After,after Care

〜Please wake up 3〜


 無言で睨み合っていた視線を先に外したのは男の方だった。苛々と帽子をかなぐり捨て、絞り出すような低温で呟く。
 「…はい、そーですかってできるくらいなら、苦労しねぇんだよ…」
 乗り出していた躰をカウンターの椅子へどさりと投げ出すように預けた守護者は、未だ強い視線をぶつけてくる相棒を不機嫌に睨め付けた。人の苦労なんぞ全く分かっちゃいない、無邪気な望みではあるのだけれど───それこそ、「はいそうですか」と聞いてやるわけにはいかないだろう。
 「だってお前ばっかりずるいじゃないか!」
 オラクルの声が跳ね上がる。ちらちらと白い炎がはぜる雑音(ノイズ)とは裏腹に、どこか細く頼りない響きを含んで。
 「…だーかーらー、ずるいとかそういう問題じゃねぇんだって…」
 不規則に乱れて落ちた金の髪をがしがしとかきまぜながら、オラトリオは疲れたようにぶつぶつと零した。こちらにだってほいほいと乗れない事情というものがあるのだ。
  ───キスして?
 
 囁くように告げられたその言葉が、どれだけ人を煽るのか。タチの悪いことに当人の自覚は全くないときている。ふとした会話の弾みでぽろりと零れてきたそれに、つい素っ気なく返答してしまったのは、思ったより自分が動揺してしまったからだった。
 薄い唇の動き、眩く雑音(ノイズ)の瞳。僅かに傾げた首の描く滑らかな曲線に、ふうっと引き寄せられそうな気がして、振り払うように言った言葉が、オラクルを傷つけてしまうことは分かっていたけれど。
 それでも、一度触れてしまったらもう止められないだろうということも、自分は分かっているのだ。傷つけると分かっていて触れられるほど、オラトリオは自分勝手にはなれなかった───或いは臆病なのかも知れないが。
 「とにかく、好奇心なんかでねだるもんじゃねーの!」
 「…誰もそんなこと、言ってないだろう…」
 オラクルが棘を含んだ声で低く唸った。組んだ腕を苛々と指で叩きながら険しい表情で見下ろす賢者にしてみれば、何故オラトリオがここまで『それ』を拒むのか皆目見当がつかないだろう。だからと言って最初から説明してやろうと言う気は無論ないのだが。
 
 ───キスだけで済む自信がねーんだよ、俺は!
 
 反対にその先まで行ってしまう自信は売るほどあるときている。問題は行為ではなく己の理性なのだから、オラクルがどんなに言おうが折れてやる気はさらさらなかった──はずなのに。
 「───何で、駄目なんだ?」
 怒ったように言いながらも、ぴいんと張った糸のような響きが混じるオラクルの声に、オラトリオは溜息を吐いた。結局、自分はオラクルの望むとおりにしてやるのだろう。
 ───それが惚れた弱みというやつだ。
 「…しょうがねぇな、いっぺんだけだぞ。」
 
 念を押すようにそう言うと、オラクルは不満げに口を尖らせながらもほうっと肩の力を抜いた。子供のように意地を張って見せたところで、オラクルは本来我を張り通すことに慣れていない。そんな相棒と、それこそ子供のような言い争いをしてしまった気恥ずかしさが今頃やって来て、オラトリオは内心頭を抱えたくなった。
 
 ───この際、間に来客があったことは忘れよう。
 
 脳裏にちらちらと蘇るご令嬢と末弟の姿を遠く記憶の隅に押しやりながら、男はそうココロに決める。とりあえず今は目の前のこの大問題を片づける方が先だ。
 先ほどまでの頼りない風情はどこへやら、一転わくわくと心弾ませる表情で身を乗り出した賢者にくらりと眩暈を覚えながらも、オラトリオは高鳴りかけた動悸を誤魔化すようにひとつ咳払いをした。
 「お前な、目ぐらい閉じろ。」
 「…うん?」
 きょと、と一瞬瞠った雑音(ノイズ)の瞳が素直に隠れる。 オラトリオは深呼吸をすると、思い切ったように目をつぶって触れるだけのキスを落とした。
 ───僅かに額を掠めるほどの。
 
 「え…?」
 一瞬近づいた気配に潜めていた息を吐くように、そう小さく漏らしたオラクルが目を開ける。その咎めるような響きにオラトリオが肩を竦めて見せた。
 「これでいいだろ。」
 ちゃんとしたぞ?と念を押してくるオラトリオに、青年はむ、と面白くない表情を浮かべた。
 「…よくない!」
 くってかかってくる青年を適当にあしらっていたオラトリオは、一瞬後に『がん!』と盛大な音を立ててカウンターに懐く羽目になった。
 「ここに!してくれなきゃ駄目なんだってば!」
 そう言ったオラクルが、自分の唇を指さしているに至っては。
 
 ───誰か何とかしてくれ…
 
 思わず泣きが入ってしまったとしても、おそらく誰も同情はしてくれないと思うが。オラトリオは痛む額をさすりながらようよう身を起こした。
 「お前、どこでそんな馬鹿覚えて来やがった…」
 「馬鹿とは何だ。」
 再びご機嫌を損ねた賢者殿は、心配のカケラも見あたらない表情で冷たく見下ろしている。  「…これが馬鹿じゃなくて何だって?」
 「キスは唇にするのが本当なんだろう、何が馬鹿なんだ!」
 「馬鹿だから馬鹿って言ってんだよ、この世間知らず!」
 俺がお前にできるわけねーだろっっっ、と叫んだオラトリオに、オラクルも負けずに言い返した。更にドツボである。
 「私はして欲しいんだ!」
 「…だからそーいうことをほいほい言うなって言ってんだっっっ!」
 ばん!と両の掌をカウンターに叩きつけて立ち上がったオラトリオに、一瞬気圧されたオラクルは、それでも気丈に男を睨み返した。雑音(ノイズ)に青白く混じる色が、オラクルの怒りをそのままに伝える。怒りに上気した肌の色、悔しげにかむ唇が僅かに色づく様がオラトリオを誘った。振り切るように目を逸らした男は、だから青年の次の行動を予想できなかったのである。
 「…もういい。」
 低く底を這うような小さな呟きが聞こえたかと思った次の瞬間、オラトリオは襟元をがし、と掴まれた──と思う間もなく。
 
 柔らかい感触が唇に触れた。
 
 ほのかな温もりが薄い唇をなぞり、吐息が肌を擽る。抗議に開きかけた唇からすべり込んできた舌がぎごちなく唇を辿る動きに、背筋を撫で上げられて。
 その熱が移りきらぬうちにふい、と離れたそれをオラトリオはまじまじと見つめた。
 
 ───ちょっと待て、何だ今のは!
 
 「…最初からこうすれば良かった。」
 ごしごしと拳で口元を拭いながらそう言うと、オラクルはくるり、と踵を返した。そのままプライベート・ルームへすたすたと引っ込んでしまった相棒に一人残された男は、気が抜けたようにすとん、とカウンターの椅子へ腰を落とす。
 「────やられた。」
 引き下ろした帽子の影でくつくつと笑いながら、オラトリオはそうこぼした。
 
 ───やっぱり、あいつには敵わない。
 
 
 恋愛は、惚れた方が負けだと言うけれど。
 ───或いは『負けるが勝ち』ということもあるのだ。
 
 それは二人だけの秘密である。