| ぼくとぼくの日記 |
「…だぁから、そうじゃねっての。」
白い大きな手袋が、小さな手を上から包んで押しとどめた。のろのろとのたくっていたぎごちない線がふつりと途切れ、きょとんと瞠った大きな瞳が男を見上げる。
「どこがちがうですか、オラトリオおにーさん?」
どこも何も、脇に書いてやった手本の字とまるきり違うじゃねーか、と苦笑したオラトリオが、膝の上に広げたスケッチブックにちびの手を置いてやった。
「いいか?…最初はこう横に引くだろ?次に縦棒がこう来て、右からこうくるっと丸く…ほれ。」
上から持った手で一緒に『あ』の字を書いてやると、ちびがぱちぱちと手をたたいて喜ぶ。 やれやれ、と苦笑しながらちびの練習風景を眺めていたオラトリオは、ややあってはて、と首を傾げた。
「しっかし、なんでまた字の練習なんか始めたんだちび?」
「ぼくの字が読めないので練習しろって大きいシグナルくんに言われたです!」
夢中で練習しながらちびが言うセリフに、男が余計首を捻る。大きい方のシグナルとちびとの間に意志の疎通があったとは初耳だ。いつどこでどうやって言われたものやら、とにかく何らかの方法を見つけたらしい。
「…まあ、これじゃ読めんだろうなぁ。」
そこ違うぞ、と指摘してやりながら苦笑混じりにそう呟く。悪筆はよく『ミミズがのたくったような』と評されるが、ちびの筆跡はのたくったミミズと言うより絡まったヘビに近い。それを読むのはいくら元が同じとはいえ、確かにちょっとした暗号解読作業だろう。
「オラトリオおにーさんにも読めないですか?」
ちょっと傷ついたような顔で後ろ向きに見上げてきたちびの頭を、ぐしぐしと撫でてやったオラトリオは、その片頬を笑みに歪めた。教えてくれと言われて、一通り書かせた五十音のひらがなは、文字と思えばそれなりに共通したパターンがある。およそ地球上に存在するありとあらゆる言語、あらゆる文字を知るオラトリオにしてみれば、いかに滅茶苦茶に見えようと、『日本語』という枠の中にあると分かっているのだから、解析するのはさほど難しいことではない。
「いや、だいたい憶えたぜ?」
お兄さんは特別だからな、と片目をつぶってみせると、ちびがほっとしたように笑う。
「よかったです♪」
さすがはオラトリオおにーさんですねぇ、と持ち上げられて満更でもなく。シグナルたちが何を始めたのか知らないが、どうせ動けないのだから、こんな暇潰しも悪くはないだろう。どのみちまたささやかな騒ぎになるのだろうと、ひらがなをひとつひとつ教えながら、男は肩を竦めて苦笑した。
「…それが、『交換日記』とはねぇ…」
文通に交換日記ときては、まるで初々しい恋人同士のようだな、と苦笑する。かくかくしかじか、と明かされたシグナルたちの『ひみつ』は、ばれてみれば何のことはない。ちびとシグナルの非常に原始的な意志疎通手段だったわけで。
なあるほど、とひとつ頷いたオラトリオは、意地の悪い笑みで弟をからかった。
「俺って縁結びの神様だったわけねっ♪」
「ちっが───ううっっ!」
愛じゃなーいっ、と喚きながら逃げ去る大きい方の弟をにやにやと眺めながら、オラトリオはちびのスケッチブックをぱらぱらと捲った。
ちびの置き忘れたスケッチブックに記された、間違いだらけの拙い文字。
ちびはちびなりに、シグナルのことを考えて一生懸命だったのだろうと、オラトリオは知らず『兄』の表情を浮かべてそれを眺める。
『ありがとつです』
最後に記されたその言葉だけは、オラトリオの為のものだけれど。
間違ってるのはご愛敬だけどな、と男は小さく笑ってぱたり、と表紙を閉じた。