ぷ、とつまらなそうに息を吐いた正信の耳から受話器を受け取ると、その向こうからは楽しそうに笑う奥さんの声が聞こえてきた。
 『まあちゃんたらね、どうしてもパパについていきたかったんだって。』
 もう気が済んだでしょ、って言っておいたから下ろしても大丈夫だよ、と言われた信之介が首を傾げる。今のやりとりで何がわかるのだろうか。
 「何で分かるんだ?」
 『何となく♪』
 赤ちゃんはね、言葉がないわけじゃないから。
 生まれたときから話しかけられて、本当はたくさんの言葉を持っていて、実は使ってもいるのだけれど。あるところまではそれがうまく伝わらないだけだから。
 お母さんにはちょっとだけ分かるのよ、と得意げにそう言って。
 じゃ、明日帰るからね、と明るく告げた声を最後に通話が途切れる。受話器を戻して、信之介はほう、と溜息を吐いた。
 何となくこわばっていた力がふうっと抜けて、苦笑したお父さんの背中で、息子さんがもぞもぞと動いて、小さな手でぎゅう、とお父さんのシャツを握りしめた。
 
 ───ちなみに、そのあと正信君はとてもお利口だったというお話。