だってたとえば
 私がいなくなるときには
 
 
 身のうちを走り抜けていくその感覚は、氷のように冷たくも炎のように熱くもあった。
 
 ─────Emergency〈緊急信号〉!
 
 すう、と青褪めた〈ORACLE〉の画像が急激に乱れる。CGの乱れたオラクルにオペレーターが不審げに呼びかけるのと、小さく舌打ちして踵を返したオラトリオに二人のHFRが驚きの声を上げるのとは、ほぼ同時だった。
 「オラクル?」
 「オラトリオ!?」
 オラトリオが命じる前に、重い扉は開きかけている。焦りがそう感じさせるのか、そのスピードは常よりも格段に遅いような気さえして、男は内心で歯噛みした。ゴォン、と閉まる音さえ苛立たしく通路を走り抜ける。忙しない靴音が薄暗い廊下に反響して、よりいっそう焦燥感をつのらせた。
 「…こんな時にっ!」
 よりにもよってツアーの最中に、とオラトリオは吐き捨てる。それは拙い、と何度も自分は警告したはずだ。ツアーが行われている間、ある意味で《ORACLE》は無防備なのだから。
 思考回路を浸食するごとく、けたたましく鳴り響き続けているそれが、より苛立ちを煽る。『侵入者』を知らせるEmergency Call、視界を赤く染めるようなその禍々しさ。明滅するそれに目眩さえ感じながら、オラトリオは自室までの近くて遠い道のりを駆け抜けた。こんな時でも融通の利かないセキュリティ・システムをくぐり抜け、手袋をはめ直しながらコンピューターの前に飛び込む。
 杖を接続すると、コンピューターから自動的に、潜入するための接続コードが吐き出された。手早くジャック・ポッドにそれを差し込み、意識を電脳空間に落とす。
 『たたきつぶしてやる!』
 ────完膚無きまでに。
 閉じたまぶたの奥に、白い炎が燃える。ノイズを曳いて翻るコートの裾が僅かに残像を曳いた。CGを構築する間も惜しんで見開いた紫雷の瞳に、歪む空間が捉えられる。低くのたうつような地響きとともに、闇が歪んで現れた。
 「…わりぃな、とっとと片ぁつけるぜ。」
 機械語の詠唱に、構えた杖が渦を巻く。電脳を越えて、現実空間のコンピューターを灼きはらうための巨大な負荷。誰に耐えられるはずもないそれを、ただその一点に叩きつける。
 
 ──────ドォ…ォン!
 
 轟音が響き、粉塵が視界を塞ぐ。確かな手応えに男の口の端が僅かにほころんだ。
 「…終わったぜ、オラクル!」
 消え失せたはずのそれ、に。
 油断していたと言えばいいのだろうか。
 スゥ…と現れたそれに、反応が一瞬遅れたのは確かだった。
 青白い細い指が、ずるり、と絡む。
 冷たい、と思ったのはほんの刹那で。
 『…しまった…!』
 ひやりと背筋を滑り降りていく冷たいモノが、まとわりつくその女の身体とともにオラトリオの全身を捕らえた。身の底から吹き上げる冷気が全てを縛る。
 『つかまえた!無敵の守護者!!』
 落ち窪んだ眼下の奥には漆黒の闇。うっとりと呟く女の腕が、男の首をかき抱くようにするりと伸ばされた。半透明に透き通った硬い肌が、濁った氷水を思わせる。次第に凍り付いていく思考回路が、ひとつの答えを導き出した。
 『こいつの狙いは…俺、か…?』
 
 
 
 ──────────眠れ、と声がする。
 
 深い深い氷の底、凍りつく奈落の闇。
 
 『オラトリオ!』
 
 遠くなるその呼び声こそが我が主────────?
 
 では、眠れと囁くこの声は。
 
 
 
 
 ゆっくりと、男の瞳が閉じられていく。
 音もなく。