展覧会の絵


 
 この話はとある日とある時、とある所でのこんな会話から始まる。
 ───絵というのは面白いモノですね。
 「…どういう意味だ?」
 ───同じ物を描いても同じにはならない、
   同じ絵を見ても同じように感じるとは限らないでしょう?
 「まぁそうだな。」
 ───まるで…のようだと思いませんか?
 「…? 君とA-Oのことか?」
 ───まあ、そうとも言えるでしょうね。
 「…それと君のその落書きがどう関係するんだ。」
 ───ホーン…科学者にも芸術的素養は必要だと思いますがねぇ…
 
 
 
 電脳空間の一画、上位空間に位置する研究機関専用ネット《ORACLE》。壮麗な白亜の館を模したその中央、カウンターのあるホールへとやってきたオラトリオは、カウンターの上へ無造作に置かれた絵画に気付いて首を傾げた。
 「こんな絵なかったよなぁ?」
 指さしてみせる男に、館の主は困ったように笑って答える。
 「うん。貰い物なんだけど、ちょっとね。」
 オラクルの表情に首を捻りながらも、オラトリオは頬杖をついた躰を絵の方へと向けた。絵画にはさほど造詣の深くない彼ではあるが、それでも一通りの知識は持っている。この絵が『嘆きの聖母』と呼ばれる有名な宗教画であることぐらいは知っていた。
 本来は油彩画であるはずが、これは淡く水彩で彩色されているものだったが。
 あまり陰影のきつくない水彩は、オリジナルのそれよりもひとの穏やかな表情を際だたせているような気がした。いくつもの色が重なり滲んだ複雑な、それでいて透き通った画面のいろは、心までもあらわすかのように揺れて見える。
 そして、静かに我が子を抱く母の貌に重なる面影。
 「…気に入った?
 おずおずと聞いてくる青年にくすりと笑って、オラトリオはひらひらと手を振って見せた。
 「まぁな…悪かない。」
 お前が気に入ったんならその辺に飾っとけば?
 そう言うと、オラクルはほっとしたような、ちょっとだけ困ったような貌をした。
 「…いいのかな。
 「何で?」
 もらったんだろ?と訝しげに見上げると、雑音(ノイズ)の惑う瞳とぶつかる。気に入ったにしては珍しい反応に、男は首を傾げた。おそらくずいぶんとこの絵を気に入っているのだろう青年は、どうしたわけかそのことに困惑しているらしい。
 「飾ったらまずいのか?」
 こっちが駄目ならプライヴェート・ルームの方でもいいぞ?と言うと、オラクルは慌てたように首を振った。
 「あっちには飾りたくないんだ…飾るならここにしようかと思うんだけど。」
 歯切れの悪い返答にオラトリオが眉間へ皺を寄せる。ますますもって不可解な反応に何だか嫌〜ぁな予感が漂い、それを誤魔化すようにひとつ咳払いをして、オラトリオは相棒の顔を伺うように覗き込んだ。
 「…聞いてもいいか?」
 ひとつきょとんと瞬いた瞳をまじ、と見つめて男はその嫌な予感の正体を確かめる。本当は確かめたくなんぞないのだが。
 「この絵、誰からもらった?」
 返る返答は予感を裏付けるモノだった───有り難くないことに。
 「クオータ、なんだけど…」
 
 オラトリオがすぐさまその絵を梱包し直したことは言うまでもない。
 
 「…あの野郎、何考えてやがる。」
 何重もの梱包でぎゅうぎゅうにした上、隅に立て掛けたそれを忌々しげに睨み付けて紅茶を啜るオラトリオに、オラクルは苦笑をもらした。ふわん、と立ち上る湯気に目を細めて男を窘める。
 「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。」
 唯の絵なんだし、と笑って見せると、オラトリオが少し決まり悪げに目線を逸らした。
 「…それはそーなんだけどよー…」
 何考えてるんだかさっぱり分からん、と呟いてがしがしと髪をかきやる男にオラクルが手を伸ばす。よしよし、と頭を撫でる片割れに嫌な顔をして、それでもその手を除けようとはせずにオラトリオはぺたりとカウンターに懐いた。
 《ORACLE》をハッキングし、門外不出の〈SIRIUS〉と〈MIRA〉のデータをコピーして持ち去ったあの男。まんまと出し抜かれただけに、苦手意識というか対抗意識というか、まず嫌悪感が先に立つ。くそ忌々しいすかした面(同じ顔だが)といい、いけ好かない丁寧な口調といい───連想させるモノまでが全て厭わしいというのに。
 ───何故そいつの選ぶモノは嫌いじゃないんだろう?
 多分それはオラクルも同じはずだ。
 元が同じ電脳ということがあるからか、微細な部分では食い違いもあるものの、大体においてオラクルとオラトリオの嗜好は似通っている。とりわけこういった芸術品の部類でそれは顕著だ。本来それを必要としないはずのオラクルが、それを持つようになったのはオラトリオの影響で。だから多分オラクルもこの絵を気に入ったのだろう。
 ハッカーを思い出させるものを、手元に置こうかと迷うくらいに。
 くしゃくしゃと髪を遊ばせている指先をそのままに、オラトリオはすっかり落ちてしまった前髪の間から己の片羽を見上げる。僅かに笑んで見下ろす表情に絵の中のひとの面影を見つけて、男は苦笑した。
 「…どうかした?」
 「いや、何となくお前に似てるなぁ、と思って。」
 やっぱ飾っとくか、と言うと、オラクルは訝しげな色をその瞳に落とす。
 「私?」
 似ているのはお前だろう、と青年が続けるに至って、オラトリオはがばりと跳ね起きる。何だか途轍もなく気色悪い台詞を聞いたような気がするのだが。
 「俺?」
 「そうだよ?…全ての痛みを引き受けていながら、静かな貌で居られる強さなんて」
 お前そのものじゃないか。
 どこか寂しげにそう言いながら、にこりと笑うオラクルに目を白黒させながら言葉を探して──オラトリオは薄く溜息を吐いた。 


 ───所詮紙切れ一枚、布きれ一枚のことかも知れませんがね。
 描き上がったそれを見ながら、クオータは珍しく苦笑を漏らした。
 ───こうしてみると、我々にも0と1以外の世界があるのかも知れませんねぇ。

 謂われを語ることもなく、送り主の名もとどめず。静かに壁に飾られたその絵を、誰が気にすることもなかったけれど。
 その日から、《ORACLE》には一枚の絵が飾ってある。