樹海の糸
─────この祈りをのみ込むほど、深く暗い森の中で。
「…アンタは勝手だ。」
「そうですね、でもそれが俺なんです。」
ひび割れたような黒い瞳が俺を映す。もうひとつ奥の醒めた瞳が俺の言葉を値踏みするのを感じて薄く嗤うと、瞳の中の俺が醜く歪んだ。
俺を捨ててくれればいい。
忘れてくれればいい。
──────アナタの中の俺を殺して下さい。
─────別れましょう、なんて。
素直に頷いてくれるとは思ってなかった、自惚れかもしれないけど。
そのくらいは深くのめり込んでいた自覚はあったし、多分それは俺だけじゃなかったはずだ。互いに一度大事なモノをなくして、だから大事なモノを作るのに臆病で。
それでも気付けば互いが互いの裡に根を下ろし、想いが絡み合って鬱蒼と葉を茂らせている。
小さな樹海のように。
梢にそよぐ風は涼やかでも、葉陰に闇を秘めるようなその想いを、だから今の内に。
「…暗部に戻るように、と命が下りました。」
大蛇丸による木の葉崩しは、半ば成功したとも言える。壊滅は免れたとはいえ、多くの忍が命を落としたことで里の戦力は格段に落ちた。里の柱たる火影五代目は早々に決定され、表面上は落ち着きを取り戻したかに見えるが、見えないところで崩壊は始まっている。
とりわけそれが深刻なのは暗部だった。以前から弱体化が囁かれていたモノの、今回の事件で露見した現状は酷いの一言に尽きる。単独任務、或いは小隊での行動を基本とする暗部が形骸化し、戦術のみが突出して戦略が蔑ろにされていた。
一人一人の戦闘力は、落ちてはいるのだろうがさほど差はないように見受けられる。問題は戦略眼を持つ者が極端に少なく、応用が利かないということだろう。予想外の事態に陥ったとき、場当たり的な修正しかできないのでは意味がないのだ。
とりわけ、小隊単位での任務でそれをやられるとキツイ。一つ一つは大した変化でなくとも、重なれば蟻の一穴から城が崩れることもある。
忍は道具だと言われるのも確かだが、それでは生き残ることができない。
忍が、ではなく───────里、そのものが。
それゆえに、自分がそこへ帰らねばならないのだと俺は溜息をついた。
「だから?…それとこれとは関係ないでしょう?」
アンタ、今までだって暗部の任務をこなしてたじゃないですか、とイルカが食い下がる。上忍師の傍らで籍を抜かずに置いたことくらいは知っている、と今にも噛みつきそうな目で訴えるイルカを見下ろして、俺は笑った。
「今まではね、コドモの使いみたいな単独任務ばっかでしたから。」
正式に戻す、というからには、それしきで済むはずがない。あの五代目は強かだ、歴代の火影に劣らず。
『名前がいるんだよカカシ。』
こればっかりはお前じゃなきゃダメだ、と五代目火影が花のような笑みを浮かべる。その完璧に華やかな美貌の底で、赤みの強い茶水晶の瞳だけがひやりと冷たい光を潜ませていた。
『里を立て直すには力がいる。』
『それには暗部が手っ取り早い?』
『そうだ。』
まだ錆び付いちゃいないようだね、と細い指を組み替えながらツナデは目を細めた。
『勿論通常の任務もだが、ひとまずお前には戻ってもらう。』
『暗部で出戻りって聞いたことナイですよ、ツナデ様。』
『戻れるヤツがいないだけの話だ、使い物になって良かったなぁカカシ。』
何ですかそれは、と頭を掻く。収まりの悪い銀髪が揺れた。
『…俺、結構センセイって気に入ってるんですけどねェ…』
やれやれ、と肩を竦めると、ツナデが苦笑する。
『悪いね、ホントならお前にさせるコトじゃないのは分かってるんだが。』
『ま、仕方ないですね。』
────上忍、はたけカカシを暗部に任ずる。
「…俺はね、イルカ先生。」
誰かに待っててもらうのに慣れてないんですよ。
だから、あそこへ戻って誰よりも強くあらねばならないのなら。
愛しいという気持ちは枷になる。全てを振り切った先にある力が、自分の求めるものなのだとしたら。
────誰より強かった人と約束した。
「今度は俺が守らなくちゃいけないんです。」
ずっとそう思って生きてきた。自分にはそれしかないのだと。
辛くても怖くても、今度は守る側に立つのだと───あの日、四代目がそうしたように。
それでもアナタといると、自分も守られる側なのだと思う。守り守られることで得た強さは、確かに自分の中に根付いている、けれども。
貴方が待っていると思えば、自分はもう無茶はできないだろう。帰りたいと思う気持ちは、こちら側へと自分を引き留める。
守りたい、強くありたいと思うことと、帰りたいと思うことが両立できないとは思わないが、未練を捨てなければ闇へは戻れない。手繰る糸の先に光が見えると知っていて、樹海に生きようとする者があるだろうか?
そこに生きる場を見いだすなら、切り捨てなければ─────どんな細い糸でも。
「……イルカ先生。俺はもう、帰ってくるって約束ができないんです。」
だから、約束を守れない俺のことなんか、捨てちゃって下さい。
そう言って笑った俺を、イルカ先生は殺気すら滲ませた視線で睨みつける。
「…アンタは勝手だ。」
「そうですね、でもそれが俺なんです。」
ひび割れたような黒い瞳が俺を映す。もうひとつ奥の醒めた瞳が俺の言葉を値踏みするのを感じて薄く嗤うと、瞳の中の俺が醜く歪んだ。歪んだままの俺が、つう、と落ちるのに、俺は首を傾げる。
「ねェ、何でアナタが泣くの?」
たくさんの俺が落ちていく。
「…アンタの為じゃないことは確かですよ。」
黒い瞳は閉じられて、もう俺を映してはいないけれど。こうしてアナタの中の俺が消えていってくれるなら、悪くもないかと手を伸ばした。
「うン、ごめーん、ネ、イルカ先生?」
拭った指先をぺろりと舐めると、甘いような切ない味がした。
───────手繰り寄せる糸の先に、もうアナタがいない。
たった、それだけの、こと。