| Under the Moonlight |
「正信、おめぇなー…」
「『先生』だろう、オラトリオ。」
涼しい顔で通算何十回目かの駄目出しをして下さった講師先生は、丸めた楽譜で出来の悪い生徒の頭をぽこりと叩いた。
「ただ譜面通りに弾くだけじゃ、駄目だって言ってるじゃないか。」
まったく覚えの悪い、とこれ見よがしな溜息までおまけに付ける辺りがコイツのやなトコだ、とオラトリオは内心に呟く。途端にもひとつぽこりと叩かれて、男は居住まいを正した。
「へーへー、わっかりやしたよ〜…ったく、点がかれぇんだから…」
「君が高望み過ぎるんだろう?」
ぶつぶつとこぼしながら譜面をぱらぱら捲り始めたオラトリオに、正信が呆れたような目を向ける。大体、それぞれの目的に合わせて設計、調整されているHFRに本来の業務以外のことをやらせるのは至難の業なのだ。それをここまで弾くということは、A-O〈ORATORIO〉という機体がどれほど高性能を誇るかという証明にはなるのだが。
「…『見える』ように弾きたいなんて10年早いよ。」
僕が優秀な教師だってことを差し引いてもね。
───いっぺん殴ったろかこいつ。
ぐ、と心に拳を握りしめてしまったオラトリオである。思えば最初の最初から気に入らないヤツではあったのだが、師と選んだからには多少の欠点には目を瞑らなくてはなるまい。
「譜面通りに弾く、ってことならすぐにも合格なんだけどね。」
流れ始めた旋律に肩を竦めながら、正信は呟いた。譜面なしで弾くだけなら、オラトリオは既にできている。しかしそれがオラトリオの望んだものと違うということも、正信には分かっていた。
『誰に見せたいんだか…まぁ聞くまでもないけど。』
彼にとっての『ただひとり』を思い浮かべて、くすりと笑う。まだまだ半人前と思っていたのが、なかなかいっちょまえになってきたと思えば、裏にはそんな事情が隠れていたらしい。
『──まあ、守るモノができれば『男』になるって言うからねぇ?』
いつまでも『男の子』じゃいないってことですよ、奥さん。
どうして相談してくれないのかしら〜、とつまらなそうにしていたみのるさんを思い出して、正信はふわりと優しい光を瞳の奥に浮かべた。いかに不肖の弟子とは言えど、まあそれなりに成長してくれれば嬉しいモノなのだ。
「腕の方は上がんないけどね…そこ違うよオラトリオ。」
「…違わねーだろうが!」
譜面(データ)通りに弾いてるぞっっ!と憤る彼の主張は確かにその通り。けれどもデータにならないものこそが、オラトリオの求めるモノで。だからこそ妥協はしないと正信は決めていた。
───いや、鬼教師という自分の役どころが気に入ったせいも多分にあるのだが。
「…やれやれ、ホントに手のかかる生徒だ。」
「わぁるかったな〜!」
どうせ俺は出来が悪いよー!とぶすくれた守護者を、正信は思いきりごち、と殴りつけた。
「…あにすんだてめー…」
「君が出来が悪い訳ないだろう、甘えたこと言ってるんじゃないよ。」
父さんの作ったロボットが出来が悪い?
右手を痛そうに振りながら、正信がこぼす。 オラトリオは苦笑した。
「…ごもっともで。」
『音井ブランド』のひとりとして、十分すぎる性能を与えられていると思う。それを出来が悪いと卑下しては、生みの親に対して失礼だろう。
「けど、難しいモンは難しいんだよ…」
間違いじゃないけどできない、論理の魔術。0と1じゃない、ONとOFFじゃない世界なんて、果たして自分たちに可能だろうか。
とほー、と肩を落とすオラトリオの頭を、正信が軽く小突いた。
「…少し休むかい?」
煮詰まったときに続けても良い物はできないからね。
そう言われて、オラトリオは大きく伸びをした。根を詰めてやっていると、ロボットでも肩が凝るような気がするのがおかしい。 くすり、と笑った正信が、ピアノの天板の上に置いてあった本をぱらぱらと捲った。
「さて、じゃあ休憩の間にヒントをあげようか。」
今オラトリオが悪戦苦闘しているのは、『Clair de lune』、クロード・アシル・ドビュッシー作曲の『ベルガマスク組曲』の第3曲である。
「この曲の演奏について、作曲者の注文は実に抽象的だ。」
捲っていた指である一節をなぞると、正信は悪戯っぽい光を眼鏡の奥できらめかせた。
「『Andante tres expressif』だって言うんだから。」
「歩く速さで、しかも表情豊かにって…ヒントかそれが。」
確かに書いてあるけどよ、とオラトリオは困惑に眉を上げる。正信がその様子に肩を竦めて見せた。
「僕のじゃない、作曲者のヒントだよ。」
そう言いながらもにやにやしているところがこの教師の意地の悪いところだ。結局自分で到達しなければ身に付かない、という彼なりの哲学ではあるのだが。できるはずのことには絶対手を貸さない。君なら分かるはずだというその無言の促しに、オラトリオはぽりぽりと頬を掻いた。考えようによっては信頼と取れなくもないそれは、結構嬉しかったりもしたので。
「ん〜、歩く速さってのがまず難しいな。」
人それぞれでいいってことか?と確認すると、正信がぱちぱちと手を叩く。
「うん、良いセンだ。」
「次は表情豊かに、ってか…?」
表情表情、とぶつぶつ呟くオラトリオは、不意にがしがしと髪をかき回していた手をぴたりと止めた。
「待てよ、何で歩く速さなんだ?」
「何でだろうね。」
涼しい顔のツッコミを受けて、オラトリオの顔が難しくなる。つっこんで来たと言うことは、そこが問題なんだよ、というヒントでもある。オラトリオは脳裏に楽譜を呼び出した。ざっと高速で流すと、速度に関する記述は幾つか在るが、そのいずれも『歩く速さ』よりはゆっくりである。今までもただその通りに弾いてはいたが、それを単なる演奏記号としてではなく、作者の注文として考えるならばどうだろう?
「…そういうことか。」
「言ってごらん?」
面白そうに正信が笑う。ほうら、できただろうと言わんばかりの表情で。
「月明かりの下を歩くように、てことなんじゃねーか?」
薄くしろい光の下を歩くように。月光に照らされて青く染まる空気、月白に輝く景色。時には弾むような足取りで、時には立ち止まってあたりを眺めながら。
初めて月の下を歩いたときのことを思い出しながら、オラトリオは己のセリフに照れたように小さく笑った。
「…正解♪」